〈第一章〉自称番との生活

 この五年で何があった? サヤの手を引っ張って、煌めく笑顔を向け、好奇心の赴くままにあちこち連れ回していた少年の面影は、どこに消えてしまったのだろう。
 母親が亡くなったショックからか? 記憶と共に生来の明るさまで失ってしまったのか。あるいは——。
「俺のせい……かな」
 それもある、おそらくは。
 番になるということは、共に生きると誓うということで、どちらかが死ぬまで続く強力な絆を結ぶということだ。番関係にある二人は本来寄り添って支え合うべきもの。自分の一部を差し出して、相手の一部を受け取って、離れがたく溶け合っているもの。無理に引き離せば、欠けが生じ、不具合が出るのも当然。
 ——番なのだ。確かに、自分たちは。たとえ彼が覚えていなくとも。
 ヒノワと出会ったのは、まだ学生だった時分だ。研究用に育てていた花の余りを買い取ってもらうため、大学の近所の花屋までえっちらおっちら荷車を引いていたとき、慣れない街で迷子になっていたヒノワと遭遇した。
 地味にはしているが、一見して上等とわかる服に身を包んだ少年は、ひどく人目を惹く容貌だった。華がある、というのか。太陽の光を受けて輝く見事なゴールデンブロンドは日輪草を連想させた。
 彼はきょろきょろと辺りを見渡し、困り果てている様子だったので、サヤから声をかけた。
「君、どうしたの? 迷子?」
「はい。あの、いつもより少し遠出をしたら迷ってしまって……」
「どこに行きたいんだい」
 少年が告げた住所は貴人の住まうエリア。やはり貴族の子息らしい。
「場所はわかるから案内してあげるよ。まずこの花をどうにかしてからでいいかい」
「もちろんです。ありがとうございます!」
 急ぎ花屋へ向かった。売却で得た金は今後の研究費用の足しにするつもりだ。
 花屋で荷車を預かってもらい、すっかり身軽になってから、道案内を始める。たくさん花があったせいで気づかなかったが、この少年は花々のような、いや、それよりずっと豊かな芳香をその身に纏っていた、貴族の間で流行っている香水だろうか。どんな成分なのか気になってしまうのは、研究者としての性分だ。
 売り物にするはずだった日輪草を一本取っておいたので、プレゼントすると、彼は花が綻ぶように笑った。
 道中、彼は忙しく喋っていた。母が病気のため実家のあるドンディナで療養していること、隣国の生まれで、この国を訪れたのは初めてであること、ドンディナでは見るもの全てが新鮮で、よく散歩していること、近所だけにしておけという言いつけを破って、ついつい遠出してしまったこと。遠出というほどの距離ではないと思うのだが、貴族の家は厳しいらしい。
 目的地まで送って、その日は別れた。
 後日、彼と街中で再会した。お礼が言いたいので待ち伏せしていたらしい。道は覚えたので大丈夫です、と胸を張っていた。
 その日はたまたま予定がなかったので、観光地を案内したり、お薦めの屋台を教えたりすると、目を輝かせて喜んでいた。はしゃぎ回る彼を見ているうち、サヤの心も知らず浮き立った。
 それから何度か外で会い、そのうちに自宅アパートにも招くようになった。面倒見はよい方だから、初めは世間知らずの異国人の少年の世話が楽しかっただけかもしれない。だが、彼の曇りのない明るさと無邪気さが、知らぬうち学内の競争で疲れ切っていたサヤの心を癒していた。
 金のないサヤは奨学生で、奨学生でいるためには研究で他学生より成果を上げる必要がある。同じような立場の学生は多く、皆必死だった。勉学のために大学へ入った以上、努力するのは当然なのだが、緊張の連続は心身を疲弊させていった。
 しかし、楽しそうなヒノワの姿を見ているだけで、心の強張りがほどけていく。不思議な子だ、とても。乾いた土に水を撒くような、そんな力を持っている。貧乏学生とお坊ちゃんの奇妙な交流は、その後数ヶ月続いた。
 恋に落ちたのはいつだっただろう。ずっと前から気づいてはいたのだ。ヒノワからどんな花より芳しい匂いがする、そして自分がそれを感じ取れるという、その意味に。共に過ごすうち、なんとも離しがたく別ちがたい、そんな存在になっていた。
 いつものように街の散策をしている最中、ヒノワは唐突にこんなことを言い出した。
「サヤは出会うべくして出会った人で、僕のために神様が選んでくれた人だ。ねえ、サヤも同じように思っているでしょう?」
 愛おしい、心からそう思った。
 この出会いは運命なのだ、きっと。アルファとオメガの間には、神に導かれ、番になるべくして生まれたような組み合わせが存在する、という言い伝えがある。彼はサヤの魂の片割れで、一生を共にすべき人。
 ヒノワに初めての発情期が来たのは、それから間もなくのこと。発情期のオメガは、アルファを性行為に誘うフェロモン(オメガフェロモン)を大量に撒き散らす。フェロモンの影響を受けたアルファもまた発情し、抑えがたい性衝動に駆られる。誘うことも誘われることも、本人の意思は関係なく起こる。
 通常、オメガは発情期の兆候が現れ始めたときに発情抑制剤を服用し、フェロモンの分泌を抑えるものだが、ヒノワはこの時が初めてで、突然のことで何の備えもなく、ヒノワの発情に煽られてサヤも発情してしまった。
 オメガに誘発されて発情したアルファには、目の前のオメガを噛んで番にしたいという本能が強く働く。気づけば交わりあい番になっていた。
 本能に突き動かされた末の行為だったとはいえ、互いに後悔はなかった。きっとこうなることは必然だったのだと思えた。幸せだった。——その後起こる悲劇を知らなかったから。
「……」
 重く息を吐き、ペンダントを仕舞う。
 あの頃のヒノワと今のヒノワ、まるで別人だ。何とか取り戻してやりたい。彼のなくしたものを。そう切実に思う。
「あれ、ラウェンさん。何かありました? 俺、やらかしちゃってます?」
 陽気な声に振り向くと、助手のナギーがいた。彼にはサヤの留守中、温室の管理責任者の任を代わってもらっていたのだが、どうやらさきほどの溜息を目撃されていたらしい。暗い面持ちを笑顔で取り繕う。
「いや、そうじゃないよ。君の仕事は完璧だ。さすがに少々疲れていてね。何せ昨日帰ってきたばかりだから」
「そりゃそうですよねえ。今日は早く帰ってしっかり休んでくださいね。明日からしっかり頑張ってもらわないと。ラウェンさんに報告しなきゃいけない案件、いっぱいあるんですから」
「人使いが荒いなあ、まったく」
 アデュタインではアルファは何かと有り難がられているようだが、ここドンディナでは性別による特別扱いはほとんどされない。同様に競わされるし、扱き使われる。
 サヤ自身、アルファに生まれたことの恩恵を感じたことはほぼなかった。思い当たるのは一つだけ。ヒノワと番になれたこと。オメガのヒノワと番になれたのはアルファだからだ。
 大切な番のために、サヤが今してやれるせめてものことは——。
「ああ、そうだ。そこの花、何本かもらっていこう。綺麗に咲いているね」
「プレゼントですか?」
「家に飾るだけだよ。心の潤いってやつさ」
「俺はプライベートでまで植物の世話はしたくないなあ。一人暮らしなんでしょ? まめなんですね、ラウェンさん」
「世話するのは好きだよ。植物であれ人であれ」
 こんなものでご機嫌取りをしようという気はないが。見知らぬところへいきなり連れて来られたヒノワの心が少しでも安らぐように。
 布地の上からポケットの中のペンダントを握る。さて、彼は果たしてまだあの家に留まってくれているだろうか。

 【マルルギにて——ヒノワ】

 サヤ・ラウェンが仕事に出かけた後、ヒノワは彼の家でぼんやりと過ごしていた。
 逃げようと思えばいくらでも逃げられる状態だったが、結局そうしなかった。
 ここにいれば降って湧いた結婚話から逃れられる。意地悪で嫌みったらしい兄姉と離れていられる。それはヒノワにとって大きなメリットで、とりあえず脱出はせず大人しくしておくことに決めた。
 そのうち彼が人違いに気づいて解放してくれるかもしれないし、それまでの間だけでも利用させてもらおう。
 自分というものにあまり執着がないから、どうなってもそのときはそのときだと気楽に構えていられた。
 大人しくぼんやりすること数時間。暇を持て余し、居間の本棚に並んだ書物を手に取ってみたが、専門書ばかりで読みづらい。
 そういえば、庭に出てもいいと言われていたのだった。行ってみよう。
 玄関を出て、生垣の内側をぐるりと半周。ヒノワの住まいも決して大きくはなく、庭園も小規模だったが、それより遥かに狭い裏庭。一面雑草に覆われていたものの、よく見るとレンガの囲いを作ってある場所がある。花壇の跡だろう。
 サヤはアデュタインの大学で臨時の講師をしていて、昨日帰宅したばかりだという。アデュタインへ発つ前はここで花でも育てていたのかもしれない。
「あれ……?」
 庭には花がない。確か家の中にも花は飾られていなかった。それなのに、どうして家中どこもかしこも花の香りがするんだろう。後で聞いてみようかな。
 この花壇で花を育てられないか頼んでみてもいいかもしれない。種をもらえれば、ヒノワが世話をする。邸の庭でも育てていたからできる。あれは唯一ヒノワの趣味と言えるものだった。花が咲くまでここにいるかはわからないけれど、気は紛れるだろう。
「希望があれば言えって言ってたし」
 まず手始めに雑草抜きでもやろう。
 拐かしに遭っておきながら、犯人の家でこんなに呑気に土いじりをしているのは、やはりヒノワがどこかおかしいからだろうか。そうなんだろう、きっと。
 黙々と作業し続け、正午の鐘を聞いてから、用意されていた昼食を食べる。具だくさんのバゲットサンドだ。
 不味くはないものの、やはり美味しいかどうかはよくわからない。量が多かったが、朝せっせとこれを作っているサヤの姿が浮かび、残すのは申し訳ない思いが湧いて、食べきった。意外と食べられるものだ。
 サヤが仕事から帰ってきたのは昼食を終えた頃。今朝言っていたとおりの時間だ。
 新聞紙で包んだ花を抱えた彼は、明らかにほっとした顔をしていた。ヒノワが逃げ出すことを恐れていたのだろう。わかりやすい男だ。
「……ただいま」
「おかえり」
 反射的に返してしまう。ヒノワはこの家の住人でもないのにおかしな挨拶だが、他に答えようがない。
 居間へ入ったサヤは、テーブルに花束置く。オレンジと黄を基調とした、暖色の花束。てっきり手渡されるものだとばかり思って構えていたため、拍子抜けした。
「それ……」
「ああ、部屋に飾ろうかと思ってね。この家は殺風景すぎる」
「へえ、いい匂いだ」
「そうだろうとも」
 彼は花瓶を取りに行くと言って居間を出て行った。
 誰かが花を携えて自分の前に現れた場合、それは自分への贈り物であることが当たり前だと思っていた。
 ヒノワの婚約者になりたがっていたあの男は、邸に来るとき、毎回大きな花束を持参してきた。そしていつも、いかにこの花がヒノワに似合うか、ヒノワのためにどういう思いで選んだのか、切々と語って聞かせた。こちらはそんなもの望んでいないのに。
 しかし、サヤはただ『部屋に飾ろうと思った』と言っただけ。思い込みは改めなければ。
 取ってきた花瓶に、彼は器用に花を生けていく。出来上がった作品を、通りに面した居間の出窓に配置する。
「これでよし」
「うん、確かに明るくなったような」
「気に入った? よかった。もっとたくさん飾ろう。研究用のやつ以外にも育てているから、また持って帰ってくる」
 作品を評価され、サヤは嬉しそうだった。
 ヒノワが気に入ったかどうか気にするということは、やはりヒノワのための花だったのか? それなのにわざわざそう言わないのは、急な贈り物をしてヒノワに負担をかけまいとする気遣いからだ。それには素直に好感が持てた。
 この流れで聞いてしまおう。
「裏庭の花壇、もう使わないのか?」
「ああ、あれね。また使うよ。長く家を空ける前は、庭で野菜や花を育ててたんだ。そのうち再開する」
「それ、僕がやってもいい?」
「君が? いいけど……」
「土いじりなんかできないだろって? 邸の庭でもやっていたんだぞ。僕の唯一とも言える趣味だ」
「……どうしてその趣味を始めたのか聞いても?」
「綺麗な世界がほしかったから」
 灰色の世界に彩りを。結局大した成果は得られなかったが。
「そう」
 ヒノワの端的な説明で理解できたのかどうかわからないが、サヤはそれ以上尋ねなかった。

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