(4)嬉し愛し(うれしかなし)

 すでに母親はたらし込んだらしい。陽介は、ただいまご紹介にあずかりました、とばかりに出ていく。
「お邪魔しています。すみません。ついついこんな時間まで話し込んでしまって……」
「あら、いいのよー。お父さんったら、ノックは忘れないでって言ったのに、突然入っちゃったみたいでごめんなさいね。この人いつもそうなの。しかも、晩ご飯出来たから呼んで来てって言ってるのに、伝えずに戻ってきちゃうし。晩ご飯、食べていくでしょ? はりきって天ぷらにしちゃったわ」
「うれしいです。好物なので、是非いただきたいです。ありがとうございます、晶子さん」
「まあ、うふふ」
 息子としては、母が乙女に戻っているのはあまり見たくなかった。この輪に入っていく勇気がなく、少し離れたところから見守っていると、陽介は次の攻略対象である父の方を向く。
「あの、お父さん」
「……はい?」
「ご挨拶が遅れてすみません。伊月くんとお付き合いさせていただいております、堂島陽介です。はじめまして」
「……はい」
 ——あっさり言いやがった。
 さすがアイドルの兄。誠実さと清潔感を前面に押し出した笑顔。以前、顔と要領の良さだけで乗り切ってきたと言っていたが、こういうことか。
 食事中、いつもお喋りな父は茫然自失の体で黙々とご飯を口に運んでいた。息子とその彼氏のキスシーンを目撃し、堂々と交際宣言され、妻は息子の彼氏を大絶賛。いくらオメガに性別変更したとはいえ、息子が男の恋人を連れてくる(伊月が連れてきたわけではなく、陽介が追いかけてきたのだが、父にしてみれば同じことだ)というこの状況を、容易に受け入れられないのは無理からぬことだろう。
 対称的に、高齢化の進むこの田舎で、身内以外の若い男と喋る機会を得た母は、実に生き生きしていた。
「それでねえ。この間からプリザーブドフラワーの教室に通い始めてね」
「玄関に飾ってあったお花ですよね。綺麗だなって思ってたんですよ」
「あら、気づいてくれたの? もう、お父さんも伊月も、ぜーったい目に入ってるはずなのに、何にも言ってくれないのよ」
「うちの母も好きなんですよ。実家に母の作品がたくさん飾ってあるんです。花に囲まれた生活って素敵ですよね」
「まあ、わかってるわねえ。陽介くんみたいな息子さんがいて、お母様が羨ましいわ」
「僕は伊月くんが羨ましいです。こんな料理上手なお母さんで」
「あら、やだー。おばさんを乗せるのが上手いんだから」
 母と陽介の会話ばかりが弾む。彼はおば様相手に訪問販売やホストでもやればいい。莫大な利益を上げそうだ。
 父は蚊帳の外で一人テレビ見ている。時々、陽介が話を振っていたが、「はい」と「はあ」しか言わない。むしろもう父のことはそっとしておいてやってくれと思う。
 落ち着かなげに、父はザッピングを始める。旅番組、ニュース番組、クイズ番組ときて、子供が初めてお遣いに行く様子を追いかけた、お馴染みの番組が映る。母親世代の女性は大体好きな番組だ。
 母はすかさず口を挟む。
「お父さん、それ、かけといて」
 我が家のチャンネル権は母にあるので、父は文句を言わずにリモコンを置く。というか、文句を言う元気もないという感じだ。
 今は、三歳の女の子が職場のお父さんにお弁当を届けるという内容をやっているようだ。
「陽介くんは子供好き?」
「好きですよ。妹弟のおむつ替えしたりしてましたし」
「まあ、いいパパになりそうねえ。伊月もそう思うでしょ」
 母の発言で咽せる父を見て、伊月は父が気の毒でたまらなくなった。オメガなのだから産む側であるのは頭では理解できるだろうが、受け入れられるかどうかは別だ。ベータにとって、男の身体で妊娠が可能であるというのは、かなり奇異なことだと感じるはず。伊月もずっとベータとして生きて来たからわかる。すんなり受け入れている母が変なのだ。
 丸まって咳き込む父の背を、母は撫でる。
「もう、お父さん、大丈夫?」
「お茶入れてくる」
 伊月は席を立つ。あまり気持ちのいい話題ではないので、一時的に避難したかったのだ。台所に行き、グラスを出して、冷蔵庫にある作り置きの麦茶を注ぐ。
 母と陽介はテレビを見て、「あら可愛い」などと言い合っている。黙っていると、後々ややこしいことになりそうだ。もう二人の問題というだけではなくなってしまった。両親にまで話が広がった。
 父の前にグラスを置き、意を決して口を開く。
「——あの」
「どうしたの?」
「俺、その、できにくいかも……」
「何が?」
 言いづらそうにもごもごとする伊月に、母は問う。
 今を逃せば、多分ずっと言えない。自分を奮い立たせる。
「……子供。発情期はあるから妊娠は出来るみたいなんだけど、変転だから普通のオメガより妊娠率は低いかもって、病院で言われて……。いっぱいは無理かもっていうか」
 最後は陽介に向けて言った。顔を上げて彼を窺う。その表情に失望が浮かぶのを恐れていたが、彼は変わらなかった。
「……そっか。悩ませちゃってたんだね」
「今まで言えなくてごめん」
「知ってたよ。変転オメガについて、僕なりに色々調べたから。あの時はまだ理解が浅くて、無神経なこと言っちゃって、こっちこそごめん。僕はいいんだ。君がいてくれれば、どっちでも。子供はいてもいなくても、どちらの人生も楽しいと思うよ。今はそう思ってる。ご両親の前だから、こんなこと言うわけじゃなくてね」
「ほんとに?」
「うん」
 彼の笑みには、母に向けるような取り繕ったよそ行きの色を感じず、動物園デートしたときからあった胸のつかえが、やっと取れた気がした。
 見つめ合って二人の世界に入りかけたが、父によって現実に引き戻された。
「……伊月、陽介くん」
 声を震わせえる父に、他も三人の視線が集まる。父は涙ぐんでいて、さすがにぎょっとする。ショックが大きすぎて耐えきれなかったのか。
「あの、父さん。あとでゆっくり話そう?」
「……そこまで」
「ん?」
「そこまで真剣に将来のことを考えていたなんて……。まだ若いのに偉いぞ」
「……」
「性別変更のことを聞いたときは、どうなることかと思ったが、前向きに生きようとしていてよかった」
 ずるずると盛大に鼻をすする。伊月をずっと案じてくれていて、安堵したがゆえに出た涙か。父の愛情に胸がじんとする。
 若い男に浮かれていると思われた母は、年長者らしいアドバイスをくれる。
「二人ともまだ学生なんだから、子供のことなんて後からいくらでも話し合えばいいじゃない。考え方が変わる可能性もあるわ。気楽に行きなさいな。肩に力が入りすぎると、長続きしないわよ」
「……そうだね」
「陽介くんが伊月の事情を思いやってくれる人でよかったわ。世間知らずで甘ったれな子だけど、どうかよろしくね」
「はい。そのつもりです」
 食卓を包む空気は暖かい。交際宣言したというより、結婚の許しを得に来た後のようだと思った。
 もしかして、外堀がせっせと埋められていっているのだろうか。番になって添い遂げるという話に、まだイエスと答えてはいなかったはずだが。
 食後、予想通り、母は陽介にここに泊まるよう勧めた。彼は一度は遠慮する素振りを見せたものの、この近辺に宿泊施設などない。結局泊まることになった。着替えは伊月が貸し、歯ブラシ等は家の在庫を使ってもらった。客用布団は和室に敷いたので、その日眠ったのは別々だった。
 部屋で一人になって、今後のことについて考えた。夕飯前に、陽介とここで話したことを思い出し、悲観的にならずに済んだ。

 翌日朝。出発前に、仏壇の前で手を合わせる。陽介も一緒だ。
 無邪気に微笑む姉の遺影にも語りかけるという思いで話す。
「俺、昨日あんたに言われて考えたんだ、これからのこと。いつまでも姉さんを理由に逃げてちゃ駄目なんだよな」
 姉がこうだったんだから、伊月もきっとそうなるのだと思い込み、無意味に自分を追い込んでばかりだった。きっと姉はそんなことを望んでいない。幼いころ伊月の手を引いてくれた優しい姉は、きっと弟の幸せを願ってくれているはず。マイナスの結果になると決めつけず、前に進もう。
「決めたよ。大学やめずに頑張ってみる」
「そう、よかった。でも、つらいことがあったら、ちゃんと言うこと。一人で考え込んでパニックになったら、君は突拍子もないことをしでかすんだから」
「……ありがと」
 自分はこの人と出会えてよかったのだ。ちょうど助けが必要なときに訪れた奇跡的な巡り合わせは、まさしく運命と呼ぶにふさわしい。姉の前だからか素直にそう思えた。

 実家からマンションに帰ってきて、伊月が真っ先にやったのは、アルバイト先に電話をかけることだった。昨日木曜日、無断欠勤してしまったのだ。予定を入れているスマホが手元になかったので、直前にシフト変更があったのをすっかり忘れていた。
 高熱が出て、一人暮らしだと助けてくれる人もおらず、電話することもできなかった、と苦し紛れの言い訳をしたが、普段の勤務態度が真面目だからか、どうにか信じてもらえたようだ。
 そして、次に、橋口にもらったメモを探し出し、電話してみた。はぐらかされることも想定していたが、会ってくれると言う。なるべく早く会いたい、と要望すると、「明日でも明後日でも、そちらの都合がいいときでいい」とのことだった。長引かせたくないので、明日を指定する。主要駅近くのカフェで会うことになった。
 翌日、カフェには約束の時間の五分前に到着した。午前の早い時間ではあったが、土曜日であるためか店内は混み合っている。橋口は先に来て窓際の席に座っていた。今日もスーツ姿だ。仕事の途中で抜けてきたのかもしれない。
 伊月たちの姿を認めると、橋口は立ち上がって深々と頭を下げる。
「このたびはご迷惑をおかけして」
「ほんと迷惑なんだけど。どういうつもり? あんたが犯人?」
 陽介は初めから食ってかかるような態度だった。水を持ってきた店員に、伊月が適当にブレンドコーヒーを二人分注文しておく。
 再び席につき、橋口は不気味なほどすんなりと犯行を認める。
「SNSに君たちの写真を上げたのは私だよ」
「写真を撮影したのは?」
「探偵を雇った。さすがにそんな何回も仕事は休めない」
「へえ。そんな金かけて、何のためにこんなことを? どこかで恨まれるようなことした?」
「私は君たちに恨みはない」
「じゃあ、どうして?」
「答えられない」
「は? それでこっちが納得すると思ってんの」
「思わない。だが、無理なものは無理だ。これ以上何かするということはないと思うから、そこは安心してくれていい」
「思うって何だよ。安心できるか。これから一緒に警察行く?」
「それは勘弁してほしい」
「……お前、言ってること滅茶苦茶なのわかってる?」
「ああ」
「この落とし前はどうつけるつもり」
「金ならいくらかは」
「へえ。一人五千万を二人分って言ったら払えるの?」
「それは……」
 払えないに決まっている。だから話してほしいのだが、橋口は頑なに口を閉ざす。こうして会って自分が犯人だと認めているのに、なぜ理由は話せないのか。
 陽介は人差し指の先でしきりにテーブルを叩いている。かなりストレスを溜めているようだ。彼がテーブルを打つカツカツという音と呼応するように、ヒールが床を鳴らす音が聞こえてくる。喜怒哀楽もなく覇気もない橋口の表情に、わずかに緊張が走る。
 二十歳前後の女がこちらに近づいてくる。
「弘実! なに勝手なことをしているの!」
 女は伊月たちのテーブルの前で止まると、いきなり橋口の座った椅子を蹴った。橋口は立ち上がろうと腰を浮かしかけた状態だったため、椅子ごと斜め後ろに倒れ込む。けたたましい物音が響き、店内は騒然となった。
 女は橋口に馬乗りになり、襟首を掴み上げる。突然の暴挙にも、橋口は一切抵抗せず、無表情のままだ。女は耳を塞ぎたくなるような大音量で怒鳴る。

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