〈第一章〉自称番との生活

 随分律儀な犯罪者だな、と思う。ヒノワを恋人と思い込んでいるが故か。
 衣食住が保障されて、丁重な扱いを受けられる。そうだな、考えようによってはメリットはある。
「……それもいいかもな」
「え、本当?」
「ここにいれば、あの自称婚約者に会わずにすむから。人攫いに遭ったっていう瑕疵がついて、結婚話が流れたりしないかな」
「結婚、嫌だったのかい」
「当たり前だろう。子を産めぬオメガを妻に、なんて何かよからぬ魂胆があるに決まっている」
「子を産めない、というのは、発情期が来ないから?」
「ああ」
「さっきも言ったが、君に発情期が来たのを俺は見ている。それが止まってしまったのは、体調が原因か心理的なものか……」
「来なくていいよ、あんなもの。面倒なだけだ」
 発情期中は強い性的衝動に駆られ、誰彼構わずアルファを求める状態になると聞く。なんて恐ろしい。世の中のオメガは皆そんなものを耐えているのだ。つくづく損な性別だ。
 スプーンが止まっていたヒノワに、彼は食べ進めるよう手で促す。
「今は大分効果の高い発情抑制剤が開発されてきているよ。普段と全く同じように過ごすってわけにはなかなかいかないけど、アデュタインで一般的に流通しているものよりは優秀な薬が、このドンディナにはある」
「詳しいんだな」
「薬剤調合師だから。国立医療院で研究職をしている」
「薬の専門家ってことか?」
「ああ」
「……なるほど。連れ去りの時のあの薬はそういうことか」
「あの睡眠剤は俺が調合したものだよ。君を連れ去ろうと思い立ってから作り始めた」
「へえ。用意周到のことだ」
「周到だったのかな。一応成功したんだから、周到と言っていいのか。俺はね、ドンディナの国立医療院から派遣されて、アデュタインの大学の講師として、半年間あっちで働いていたんだ。で、君の結婚の噂を聞いてから準備を始め、任期が終わって帰国する段になって、計画を実行に移し、君を一緒に連れ帰ってきた、と」
「……ふうん」
 今のところ、どこで人違いが発生したのかはさっぱりだ。どういう質問が適切だろう。出会いの話でも聞いてみるか?
 ああ、もう面倒臭い。考え続けると頭の奥が痛む気がして嫌だ。こんなとき、聡明機警な兄のスーイなら、すぐに解決案が浮かぶのだろうけど。
 重い溜息をつき、半分くらい食べたところでスプーンを置いた。
「ごちそうさま」
「もうおしまい?」
「これで充分だ。普段からこのくらいしか食べない」
「あんなに食いしん坊だったのに……。病がちという噂があったけど、食事量が少ないのも原因の一つなんじゃないの?」
「だろうな。でも、別にいいよ。熱を出すのは慣れっこだし」
「慣れていいことじゃないだろう。君には健やかであってほしい」
 真摯な目をまっすぐに向けられると、ひどく居心地悪く感じる。
「あなたには関係な……いことはないのか。あなたにとって僕は番ってことになっているらしいから」
「番なのは事実だよ。まあおいおい思い出してくれればいい」
「はあ……」
 無くした半年間の記憶が戻ったところで、人違いが証明されるだけだと思うが。
 ヒノワが黙り込んだため、質問が終わったと判断したのか、今度は自分の順番だというように、彼は身を乗り出す。
「君は自分を大切にしていないように感じる。どうして?」
「どうしてって……。つまらない人生だし、大切にするほどの価値もないから」
「……なんでそんなこと。何がそんなにつまらない?」
「全部」
「具体的に」
「説明してやる義理なんて……」
「ないかもしれないが、知りたいんだ」
「……」
 まあ、下手に反抗的な態度を取るのは得策ではないか。一応囚われの身のようだし。
「母が他界してドンディナから帰国した後ぐらいだったかな、あのころから僕はおかしくなった。何をしたって楽しくない。好きだったはずの本も面白くない。お気に入りだったお菓子も美味しくない。美しいと思っていた花も綺麗に見えない。心待ちにしていた歌劇団の公演にも行きたいと思わない。僕によくしてくれる使用人以外と喋るのは億劫だし、人の集まる賑やかな場所は大嫌いだ。僕はとてもつまらない人間になってしまったんだ」
 ドンディナに大切な何かを置き忘れてきてしまったかのように。
「……」
 男の手が伸びてきて、咄嗟に身を引いた。彼は拒否された手を握りしめる。
「君がそんなことになっていたなんて」
「それこそつまらない話だったろう」
「もっと話してほしい。会えなかったこの五年の間、君がどんな風に過ごしてきたか。俺は君の苦しみを受け止めたいし、そうすることは長い間君を一人にした俺の責務だ」
「責務ねえ……」
 これはヒノワ個人の問題だ。他人は関係ない。勝手に責任を感じられても困る。
 この様子だと容易に解放はしてくれなさそうだ。犯罪者相手に素人考えで動けばろくなことにはならないし、差し当たり必要はないから余計なことはすまい。
 こちらにもメリットはあるから、しばらくは付き合ってやるとして、真っ先に思い浮かぶ気懸かりがある。
「邸の者に無事を知らせる手紙を書いても? きっと心配している」
 特に馬車に同乗していたカロは、主人を守り切れず自責の念に駆られているに違いない。母が存命のときから邸にいる他の使用人たちも、ヒノワの身を案じてくれているだろう。
「あなたのこともこの場所のことも一切書かない。ただ無事を伝えられるだけでいい。内容をチェックしてもらって構わない」
 彼の方には何のメリットもないわけだから、受け入れてもらえない可能性の方が高いのはわかっていた。ヒノワを恋人だと思っている彼の同情を期待するしかない。
 少し考え込んでから、彼は決断を下す。
「そうだな……、使用人を思う君の気持ちは尊重しないとな。方法を考えてみるよ。普通に送ると足がつくかもしれないから。その件は保留にさせてくれ」
「……そうか」
「それと、家の中と庭は自由に動き回って構わないが、庭の外には出ないでほしい。国境を越えて捜査の手が及ぶまでにはまだ時間がかかるだろうけど、念のためだ。窮屈な思いをさせて心苦しいが」
「まあ、それはいいよ。元々引きこもりだからね」
「ありがとう」
 トレイを下げた後、もう一杯薬草茶を入れてくれた。

 【ヒノワ邸にて——カロ・トルル】

 一方その頃、アデュタインのヒノワ邸は、いつも静かなこの邸には珍しい慌ただしさに包まれていた。
 正午過ぎにスーイ王子とその部下三名の訪問があったのだ。使用人頭のマリがその応対にあたることとなったのだが、カロもそこに同席させてもらえることになった。
 訪問者を丁重に応接室へ招き入れた後、カロは自らの立場を忘れ、スーイに詰め寄る。
「ヒノワ様はまだ見つからないのですか!?」
「ああ。警察とも協力しているが……。眠り込んだ君たちが発見されるまで、かなり時間があったからな。その間に遠くへ逃げおおせていてもおかしくない」
 拉致され行方不明になった末の王子の捜索には、王立軍があたることになり、スーイがその指揮を執るよう王に命じられたという。彼は今日その件で来ている。
 ヒノワが何者かによって攫われた。カロの大事なご主人様が。
「僕はヒノワ様の従者なのに、守れなかった……」
「それは主に護衛の役割だろう。お前に咎はあるまい。責められるべきは私の部下であり、その上官たる私だ」
 咎がないことなどあるまい。あの時カロが不用意に馬車の扉を開けなければ、こんなことにはなっていなかったかもしれないのに。
 狼狽を隠せないカロとは違い、マリは努めて冷静に振る舞っていた。
「犯人から何か要求はありましたか」
「いや、何も。犯人についてわかるのは薬学に詳しい者ということぐらいか。犯行に使われた薬剤は、どうやらアデュタイン国内で流通しているものではないらしい。現在入手経路を調査させている」
「そうですか……」
「ヒノワ様に何かあったら……。どうしよう。どうしたら」
「落ち着け。何か起こさないために、今我々が動いている。差し当たって出来ることは周囲への聞き込みと徹底した検問だな。後は犯人からの要求を待つしかない。カロ、事件の際の詳細を改めて聞かせてほしいのだが」
「はい」
 すでに軍や警察に何度も話した内容ではあるのだが、覚えている限りのことを出来るだけ詳細に伝えた。自分にできることがあれば何だってやりたい。それがヒノワを救い出す一助となるならば。
 カロは小さな頃からこの邸で育った。ヒノワの母ミラ妃は使用人の一人一人を気にかける慈悲深い女性で、邸の者は皆彼女を慕っていた。カロも例外ではなく、ミラ妃のことも、彼女があらん限りの愛情を注いで育てる王子様のことも大好きだった。
 ヒノワには兄のように——なんて言えばマリに不敬だと怒られそうだが、そんな風にたくさん遊んでもらったし、勉強も教えてもらった。ミラ妃にもヒノワにも、善良な彼らにふさわしい幸せがもたらされ続けることを願っていた。
 だが、病がちだったミラ妃は療養先の異国でこの世を去ってしまった。カロとマリはアデュタインに残っていたため、彼女を見送ることさえ出来なかった。
 アデュタインに戻ってきたヒノワは見る影もなく憔悴していて、それ以降、魂の抜け殻のように笑わなくなってしまった。
 ——幸せになってほしいのに……。
 今度はこんな災難に巻き込まれてしまうなんて。
 どうか、どうか、無事でありますように。今は祈ることしか出来ない。

 【ドンディナ国立医療院にて——サヤ・ラウェン】

 攫ってきたヒノワがドンディナで目を覚ました翌日、サヤは国立医療院へ出勤した。
 ヒノワは家に残してきた。鍵は内側からいくらでも開けられるので、逃げだそうとすれば容易に逃げ出せる状態だ。
 逃走防止のため、サヤがしたことといえば、君の大事なものを預からせてほしい、とヒノワに頼んだことだ。彼は存外簡単に差し出してきた。亡くなった母親の肖像画を収めたロケットペンダントだ。あまりに重く、本当にいいのか確認したら、お前が出せと言ったのだろうと呆れられた。
 確実さを求めるのなら、逃げられないよう鎖にでも繋いでおけばいい。だが、そんなことをしてしまえば、サヤが本当に欲しいものは手に入らなくなってしまう。攫ってきた時点で今更なのか——、わからない。何が最善だったのか。
 常識も倫理観も捨て去って罪を犯し、やっと再会できた。もうずっと、片時も離れず側にいたい。しかし、サヤには不労所得があるわけではないので、働かねば生活が行き詰まる。食うに困る暮らしを彼にさせるわけにはいかない。家を出てくるしかなかった。
 出勤してまず、上司に報告書を提出しに行く。派遣先の異国から戻ってきたばかりなので、今日の用はそれで仕舞い。本格的な業務開始は明日からだ。帰ろうと思えば帰れたが、明日以降の業務をスムーズに行えるようにするため、研究用の植物を育てている温室へ足を向ける。
 この医療院は、実際の患者に対応する医療棟と、医学薬学の発展に取り組む研究棟に別れており、温室があるのは研究棟のあるエリアだ。広大な敷地内に五棟の温室があり、植物の生育環境によって使い分けされていた。
 その中の一棟へ足を踏み入れ、一つ一つ状態をチェックし、メモを取っていく。芳しい花の香りに包まれるのは良いものだ。それらが束になっても、探し求めたたった一輪の花には敵わないけれど。
 集中して一棟のチェックを一気に終わらせてしまったところで、ズボンのポケットに入ったロケットペンダントを取り出す。派手さはないが、細かい彫りが美しい。バラ科であろう植物の葉が幾重にもなって輪を作っているデザインだ。この「人質」で、ヒノワをあの家に留めておけるだろうか。
 昨日ヒノワが目覚めてから今朝に至るまでの彼の様子を思い出してみる。彼は自分を出来損ないだと言い、自分の価値は王子という称号だけだと言った。自分を大切にするほど価値があるとは思わないと言った。何をしても楽しくないとも。

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