〈第一章〉自称番との生活

 【見知らぬ街にて——ヒノワ】

 目を覚ますと、そこは知らない部屋だった。
 一見すると民家の一室のよう。素朴な木製の家具——ベッドとサイドテーブル、チェスト、コンソールテーブル、ポールハンガーが配置された、小さな空間。
 外からは鳥のさえずりが聞こえてきており、以前どこかで嗅いだような、「懐かしい」花の香りもする。
 ベッドの上で上体を起こし、状況を整理しようと試みる。寝起きだというのに頭はすっきりしていた。
 ヒノワはそう、攫われた。馬車で薬品を嗅がされて。昨日——なのか定かではないが——は父に呼ばれて、謁見のため王宮へ向かっている途中だった。大した用もないのに、二ヶ月に一回父はヒノワを呼び出す。一言二言言葉を交わすためだけに。
 ——そういえば、カロたちは……。
 ここにはいないが、無事だろうか。自分の身はどうなってもいいけれど、あの心優しい従者や、その日たまたま付き従っていただけで、不運にも巻き込まれてしまった御者や護衛たちのことは気懸かりだ。
 彼らも共に捕らえられているのだろうか。そうだとしたら、探しに行かねばなるまい。物音はしないが、見張りは何人だろう。抜け出せる隙はあるだろうか。
 ベッド側の窓からは、木々の緑と畑、畑の中の小さな民家が見える。ここは二階のようだから、降りられない高さではないが、巻き込まれた従者らを放ったまま自分だけ脱出するわけにはいかない。さて、どうしよう。
 考えを巡らせていると、そっとドアが開く。より強い花の香を連れて、一人の青年が入ってきた。
「目が覚めたんだね。気分はどうだい」
「……」
「水を持ってきた。飲むといい」
 男はトレイをサイドテーブルに置き、水差しから水を注ぐ。
 見たところ二十代半ばくらいか。質素だが丁寧な仕立てで汚れのない衣服、清潔に切りそろえられた髪、ピンと伸びた背筋。晴れた日の早朝のような澄んだ雰囲気を持っていて、見た目の印象では王族を拉致するような犯罪者には見えない。
 差し出されたコップを受け取るが、口はつけない。
「……ここは?」
 そう簡単に教えてくれるはずはないと思ったが、少しでも情報を得ようと質問を投げかける。意外にも具体的な答えが返ってきた。
「ドンディナのマルルギという田舎町だよ。そしてここは俺の家」
「ドンディナ……、アデュタインの西の?」
 アデュタインとはヒノワの生まれ育った国の名で、ドンディナはその隣国であり友好国だ。眠っている間に国境を越えたというのか。
 男は首肯する。
「ああ。アデュタインにいても、どうせすぐに見つかってしまうからね。国に連れ帰らせてもらった」
 ということは、この男が連れ去りの犯人。そしてドンディナの国民。どうしてわざわざ他国の王子を攫った? アデュタイン王国に恨みでもあるのか。
「ちなみに、君がここにいるのを知っているのは俺だけ。一人で計画して実行したから」
「なぜ……? いや、それより、一緒にいた者たちは無事なのか。どこか別の部屋に……」
「ここにはいないよ。捕らえずアデュタインに置いてきたから。安心して。君たちに嗅がせたのは即効性のある睡眠剤で、身体に害のある薬じゃない。彼らのことはあの場に放置してきてしまったけれど、そのうち誰かに見つけてもらえただろう。凍死するほど冷える季節でもなし、大丈夫なはず」
「……そうか。ならよかった」
 皆が無事ならいい。ヒノワ自身がどうなろうと。
 男はまじまじとヒノワを見つめる。重なりあった葉っぱのような深緑の——珍しい瞳の色。
「噂には聞いていたけれど……、本当だったんだね」
「何が」
「アデュタインの末の王子様が記憶喪失だって話」
「え、……なんでそれを」
「街で聞いた。人の口に戸は立てられないということだね」
 確かに事実だ。王室の中で唯一の味方と言える母の死、その直前の半年間の記憶が、ヒノワからは欠落している。大っぴらに語ったことなんてないのに、民の噂になっていたというのか?
 彼はさらに詳しく切り込んでくる。
「忘れているのは、五年前にこのドンディナにいた頃のこと?」
「なぜそこまで……」
 そう、確かに五年前、ヒノワはこの国にいた。
 病弱だった母は、当時体調を悪化させており、生まれ故郷であるドンディナで静養することになった。それにヒノワも付き添っていった。カロが当時まだ小さかったため、母は一番親しかったマリを同行者に選ばず、他の使用人を二人連れて行った。
 記憶がないため後に聞いた話ではあるが、母の両親、つまり祖父母の家で何不自由なく暮らし始めたヒノワは、ある日の散歩中に階段から足を滑らせて落下、強く頭を打ち、意識を失って病院へ運ばれた。目を覚ましたとき、ドンディナで暮らしている間のほとんどの記憶を失っていた。
 不幸は重なり、ヒノワの入院と時を同じくして母の容態が急変、帰らぬ人となった。
 ごくごく限られた人間だけしか知らず、ヒノワ自ら語るはずのない内容。どうして——。
「俺はこの国にいた君のことを知っているんだ」
「……知り合いだったのか? 悪いが、あなたのことも覚えていない。祖父の知人か何かか」
 手広く商売している祖父の家には多くの人が出入りしていた。ドンディナで知り合いができるとすれば、そこが一番可能性が高いと思われた。
 今度の質問には答えてくれず、別の質問が返ってきた。
「あの頃の記憶が無いのなら……、君のその首筋の傷跡、どういう経緯でついたものだと?」
 はっとして首筋を押さえる。
「これは……、なんで。そんなことまで民の噂になっているのか」
「いや、噂で知ったんじゃない。それをつけたのは俺だから、知っているのは当然」
「どういうことだ。これはドンディナで森深くまで入り込んで迷子になったとき、野犬か狼に襲われたのだと、そう主治医が言っていた。抜け落ちた記憶の中の出来事だから、僕自身は覚えていないが……」
「獣に襲われて、その程度で済むものか。噛みつかれたが最後、食い千切られて餌にされるよ。俺が噛んだんだ。初めての発情期になった君を。もちろん無理矢理なんかじゃない。君もそれを受け入れていた。俺たちは恋人だったから」
「……恋人? 発情期に噛んだって、あなたはアルファ? 僕の(つがい)だとでも?」
 番、それは伴侶のこと。一般的な意味での伴侶ではなく、アルファとオメガの間にだけ成立する特殊な関係を、特にそう呼ぶ。
 歴史的に見て立場の弱いオメガが、生き残るために選んだ方法とされるのが、強いアルファに守ってもらうこと。守ることの見返りとして、アルファはオメガに多くの子を産むことと忠実な愛を捧げることを望んだ。元々はそういった利害関係一致による契約だった、とされている。
 その契約を成立させるためには、発情期中のオメガの首筋をアルファが噛む、という極めて動物的な方法を取る必要がある。ヒノワには無理な話だ。
 十代半ばぐらいから、オメガなら誰でも初めての発情期を迎えるものだが——。
「下手な作り話はやめてくれ。僕は一度として発情期を迎えたことがない出来損ないなんだ。番なんているわけがない。どうせ身代金目的だろう。残念だが、僕を攫ったところでろくな金は引っ張れないだろうね。アデュタインの王子の称号は持っているけれど、僕という人間の価値はそれだけだ。厄介払いできたと見捨てられることも考えられる。いい気味だね。苦労して攫ったのにハズレを引いたなんて……」
「……ヒノワ」
 突然視界が遮られる。男にきつく抱きしめられたためだ。
 脈略のない行動のように思えて混乱し、突き放すことを忘れた。
「は……?」
「ごめん」
「……何に対する謝罪?」
「もっと早く迎えに行ってやれればよかった。そんなにつらい思いをしていたなんて。でも、この五年、本当に本当に色々なことがあったんだ。こんなこと、言い訳にもならないけど」
「放せ。いったい何なんだ、あなたは」
「離さないよ。もう、決して。こうやってまた抱きしめることが出来たんだ。離せるわけがない。このまま君を帰して他の男と結婚なんて……以ての外だ」
「それが僕を攫った理由?」
「概ねそうだね」
 もしも彼とヒノワが番なのだというのが真実なのであれば、手段の是非は置いておくとして、事に及んだ心情は理解できなくも——、いや、明らかにやり過ぎだろう。
 どこか熱に浮かされたような男の瞳を恐ろしいと思いながら、それでも目が離せなかった。

 温かいお茶を入れてあげよう、そう言って男はヒノワを階下の居間へ連れて行った。
 天井が低く、全体的にこじんまりした造りの家のようだ。童話本の挿絵で見た小人の家に似ていると思った。
 格子柄の布がかかったくたびれたソファに、勧められて腰をかけた。シンプルな木製のローテーブルの上に蜂蜜入りの薬草茶を置くと、男はすぐに居間を出ていき、また一人にされた。
 迷ったが、喉の渇きを感じていたので一口飲んでみた。薬草茶特有の苦味や青臭さは少なく、蜂蜜のお陰でほんのり甘い。
 ちびちびと茶を飲んでいると、男は皿が乗ったトレイを持って現れた。ブラウンシチューとパンのようだ。テーブルの上に並べていく。
「お腹が空いただろう。どうぞ」
「この短時間で作ったのか?」
「そんなわけないよ。君が寝ている間に作っておいたのさ。君、好きだっただろう」
「……食べ物の好物はあまりない。だが、たぶん腹は空いているから助かる」
 ここ数年、何を食べても美味しいと感じることがなく、食事はただの作業になっていた。食べねば動けなくなるとマリやカロが言うから食べているだけだ。見知らぬ土地で動けなくなるのが嫌なら、これも食べておいた方がいい。
 毒が入っている可能性を一瞬考えたが、もし彼にヒノワを殺すつもりがあるならとっくに死んでいるはずだ。さきほどの薬草茶も大丈夫だったし、これも平気なはず。
 大きめに切られた野菜が入ったシチューをスプーンですくって口へ運ぶ。いつもと変わらず美味しさは感じないが、温かさはほんの少しだけ緊張を和らげた。
 斜め向かいの椅子からヒノワが食べるのをじっと眺めながら、男は言う。
「まだ名乗っていなかったね。サヤ・ラウェンといいます」
 聞き覚えのない名前。見覚えのない顔。ただこの家に漂う花の香りだけが懐かしい。
「……知らない?」
「ああ」
「そう……」
 男に落胆の表情が浮かぶ。恋人だと思っている人物に顔も名前も忘れられたら、悲しいだろうな、多分。人違いだとは思うけれど。
 伴侶にしてもいいと思うほどの恋人が自分にできるとは、とてもじゃないが考えられない。友人さえおらず、兄姉たちともよく揉めているのに、恋人なんて高度な人間関係を築く必要があるものを持っていたわけはないだろう。記憶喪失の詳しい時期を知っていることから、彼が知人であった可能性はあるが。
 どうして人違いが発生したのかを知るために、そして、自分のこの次の行動を決めるために、闇雲に否定するのではなく、まずは彼の話を聞いてみよう。彼は高圧的ではないし、落ち着いているし、人攫いとはいえ話のできる人間だと判断した。
「まずはっきりさせておきたい。僕を攫った目的は何だ? どうやら身代金目的じゃなさそうだが、何を求める?」
「君が記憶を取り戻して、番として共に暮らすこと」
「僕の意思は別にしても、難しいんじゃないか。どんな理由であれ、他国の王子を攫ったという事実に変わりはない。父が僕を見捨てるにしろ何にしろ、事が露見すれば国際問題だぞ」
「……そうだね。わかっているつもりだよ」
「で、具体的にこれから僕はどうなる」
「差し当たってはここで俺と生活してもらう。もちろん、番だからと言って君の許可なく君に触れたりしない。そこは安心してほしい」
「へえ、さっきのは?」
 二階の部屋で抱きしめられた件だ。
「あれは……、申し訳ない。感情の高まりを抑えられなかったんだ。感情の高まりといっても、性的衝動というより労りからで……。もうしない。約束する。信じてほしい」
「いったんはそういうことでいいよ。でないと話が進まない」
「それから、衣食住は保障するよ。王子様を満足させられる贅沢はさせてやれないかもしれないが、希望があれば言ってほしい。なるべく叶えられるよう努力する」

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