〈第一章〉自称番との生活

「僕は自分が情けない。サヤが必死に前に進もうとしている間、僕は邸に閉じこもって、毎日つまらないと嘆くばかりで、公務もろくにこなさず……。死んだって構わない、なんて全部に投げやりになっていた」
「どうしようもなくなって動けなくなってしまうことはあるさ。仕方ない。君だって苦しかっただろう」
「仕方なくなんかない! 苦しかったといっても、何もしなくていいわけじゃなかった。無くした記憶について調べることも出来ただろう。兄姉との不仲を解決しようとすることも出来ただろう。結婚が嫌ならはっきり断ればよかった。なのに僕は……。……がっかりしただろう。そんなにしてまで会いたかった相手が、こんな情けない人間になっていて」
「ちっとも。君を情けないとは思わないし、再会できたことはただただ嬉しいよ」
 震えるヒノワの心の底まで届くような、サヤの温かい眼差し。
「いいかい、ヒノワ。母親を亡くしたこと、記憶を失ったこと、覚えていない相手とはいえ番と引き離されたこと。それらはどれも君の大きな傷になった。大きな傷は回復まで時間がかかるものだし、その間身動きが取れないのは当たり前だ。だから、情けなくなんてないんだよ。自分を責めなくていい」
「……なんでそんなに優しくしてくれるんだ」
「君は俺の大切な人だから」
 彼は過去のヒノワともこんな風に接していたのだろうか。だとすると、過去の自分が彼に惹かれた理由は何だったのか、わかる気がした。
「身体はもう大事ないのか」
「とっくに完治しているよ。先生がよかったおかげか、後遺症らしい後遺症もない」
「それはよかった。本当に……よかった」
 こうしてまた会えたことは、ヒノワにとってよいことだった。おそらくは。

 【マルルギにて——サヤ・ラウェン】

 居間のソファに二人並んで座り、安眠効果のある薬草茶を飲むのが、夜の日課になっている。
 ぽつぽつと話をしていたヒノワは黙りがちになり、気づくとサヤの隣で寝息を立てていた。
 畑仕事に精を出して疲れたのかもしれない。無防備なことだ。これは安心してくれていると、心を許してくれているのだと捉えていいのだろうか。
 あの頃よりは背が伸び、体つきもしっかりしていたが、寝顔のあどけなさは変わらない。
 白い首筋を視線でたどっていると、襟ぐりから覗く噛み跡に目を吸い寄せられる。五年前にサヤがつけたもの。サヤがヒノワと繋がっているという証。触れたい欲求が湧いたが、思いとどまって手を引っ込める。
 テーブルにカップを置く。彼をこのままここで眠らせておくわけにはいかない。抱き上げて二階の客間へ運ぶことにした。許可がなければ触れない、と誓いはしたが、これくらいは許してほしい。
 ヒノワに使ってもらっている客間のベッドへ、彼を横たわらせる。産まれたての赤ん坊を寝かせるようにそっと。
 すぐには立ち去りがたくて、じっと寝顔を見つめる。一晩中だって眺めていられそうだ。
 毎日彼のために食事を作り、身の回りの世話をするのは、本当に幸せな時間だ。この五年で疲れ切る一方だった心は、潤いを取り戻していく。あの頃のように。
「ありがとう……ね」
 ここに留まってくれて。小さく呟いた、そのとき。
「う……」
 不意に彼の眉根が寄った。
「あ……あ……、やだ……」
「ヒノワ……?」
 苦しげに顔をしかめている。額に滲んでくる汗と、強張った手、うめき。悪夢を見ているのか?
 起こしてやらねば、と肩を揺する。
「ヒノワ!」
「……嫌だ!」
 目がかっと見開かれる。ひどく息が荒い。
「ヒノワ、大丈夫、大丈夫だから。落ち着いて」
 彼の怯えた目がサヤを捉える。床に膝をついて彼の手を握り、努めて柔らかい声を出す。
「怖い夢を?」
「ああ、夢か……、夢だったのか」
「どんな夢?」
「血が……、一面血だらけで……、誰か倒れてて……」
「ああ、昼間に俺があんな話をしたからだね。ごめんね。いいかい、ヒノワ。夢は夢だ。誰も血を流していないし、倒れていない」
「うん……」
「怖い夢は俺が追い払っておくから、もう一度眠るといい。君が寝るまでここにいるよ」
「……うん」
 安心したように幼げな顔で笑う。落ちていく目蓋。
「おやすみ、ヒノワ」
 再び安らかな寝息が聞こえ始めてから、そっと部屋を出た。
「……」
 いつまでもこのままではいられまい。ヒノワに指摘されたとおり、どんな事情があるにせよ、今のサヤは他国の王子を攫った重罪人なのだ。
 まだ相手の承諾さえもらえていないが、もらえたとしても、共に生きていくのは限りなく難しいだろう。
 ヒノワをこのまま人目に触れないよう家に閉じ込めておくなど、できるはずがない。かと言って彼が外を自由に歩き回れば、いつか必ず警察や軍の目に留まり、事は露見する。
 では、どうすればいい? 自分がこんなに考え無しだとは思わなかった。普段は思慮深い方なのだが、どうも追い詰められると突拍子もない行動に出る質のようだ。
 ——本当に限界だった、あの時の自分は。
 ちょうど借金の返済が終わったころ、国立医療院の上司から、大学の臨時講師としてアデュタインへ赴任してくれる者を探している、という話を聞いた。このドンディナは医学薬学の先進国。国内随一の研究機関である医療院にこういった話が来るのは、そう珍しいことではない。
 まだアデュタインへの旅費になるほどの金は貯められていなかったから、渡りに船だと立候補し、サヤはついに念願のアデュタインへ発った。期間は半年。その間にどうにかヒノワに会わなくては、と意気込んでいた。
 教壇に立つ傍ら、ヒノワについての情報を集めた。現国王の末の王子であること、王族には珍しいオメガであること、第三王妃の子であること、王宮には住んでおらず、カカリイという街にある別邸で暮らしていること、これは本人から聞いて知っていた。
 病がちであること、滅多に邸の外に出ないこと、気難し屋であること、不妊である可能性が囁かれていること、記憶喪失であるという噂があること——これは知らなかった。民草の噂は出鱈目であることが多いから、鵜呑みには出来ない。
 兎にも角にも本人と会おうと、調べた邸を訪ねてみたが、門前払いを食らった。名を告げて話を通してくれと繰り返し訴えても無駄だった。何度訪ねても。
 王侯貴族の家にしてはこじんまりした規模かもしれないが、庶民から見れば随分大きな邸。そこで暮らすのは、この国の最高権力者の子供。隔たった壁は天に届くほど高く思えた。
 あの中で、ヒノワは今どんな思いで過ごしているのだろう。なぜサヤに何も言わず、突然帰国したのか。この数年、なぜ手紙の一つも寄越してくれなかったのか。
 平民の学生と番になったことを周囲から咎められ、会うことも連絡を取ることも禁じられた? 記憶喪失だという噂が本当なら、そのせい? それとも——、サヤと番になったことを後悔しているのか。
 いや、そもそも番になったというのはサヤの妄想なのでは? ヒノワと過ごした日々は、生死の境を彷徨ったときに見た美しい幻で——。
 これまでアデュタインに行きさえすればどうにかなると思って踏ん張ってきた。辛いリハビリも乗り越えたし、借金返済のため複数の仕事を掛け持ちし、身を粉にして働いた。しかし、ヒノワに会えもしないまま無情にも時だけが過ぎていく。任期の半年なんて本当にあっという間。
 もう駄目だ、乾ききってスカスカになった心が折れてしまう。追い打ちをかけるように、ヒノワに結婚話があることを知った。相手はサヤの母国の貴族様。しかも執政の子息で、ヒノワと年も近い。王子様に釣り合う完璧な夫だ。
 どうして、何かの間違いだ、そう何度呟いてみても、街のお祝いムードは日に日に高まっていく。ヒノワが他人の妻になる。考えるだけでも胸を掻きむしりたくなるほどつらい。
 どうにかして——多少強引にでも、顔を合わせる機会を作らないと。邸のあるカカリイの住民の話では、ヒノワは二ヶ月に一度、国王に謁見するため王宮に赴くらしい。邸に籠もりがちな彼が外に出る絶好の機会。その時を狙うしかない。
 計画を練り、必要な薬剤も作り上げた。これが法を犯す行為であることは重々承知していたが、追い詰められた頭ではまともな判断が出来なかった。
 そしてその日、ヒノワの乗った馬車がいつも通るルートのうち、人通りが滅多にないポイントで待ち伏せした。計画は成功。サヤは薬で眠ったヒノワを攫い、あらかじめ話を通してあった行商の荷馬車に乗って国境を越えた。この行商たちは各国を転々としており、そこから足が着くことはあるまい。
 もう離れたくない。次に引き裂かれたら、もうサヤは生きてはいられまいとさえ思う。まずは逃走資金を貯め、アデュタインからもっと離れた、できれば国交のない国へ向かい、それから——。計画を練らねばなるまい。

 【ヒノワ邸にて——カロ・トルル】

 ヒノワが連れ去られてから十日あまり。鬱屈とした空気が、邸中に漂っていた。
 事態は進展を見せず、犯人からの要求もなし。待っているしかできない使用人たちは、皆歯がゆい思いをしていた。
 家事室で繕い物をする母の手伝いをしながら、カロはぼそりとこぼす。
「もしかして、もうヒノワ様は……」
「おやめなさい。言葉には力があるの。きっとご無事よ」
 母はそう言うが、可能性としてはあり得ることだ。
「でも、だったらどうして犯人は何も言ってこないの?」
 身代金、あるいは受刑者釈放など国家権力に対する要求が目的ではないのでは? すでに亡き者にされた、あるいは売り飛ばされた——母であるミラ妃に似て美しいヒノワは相当な金になりそうだ。
 マリは鋏を手に取り糸を切る。
「ヒノワ様自らが姿を消した、という可能性もあるわ」
「どうして? そんなことをする理由がない」
「結婚を嫌がってらっしゃったじゃない。想い人がいて、お二人で手と手を取って……」
「駆け落ちってこと? 僕はほとんど一日中ヒノワ様の側でお仕えしていたけど、恋人の影なんてなかったよ」
 ヒノワの無事をどうにか信じたいマリの気持ちもわかるが。
 彼女はそれには反論せず、手にしていたシャツを置く。
「……この話はもう終わりよ。カロ、次のものを取って」
「でも」
「早くなさい」
 やはり母というものの存在は強く、そう言われると反射的に従ってしまう。しぶしぶ繕い終わっていない服はないか布の山の中を探す。
「……あれ」
 布が置かれた作業台の上、新聞の傍らに、見覚えのない小さな箱があるのに気づいた。古びた茶色の紙に包まれており、掌に載るくらいのサイズだ。
 その箱を手に取ってみる。
「なにこれ」
「配達された食品の木箱の中に紛れ込んでいたそうよ。出入りの店の方に返しておかないといけないわ」
 箱を振ってみると、カタカタという音がする。包みの隅に小さく『もう一人の母と可愛い弟へ』という文字——なんとも説明しがたい胸騒ぎがした。
「……開けてみていいかな」
「なぜ? そのまま返さないと」
「ちょっと中身を確認するだけだよ」
 後から元に戻せるよう慎重に包みを剥ぎ取り、箱を開ける。中身はロケットペンダントと紙切れだ。細かい彫りが美しいこのペンダントを、カロは知っている。
「母さん、これ……」
 逸る気持ちを抑え、慎重にペンダントを取り出す。間違いない、これは——。無意識に手が震えた。
 マリも針山に針を戻しそれを凝視していた。
「それ、ヒノワ様の……」
「……うん」
「中にはそれだけ?」
「あとなんか紙が……」
「手紙かもしれないわ」
「うん」
 同封された紙には、ヒノワの筆跡でこうあった。

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