〈第一章〉自称番との生活

「猫はトラ柄が好きだな。特に茶トラ。可愛いしかっこいい」
「……」
「なに?」
「ううん、君は前にも同じことを言っていたから」
 目を細める。いかにも愛おしげな顔をして、サヤはここにはいない誰かを見ている。ヒノワであってヒノワでない人。正体不明のモヤモヤが胸を曇らせる。
「サヤは僕を側に置きたがるけど……」
「ああ、もう離したくない」
「でも、サヤの好きな『君』が戻ってくるかはわからない。僕は失った記憶を二度と思い出さないかもしれないぞ」
「まあ、記憶喪失から回復しないことは、可能性としては考えられるね。でも……」
「『君』が戻ってこなくても、それでも僕を側に置きたいと思うのか?」
「何を言っているの。君は君だろう」
「サヤが嬉しそうに語る『君』と今の僕は全然違う。別人みたいだ。僕は何でもないただの散歩ではしゃいだりなんかしない。調子に乗って食べ過ぎて動けなくなったりしない」
「今日だって楽しそうにしているじゃないか」
「楽しそうになんか……」
「してる。五年前の君も今の君も、同じ人だよ。俺の大好きな人だ」
「……」
 違うと言うとさらなる愛の言葉を求めているようだから、口にはしなかったが、納得できたわけではなかった。
 頬をつんつんとつつかれる。
「そんな顔しないで。君がもしも許してくれるなら、俺は今の君と改めて恋がしたい」
 顔面が一瞬で朱に染まる。
「…………そ、そんな恥じらいのないことを外で言うな! 気障だ。遊び人のようだ」
「ひどいなあ。俺は君しか知らないのに」
「え、そうなのか……? アルファなのに?」
「性別関係ある? 色恋より勉学と研究が大事だったんだよ。もちろん君に会うまでは、だけど」
「……ふうん」
「すぐに応えられなくても構わない。でも、お願い。俺の想いだけは否定しないで。君にこの気持ちを疑われたら、俺には何もかもなくなってしまう」
 そんな、ヒノワへの想いだけが彼の全てのような。心臓がうるさい。ああ、どうしたっていうのだろう。
 彼は固まってしまったヒノワの手を引く。
「ね、昼食と夕飯の材料を買いたいんだ。市場へ行こう」
「……ああ」
「何が食べたい?」
「何でもいい。サヤの作るものは何でも美味しい」
 そう、美味しい。彼と食べる彼の料理は。いつの間にかそう感じるようになっていた。
「何でもいい、が一番困るんだよなあ」
 お互いに案を出し合いながら、市場への道をまた歩き出した。
 ふと見上げた空。
 ——青いってこういうことだったな……。
 空が青い。雲が白い。街路樹の葉は緑。すれ違った少女のリボンの色はピンクで、傍らの母親が抱えた紙袋からのぞくレモンは黄色。カフェの出窓に飾られたガーベラは橙色で、テラスに座る老紳士のネクタイは紫色。灰色だったはずの世界には、こんなにもたくさんの色が溢れている。
「綺麗だな……」
「ん、何かあった?」
「この街は綺麗だ」
「そう?」
 サヤは不思議そうだ。
 変化している。少しずつだが確実に。それはきっと良い兆しに違いなかった。

***************

 庭の戸を押し開く音がして、居間で本を読んでいたヒノワは顔を上げる。窓から確認すると、家主の姿があった。
「帰ってきた!」
 今日はいつもよりサヤの帰りが早い日。また散歩に出る約束をしている。
 耳を澄まして聞いていると、足音は裏庭の方へ向かう。水の音がして——手を洗っている。それから表へ回る。
 ヒノワは本に栞を挟むと、玄関へと走る。ドアが開くのと同時に叫んだ。
「サヤ!」
「ただいま、ヒノワ。元気がいいね」
「おかえり」
 飛びつく勢いで彼の腕を掴む。
「来て。お茶を入れてやる」
「ああ、うん」
 ぐいぐいと引っ張って、花が増えてずいぶん明るくなった居間へ。そこでサヤを待たせ、ヒノワは足取り軽くキッチンへ向かった。
 食器棚から二個のカップを取り出し、ボトルから薬草茶を注ぐ。ヒノワに火を扱わせるのは不安だとサヤは言うので、水出しだ。水出しに適した茶葉を教えてもらって、昨日一緒に仕込んだ。先ほど味見したところ、ちょうど飲み頃のようだった。
 トレイにカップを乗せ、居間に戻る。ソファに隣り合って座り、ティータイムの始まり。
 喉が渇いていたのか、彼は一気に半分を飲んだ。
「うん、美味しいね」
「夜はあったかいのがほしくなるけど、昼間は水出しでもいいな」
「そうだね」
 こちらを向いたサヤの深緑の瞳は、どことなく戸惑っているように見えた。
「なに?」
「最近……、なんか近いよね、距離。いや、その、嫌なわけじゃなくて嬉しいんだけど」
「そうか?」
 言われてみれば確かに。肩と肩が触れあいそうな距離にサヤがいる。無意識だった。
 ——だってこの距離が一番しっくりくるから……。
 腕を掴んで寄りかかりたいくらい。今の自分たちの関係ではそれがやり過ぎなのは何となくわかるから、実際にやりはしないが。
「一昨日なんか、起きたら横に君が寝ていてびっくりしたよ」
「怖い夢を見たら部屋に来ていいって言った」
「言ったけど、さすがにベッドに潜り込んでくることは想定してなかった」
「……駄目だったか?」
「駄目、ではない。でも、ちょっと困るというか何というか……」
「サヤの匂いを嗅いだら安心する。辛いのも苦しいのも痛いのも、全部飛んでいくような気がするんだ」
 だから、許してほしい。下から彼の顔を覗き込むようにして請うと、目を逸らされた。
「……すごい殺し文句だね」
「害意はないぞ」
「わかってるよ。……殺されそうなのは俺の理性だ」
「何か言ったか?」
「んー、何も」
 なぜ五年も離れていられたのか不思議になるほど、彼の隣にいる生活はしっくり身に馴染んだ。

 しっかり休憩を取ってから散歩に出かける。市庁舎などがあるマルルギの中心地へ、ではなく、街外れの森の方へ足を向けた。
 この辺りでは、たまに近隣住民とすれ違うことはあるものの、大通り沿いよりは人目に付く機会が遥かに少ない。大通り沿いであっても、ヒノワは変装しているのだから、誰かに見つかることなどないと思うのだが、サヤは気になるらしい。初めての散歩以外は、共に出かけると言えば森の方だった。
 それだけヒノワと引き離されたくないという思いが強いということだ。彼は極端に離別を恐れている。こちらまで苦しくなるほどに。
 緑の風を吸い、鳥のさえずりを聞きながら、一歩一歩地面の感触を確かめるようにして、整備された遊歩道を進む。
「……見つかったって平気だ。僕が証言する。サヤは悪くないって」
「どんな理由であれ、他国の王子を攫ったという事実に変わりはない、そう言ったのは君だよ。見つかれば、君はアデュタインに戻されて、俺は刑務所行きだ。多分もう未来永劫会うことはない」
「僕にいい考えがある。何者かに攫われた僕をサヤが助けたってことにすればいい。僕は体調を崩してすぐには帰れなくて……」
「それを上手く信じてもらえるかなあ」
「大丈夫だ。僕がちゃんと言う」
 離別を恐れているのは何もサヤだけではない。彼の側を心地良く思うにつれ、ヒノワの方も離れがたい思いが強くなっていった。
 少しでも安心させてやりたいのだが、サヤの笑みの影にある憂いはなかなか拭えない。
「サヤ……」
「ありがとう。気持ちは嬉しいよ。俺が勝手にしでかしたことのせいで、君まで悩ませてごめんね、本当に。謝ってどうにかなることじゃないんだけど」
「サヤをそこまで追い詰めてしまった責任は僕にもある」
「君に責任なんか……」
「サヤが僕に会うために苦労している間、僕は何もしてこなかっただろう。後悔しているんだ。一緒に苦労できなかったこと。サヤ一人に背負わせてしまったこと」
 他に思いつかず、彼の手をぎゅっと握る。
「頼む。もうこれ以上一人で抱え込まないでほしい。僕にだって悩むくらい悩ませてくれ」
「ヒノワ……」
「いいか」
「……うん、ありがとう」
 彼に纏わりついていた不安や焦りが、少しだけ和らいだように感じた。
 恐らく自分たちは寄り添っているのが一番自然な形なのだ。記憶が戻ったわけではないが、以前のヒノワもそう考えていたはず。ヒノワを攫ってまで取り戻そうとしたサヤの気持ちが、今なら少しわかる。
「どこか別の遠い国に行ったっていい。諦めずに探そう。離れずにすむ道」
「君がそんなことを言ってくれるなんてね」
「何となくだけど、感じるんだよ。サヤは僕が出会うべくして出会った人だ。多分、そうなるよう神様が選んでくれた」
 彼の足がぴたりと止まる。
「君、記憶が……」
「戻ってないけど、どうしてかそう思ったんだ。もしかして、前にもそう言っていた?」
「ああ」
「サヤ」
 彼の真正面に立ち、えいやと抱きつく。
「ヒノワ……?」
「……」
 無言で彼を見上げる。驚いている。抱き返すことも忘れて。ヒノワは散々すげない態度を取ってきたのだから当然だ。
 ふと悪戯心が騒いで、背伸びして彼の唇へ口づけをした。至近距離でにんまり笑ってやる。
「ふふふ」
「……なんで」
「んー、したかったから?」
 急に気恥ずかしくなり、身を引こうとするも、強い腕の力で放してもらえない。
「もう一回……」
 今度は彼の方から唇を重ねてくる。
「ん……っ」
 触れて離れてを何度か繰り返し、半端に開いた隙間から入ってきた舌が舌と絡まる。この熱も甘さも身体が覚えている。
 頭がぼんやりして、だんだん足に力が入らなくなってきた。ヒノワの変化に気づいたのだろう、サヤは口を離す。
「……ごめん」
「なぜ……? 僕が仕掛けたことだろう」
「嫌じゃなかった?」
「全然」
 他人の舌や唾液を体内に受け入れることにも、自分のそれを相手に捧げることにも、一切の嫌悪感がない。
「ヒノワ、愛してる」
「……うん、サヤ」
「ヒノワ」
 温もりを手放しがたくて、しばらくそのまま抱きあっていた。

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