〈第一章〉自称番との生活

『心配をかけていることだろうと思う。申し訳ない。事情があってしばらく帰れないのだが、僕は元気だから、どうか気を病まないでほしい。我が儘を許してくれ。追伸、この手紙とペンダントは、なるべくなら君たちの元に留め、内密にしてほしい。』
 母と二人、何度も何度も読み返す。
 ——これじゃあ……。
 ヒノワが望んで姿を消したようにも取れる。母の言う駆け落ち説が真実のようだ。
 これはきっと、重要な手掛かりになる。手紙を握ったまま立ち上がる。
「スーイ様にご連絡しないと」
「ヒノワ様は内密にと仰っている」
「けど、拉致じゃないのなら、今の捜査が無駄になるかもしれないし……」
「私たちの主人はヒノワ様なのだから、ヒノワ様のご意思を尊重すべきよ」
 彼女は頑なだった。
 信じて託してみてもいいと思うのだ、スーイになら。軍務だけではなく王室の公務も抱え多忙な中、度々邸を訪れ、カロやマリのような使用人に対してさえ説明の時間を裂いてくれる。気遣ってくれ、励ましてもくれる。その誠実さを見るにつけ、カロの中でスーイに対する信頼が大きく増していった。
 母の説得を試みようと口を開きかけたときだった。コンコン、とノックの音がしてドアが開く。亡きミラ妃がこの邸に移る前から仕えている古参のハンナだ。
「お邪魔してごめんなさい。ロージアン様がいらっしゃって……」
「……また?」
 ルマ・ロージアン。ヒノワに求婚しているドンディナ貴族。ここ数日、ほぼ毎日のように邸へやって来る。
 マリは腰を上げる。
「私が対応するわ」
「僕も行くよ」
 物腰柔らかなのは相変わらずだが、ここ最近かなりしつこく食い下がってくるので、何かトラブルがあったとき対処できる人数は多い方がいい。
 二人して応接室へ入室すると、ルマは席を立つ。
「何度も押しかけて申し訳ない。だが、心配でね。ヒノワ様のお加減はどうだい」
 ヒノワが拉致された件は公にされていないため、彼には「病で伏せっている」と説明している。
 マリはあくまでも事務的に言う。
「少し良くはなってきましたが、まだ熱が高くなることもございます。ヒノワ様はロージアン様にうつしてしまうことを懸念していらっしゃるようです」
「少しでもお会いすることは……」
「今は眠っておいでです」
「せめて少し寝顔を見るだけでもできない?」
「申し訳ありません。邸の者以外誰も通すな、というヒノワ様の言いつけでございますので」
「……そう。仕方ないね。では、これを渡しておいてもらえるかな」
 いつものように大きな花束を持参してきたようだ。マリはそれを受け取る。
「ええ。承ります」
「頼むよ」
 今日はそれだけで、珍しくすんなりと帰って行った。
 いつもはさらに詳しい病状を聞きたがったり、よい医師を紹介すると言ってきたり、断ると延々と理由を尋ねてきたり、なかなか引き下がってくれないのだ。今日はこの後に予定でもあるのだろうか。
 客人の馬車が敷地を出たのを確認してから、家事室へ引き返す。
「不審に思われていないかな」
「まさか事件があったとまでは思わないでしょうけど、避けられていると感じているかもしれないわ」
「これで諦めてくださったらいいのに」
「……そうね」
 あのしつこさから考えて、恐らく無理だろう。母も同じ考えのようだった。

 【カカリイの車中にて——ルマ・ロージアン】

 ああ、今日も駄目だった。揺れる車内で苛々と爪を噛む。
 偏屈だが、息を呑むほど美しいアデュタインの王子は、最近ルマと会おうともしない。つい最近までは、いかにも嫌そうにしてはいたが、面会には応じていたのに。
 ヒノワと初めて会ったのは、故郷のドンディナ。母の伯父であるジェスター卿の邸を訪ねたとき、当時十四歳だったヒノワを見かけた。
 彼はジェスター卿の孫であり、ドンディナの隣国であるアデュタインの王子らしい。実家で療養する母親に付いてきたのだという。
 上等な金糸を束にしたような美しいブロンド、華やかで愛らしく、上品な容貌、涼やかな声。ほとんど一目惚れだった。それからほぼ毎日、ルマはジェスター邸へ通った。
 いつの頃からだろう。ジェスター邸を訪ねてもヒノワが留守だということが増えたのは。たまに会えたとき、どこに行っているのかしつこく尋ねても、ヒノワははぐらかすばかり。
 あのとき無理矢理にでも問い詰めておくべきだった。そうすれば、どこの馬の骨とも知れぬ男の番にされることもなかったのに。その件については、ヒノワと母ミラ妃が部屋で話しているのを立ち聞きして知った。あのときは腸が煮えくりかえり、眠れない日が続いたものだ。
 結局、取り返すことが叶わぬまま、ミラ妃の死後、ヒノワはアデュタインへと帰国した。追いかけようかとも思ったが、当時少年であったルマには容易にそれが出来なかった。
 会えぬまま月日が経つうち熱が冷め、次第に彼への興味を失っていった。いくら美しくとも、他の男の手垢で汚れたお古などいらない。ルマの妻にはふさわしくない。
 再会したのは五年後、今年になってからだ。手広く商売しているジェスター卿のお供で、商談のためアデュタインへ赴くことになり、久しぶりに孫の顔を見に行くというジェスター卿に付き添い、ヒノワ邸を訪れた。
 子供の頃は綺麗に見えたが、今見るとどうということもあるまい、そう思っていたのだが、ヒノワは五年前よりさらに美しくなっていた。愁いを帯び、色香が増したように感じる。想いは容易く再燃した。
 美術品収集が趣味なのだが、彼はどんな彫像よりルマを魅了した。美しいものは素晴らしい。何よりも価値がある。その価値が理解できる者こそが手に入れるべきだ。一度は他人の手に渡ったとはいえ、やはり諦めきれない。あのとき無理にでも彼を追いかけなかった自分は実に愚かだった。
 宿に戻った後、その日のうちにジェスター卿に持ちかけた。ヒノワが未婚であるなら、自分が夫になれないかと。五年前はまだルマもヒノワも成年していなかったが、今ならすぐにでも婚姻できる。
 ヒノワはどうやら子が出来ぬ身体で、だから未婚なのだとジェスター卿は言うが、子などどうでもいい。あの美しい人を自分のものにしたい。
 不運な出来事で五年前の記憶を失っていることも、こちらとしては好都合だ。あの男との過去をなかったことにして、自分に目を向けさせたい。
 以降、何度もヒノワ邸に通った。飾り立てた言葉を並べ、彼が好きだという花を贈った。しかし、梨の礫。喜ぶどころかにこりともしない。人脈を使って彼の兄姉たちを味方につけたり、市中に結婚の噂をばら撒いてみたりしても、本人はどこまでも頑なだった。
「それもこれも、またあの男のせいに違いない。忌々しい!」
 ひと月ほど前、カカリイの街中で見かけた男。かつてルマからヒノワを奪った馬の骨。なぜアデュタインにいたのか。理由なんて一つしかなかろう。
「奪われたのなら奪い返すまで……」
 そのために、まずは情報収集だ。せっかく今日は早く切り上げて帰ってきたのだ。時間は有効に使おう。
 最初にあたるのは——ああ、あいつにしよう。

 【マルルギにて——ヒノワ】

 夢を見ていた。とてもとても恐ろしい夢を。一面に広がる真っ赤な血だまり。その中に倒れた男。
 ——助けなきゃ……。
 必死に駆け寄ろうとするのに、走れば走るほど遠ざかっていく。繰り返し男の名を叫ぶが、彼はぴくりとも動かない。早くしないと手遅れになってしまう。ヒノワは大切な人を失ってしまう。
 ——ヒノワ、ヒノワ……。
 あの人の声じゃない。誰?
 ——ヒノワ……。
 やめて。そっちには行きたくない。
「嫌だ……」
 あの人のところへ戻りたいのに。
「嫌だ!」
 飛び起きる。溺れた直後のように息が乱れていて、冷や汗で背中がびっしょり濡れている。
 ここは——、サヤが住む小人のような家の、二階の客間。夢、そう、夢。あれは夢。このところ頻繁に見る悪夢。だが、鮮やかな血の赤がくっきりと目蓋に焼きついていて、夢だとわかっていても恐怖が去らない。
「ヒノワ、大丈夫!?」
 勢いよくドアが開き、エプロン姿のサヤが駆け込んできた。震えて答えられずにいると、彼はベッドに腰掛け、ゆっくり背をさすってくれた。
「……また怖い夢を?」
 なんとか頷くことはできた。
「かわいそうに……」
 いたわりに満ちた優しい声色。心地良い掌の温度。いつも彼が身に纏った芳しい花の香。心身の強張りが解けていく。
「気分転換が必要だよね。今日は外に行ってみようか」
「外に……? いいのか?」
「ああ。家の中に閉じ込めたままじゃ、君という花はいつか枯れてしまうから。ただ、変装はしてもらいたいんだ。いいかな」
 再度頷くと、サヤはそっと頭を撫でてくれた。
「着替えて下においで。朝ご飯の用意、出来ているよ」
 ——ああ、懐かしい……。
 この花の香も、不安を解かしてくれるこの微笑みも、胸が温かくなるこの感覚も。確かに懐かしい。

 朝食後、ウィッグと帽子で変装し、久しぶりにこの家の生垣の外へ出た。陽射しがやけに眩しく感じる。通り過ぎる風は爽やかで気持ちがいい。
 サヤはマルルギの大通りまでヒノワを連れていき、街を案内してくれた。サヤの自宅があるのは、畑の中に民家がぽつぽつとあるだけという場所だが、街の中心地はヒノワの邸のあるカカリイと同じくらいには拓けているようだ。
 ヒノワに合わせ、サヤはゆったりと歩を進める。
「学生の頃に住んでいたのはこの街じゃないけど……、君とはよくこうして街中を歩いたんだ」
「デートというやつか」
「そういうことになるね。君は見るもの全てに目を輝かせて、あれは何だ、今度はこっちだ、と俺を引っ張り回していた。屋台の買い食いも好きで、お腹いっぱいで動けなくなっていたこともあったな。俺は無邪気な君を見ているだけで楽しくて……」
「その『君』が僕と同一人物だという実感は全然湧かないが、サヤが『君』を大好きだったのは伝わってきた」
「大好きだった、じゃなくて、今も好きだよ」
「『君』が?」
「君が」
 彼の側にあった手を取られる。
「手くらいいいよね? はぐれたら大変だし」
「うん、まあ……、うん」
 心臓まできゅっと掴まれたようで、頬が熱くなる。なんとも不可思議な反応だ。これはいったい何なのだろう。過去の自分は知っていたのだろうか。
 手を繋いで、街をただ歩く。陽射しの煌めき、故郷とは違った風の匂い、からりとした空気、足裏に伝わる石畳の感触。屋台の呼び込みや客のざわめき、古い荷車の軋み、時計塔の鐘など、人々の営みが作り出す複雑な音の重なり。それら全てが五感を刺激する。歩いているだけだけれどそれだけじゃない。
「あれが市庁舎、で、隣が図書館。小さいけれど、蔵書のセンスがいいんだ。医療院が近いからかな、マニアックな本が結構ある。向かいの市立ホールには、どさ回りの劇団やそこそこ有名な楽団が来ることがあって——」
 少し低めで穏やかなサヤの声は、耳に馴染んで心地良い。
「……あ」
 足元を猫が横切っていく。目で追うと広場の隅の陽だまりに六匹の猫がいて、足を止めた。
「猫だ」
「そうだね。あの子たち、この辺りによくいるよ。機嫌が良ければ撫でさせてくれるかも。人に馴れているから」
「いいよ。寛いでいるところを邪魔したら悪い」
 近すぎない位置にある噴水の脇でこっそり観察する。

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