(4)嬉し愛し(うれしかなし)

「GPSで居場所が判明したからいいようなものの……、手間かけさせるんじゃないわよ!」
「ごめん……」
 唖然として彼らを傍観していた陽介は、ぽつりと言った。
「……貴美香(きみか)だ」
「誰?」
「ほら、僕が駅でコーヒーをぶっかけられた……。五月の末だったかな。君に見られちゃっただろう?」
「ああ、あの人か。でもなんで?」
「さあ」
 自分はオメガだと噓をついて陽介に近寄ってきた女。橋口と知り合いのようだが、なぜ突然、こんなところで派手な喧嘩が始まるのだ。喧嘩というか、貴美香による一方的な行為だが。
 騒ぎを聞いて、店員が飛んできた。
「おやめください、お客様!」
「……お願い。ここではやめて、貴美香。警察呼ばれちゃうよ」
 橋口はおずおずと貴美香に哀願する。
「下僕が指図するな!」
「ごめんね。でも、貴美香に捕まってほしくないから。場所を変えよう。この人たちに、せめてちゃんと説明しないと」
「……」
「迷惑かけたんだから、ね」
「後で覚えてるのよ」
「うん。僕になら何したっていいよ」
 そのとき、橋口は淡く微笑んだように見えた。貴美香が渋々上をどくと、橋口は起き上がる。
「とりあえず出よう」
 彼は椅子を起こして店員に頭を下げ、伝票を持ってレジへ向かう。
 伊月と陽介は、どうしたものかと顔を見合わせた。
「何が起こったんだ?」
「さあねえ。とりあえず、ついていくしかないんじゃない」
「ついてってもいいのか?」
「でも、ここで逃がすわけにも……。怪しいところに入ろうとしたら止めよう」
 行くしかない。この件を解決しないことには前には進めないから。
 注文したコーヒーは一口も飲まないまま、店を出ることになった。

 橋口と貴美香は、隣の通りのカラオケボックスに入っていく。個室で話の内容が漏れにくく、貴美香が大声を出しても迷惑になりづらい。なかなかいい選択だ。
 運良く部屋が空いていたようで、待たずに入れた。橋口がドリンクバーで四人分の烏龍茶を用意して戻ってきたところで、口火を切ったのは陽介だった。
「……で、説明してくれるんですかね」
「そうした方がいいと思うよ、貴美香」
「指図するなって言ってるでしょ!」
 また貴美香は橋口に怒鳴る。橋口は彼女に重大な弱みでも握られているのだろうか。いくら細身でも橋口の方が体格はいいのだから、貴美香の横暴にはいくらでも抵抗できると思うのだが。
「君たちは知り合いだったの?」
 陽介の問いに、橋口は答えていいか確認するように貴美香を見る。彼女は何も言わない。
「番なんだ、私たちは」
「そこまで言っていいとは許可してない」
 貴美香は橋口の足を蹴る。ヒールの高い靴だから痛そうだが、蹴られた本人は顔をしかめることさえしない。
 橋口と貴美香が番? 橋口はオメガだから、貴美香はアルファか。添い遂げると誓い合って番になったはずの二人が、どうしてこんなに不仲なのだ。
 それに、貴美香が陽介にアプローチしていたのはどういうわけだ。番がいると、他に手出しできなくなるのではなかったのか。
 貴美香は吐き捨てるように言う。
「こんなのと番になんてなりたくなかったのよ。家庭教師のくせに、教え子の家で突然発情期になるなんて……。私、まだ高校生だったのよ。あれから私の人生滅茶苦茶なのよ」
「ごめん……。ごめんね」
「そういうとこも大嫌い。何かにつけて、ごめんねごめんねって押しつけがましい」
「ごめん」
「謝るなって言ってるでしょ!」
「喧嘩はよそでやって。この件には貴美香も関わってるって事でいいの?」
 ここで無理やり割って入れる陽介の度胸もすごいと思った。隣の部屋の歌声が耳に入ってこなくなるほど緊迫した空気なのに。情けないことに、伊月は小さくなって座っているだけだ。
 貴美香はフンと鼻を鳴らす。
「そうよ。でも、謝りませんからね!」
「振られた腹いせ? で、番を使ったわけか。そんなに僕ひどいことしたかな」
「オメガじゃないから嫌だって言った」
「言ってないよ。オメガだと噓をつかれたのが嫌だと言ったんだ」
「結局同じことじゃないの。私がオメガじゃないから振ったんだわ。まったく、あなただけじゃない、アルファ男は誰も彼もオメガばかり有り難がる。その子だってオメガでしょう。保険証を見たわ」
 射るような視線が伊月を刺す。貴美香は同じ大学らしいが、コーヒーぶっかけ事件以来、一度も接触はない。保険証を見られる機会などなかったはずだ。
「……え、どこで?」
「あなた、財布落としたでしょ。それ、拾ったの私だから。置き忘れたところから見てた。陽介くんに振られた後ぐらいから、陽介くんのマンション周辺でよく二人でいるのを見かけて、私に勝ってるなんてどんな奴だろうって探偵雇って調べさせてた。ベータだってことだったから、陽介くんはオメガじゃなくても付き合うんだと思ってたら、案の定オメガなんじゃない。財布の中の保険証を見て愕然としたわ。オメガ男はアルファ女と同じ両性なのに、オメガばかり守られて、大事にされて、アルファはアルファというだけで強くあることを求められる。そんなの不公平だわ」
「それで嫌がらせしてやろうって? 完全な逆恨みじゃん」
 陽介は烏龍茶に差したストローを回し、カラカラと涼しげな音を立てる。その緊張感のない行為を腹立たしげに睨みつけ、貴美香は膝の上で拳を握った。
「あなたに私の気持ちはわからない。同じアルファでも、男と女じゃ全然違う。アルファというだけで周囲から期待される一方で、両性だって奇異の目で見られる。『半分は男』って何度言われたことかわからないわ。昔から大嫌いなのよ。男に媚びて生きるオメガも、アルファであることをただただ享受できるアルファ男も」
「アルファ男が大嫌いなのに、僕にアプローチしたの?」
「オメガを好きだって言ってる馬鹿な男を落とせたら面白そうだと思ったの。それだけよ」
「甚だ迷惑な話だね。僕にもアルファの妹がいて、同じように差別的なことを言われることもあるようだけど、君のように誰かに腹いせするとか考える子じゃないよ」
「私だってそうだったわ。嫌いではあったけど、何かしようなんて思わなかった。でも、番が出来てからおかしくなったのよ。大嫌いなオメガと夫婦だなんて絶対嫌なのに。離れようとしてもこいつは足にすがりついてくるし、私は本気では振り払えない。散々だわ。オメガも、オメガを有り難がるアルファも、ますます憎くなってきて……」
「君らの事情に僕たちを巻き込まないでよ。聞けば聞くほどこっちには非がないじゃん。あの投稿消して。写真のデータも。もうかなり広がっちゃってるから無駄かもしれないけど……」
 それを聞いて、橋口はがさごそと自分の鞄をあさり出す。
「そのことだけど、あれは火曜日の夜に投稿して、騒ぎになった水曜日の夜には削除した。写真のデータはこの中。他の媒体に保存してあるものは全て消した」
 テーブルの上に置かれたのはUSBメモリだ。これがまた女王様の怒りを買った。
「弘実! また勝手なことして!」
「駄目だよ。やっぱりこんなこと。君が言うならと思って協力したけど、君だって本当はこんなこと望んでないだろう」
「うるさい! あんたは私の言うことを聞いてればいいのよ!」
 貴美香は橋口の頬を張る。例によって橋口は一切動じない。ずれた眼鏡を直しただけだ。叩かれた頬が赤いが、本当に大丈夫なのか?
 揉めている隙に、陽介はUSBメモリを回収する。
「あのさあ、公開プレイはよそでやってくれる? 見たくないから」
「あの二枚の他にも、探偵の撮った写真データが入ってる。あとは私との写真も」
「お前の写真なんかいらないよ」
「投稿直後は三枚の写真を乗せてたんだ。君たち二人が写っている二枚と、私と葛城くんの同じような写真」
「もしかして……」
 同じような、ということは、キス写真ということか? 学内で橋口と再会したとき、何の脈略もなく突然キスされた。あの時撮られたのだろうか。
 橋口は首肯する。
「ああ。他の男との写真もあった方が、ビッチという言葉に信憑性があると貴美香に言われて、大学まで出向いた。その時まで知らなかったんだ。葛城くんが以前助けた子だったってこと。悪いなと思いながら、葛城くんを貴美香の隠れている場所まで誘導して、写真を撮れるようにした」
「そんなことで人のものに簡単に手を出すな」
 刺し違えてでも、という陽介のセリフを思い出し、一瞬緊張したが、彼はテーブルの脚を蹴っただけだった。
「それは申し訳ないとしか言えない」
「で、その三枚目はなんですぐ消したの? いや、消してくれた方がよかったんだけど」
「胸くそ悪いからやっぱり消せって貴美香が言ったから」
「何でもご主人様の言いなりなんだね」
「貴美香の人生を狂わせたせめてもの償いだよ」
「あっそう。言い忘れてたけど、ここに来てからの会話、録音してるから。消すつもりはありません」
 それは今朝聞かされたので知っていた。さすがの貴美香もこれでしおらしくなるかと思ったが、彼女は不遜な態度を崩さない。
「流すなり何なり好きにすればいいわ。痛くも痒くもない。私、もうすぐ海外留学する予定で、就職も向こうでするつもりなの。いつまでも性別に囚われた前時代的なこの国にはもううんざりよ」
「そんなの聞いてない……」
 橋口の顔つきが強張る。今日一番の表情の変化だ。女王様は居丈高に命じる。
「あんたも来るのよ。当然じゃない」
「でも、仕事が」
「黙ってらっしゃい。下僕のくせに」
 一方的で無茶な要求にも、橋口はそれ以上異議は唱えず、わかったと頷いた。

 騒々しい面会の後、伊月たちは外で昼食を取り、スーパーで買い物してから陽介宅に帰ってきた。
 二人とも疲れ切っていたので、帰るなり昼寝をし、その後夕方までは特に何をするでもなく、ぼんやりごろごろして過ごした。橋口と貴美香のことは、どちらも口にしない。リラックスした時間に水を差す気がしたから。
 五時頃から、夕飯を一緒に作った。夏穂のレシピでカレーだ。材料を切って煮込むだけではあるのだが、玉ねぎをどちらが切るのか、シメジは洗うのか、人参の皮を剥くのかなどで揉め、思ったより時間がかかってしまった。
 頑張った甲斐あって美味しくでき、明日の分を残さず二人で食べきった。
 食事の後片づけや風呂、寝る前の諸々の準備が終わったあと、だらだらとテレビを見て、ベッドに入ったのは十二時過ぎ。
 間接照明だけつけて、狭いベッドに二人、向かい合わせで横になる。窮屈ではあるものの、常に身体のどこかしらが触れあっているので、体温を感じられて安心する。
 眠くないわけではないが、目は冴えていた。まだもう少し喋っていたい。明日は日曜日だから、まだ大学には行かなくていい。あと一日はゆっくりできる。
「今日のこと、夢に見たらどうしよう」
「ああ、それ僕も思った。あんな変態カップルの公開プレイを見せられたんだからねえ」
「あれってプレイなのか? 蹴ったり平手打ちしたり、完全なDVに見えたけど」
「プレイだよ。償いだとか言いながら、叩かれて喜んでたじゃん、橋口。あれは多分ああいう(へき)なんだよ」
「喜んでたかなあ」
「僕にはそう見えたよ。貴美香の方も、橋口と君のキス写真に胸くそ悪いと言ったり、留学先についてくるよう言ったり、なんだかんだで橋口のこと気に入ってんじゃない。今頃、お仕置きプレイでもして盛り上がってるよ」
「あんまり想像したくない……」
「僕も」
 夢に見そうな要素を追加しないでほしかった。
 意識的にやっているのかどうかは不明だが、陽介はまた親指の腹で伊月の唇を撫でている。他の男とキスしたことが、やはりまだ気になるのだろうか。
「……あの人たちのこと、刺し違えるまではないとしても、殴りかかったらどうやって止めようかと思った」
「あの様子だと、殴られたって蹴られたって、橋口にとってはご褒美になる気がしてさ。貴美香は猛獣並みに気が強いみたいだけど、一応女性だから。でもなあ、何らかの制裁は加えたいところだよ」
「もう何もしてこないだろうから、いいじゃん。橋口さんには発情期のとき助けてもらった恩があるし」
「伊月は心が広いね。僕は君を傷つけた奴らのこと、そう簡単に許せない」

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