〈第一章〉自称番との生活

「花壇は好きに使っていいよ。この時期に植えるといい種や肥料、持って帰ってくるね。道具は家に一通り揃ってる」
「ありがとう」
 要望が通った。言ってみてよかったな。
 ついでの質問もあった。
「この家、花が来る前から花の匂いがしていた。なんで?」
「それ、俺の匂いだと思うよ。体臭」
「仕事で花を育てていたら、花の匂いが身体に染みつくのか?」
「そういうわけじゃなくて、元々のものかな。そう、まだ感じるんだ。よかった」
「……ん?」
「君は気にしなくていいよ。機会があれば詳しく説明してあげる」
 気にはなったが、茶を入れるためキッチンに向かった彼を追いかけてまで聞くことでもないので、詳細はわからずじまいだ。
 休憩にしよう、と彼が出してくれた薬草茶は、昨日のものとも今朝出されたものとも香りが違う。その時々によって茶葉を変えるらしい。今回は疲れに効くブレンドだという。
 ソファに並んで座り、息を吹きかけて覚ましながら飲む。
「疲れに効くってどれくらい効くんだ。今日はずっとしゃがみ込んで雑草抜きをしていたから、足が痛いんだ」
「そんなことすることないのに……。これはお茶であって薬じゃないから、劇的な効果はないよ。あまり無理な作業はしないで」
「なんだ、そうなのか。まあ、飲まないよりはましか」
 水分補給のためにも飲んでおこう。たくさん汗をかいたから。
 彼は自分の分には口をつけず、ずっとこちらに視線を向けている。
「……君は環境に適応する能力が非常に高いんだね」
「どういうこと?」
「だって、攫われてこの家に来たのは昨日だっていうのに、今日はもうすっかり寛いでいる」
「寛いでいる、のかな。開き直ったんだよ。いけ好かない相手と結婚するより、ここにいた方がましだなって」
「番を名乗る男が側にいるのはいいの?」
「番として振る舞うことを強制されなければ、別にいい」
「強制はしないよ、約束する」
 花束の礼に、とりあえずはその言葉、信じてやってもいい。

************

 マルルギにあるサヤの家での生活は、思いのほか快適なものだった。
 三食の食事に加えておやつまで用意され、部屋はどこもかしこも清潔、毎日風呂にも入れるし、着替えのための新しい服も、暇潰しのための新しい本も与えてくれた。拐かしの被害者とは思えない好待遇だ。まるで傅かれてでもいるような。
 夕食後にゆっくり会話する時間を毎日持っていたが、どうにもこのサヤという男は、いくら事情があったとはいえ、他国の王子の連れ去りという過激な行為に及ぶようには思えなかった。
 終始穏やかで、暴力的な面など一切感じさせない。いかにも善良な人間で、ヒノワを見つめて微笑んでいる顔と、物思いに沈んでいる悲しげな顔しか知らない。もっと話せば理解できるのだろうか。
 実際、彼と話すのは苦痛ではなかった。身の回りの世話をしてくれる使用人以外と言葉を交わすのは、ひどく億劫に感じていたというのに。
 ヒノワが喋りやすいようさりげなく気を配ってくれているからかも知れない。相槌の打ち方や目線、声のトーン、抑揚、そのどれを取ってもしっくりきて、自然と次の言葉が出てくる。お互いに黙っているときでも、彼の柔らかいリラックスした雰囲気が沈黙を居心地悪く感じさせない。
 まったく不思議な男だ。ヒノワの全身を包み込むかのような、あの甘い花の香りも。
 ヒノワがここに来てから、初めてサヤが丸一日休みの日。休日だというのに、彼は朝から忙しそうにしていた。朝食作りに洗濯、掃除。常に細々と動き回っている。
 初めはそれをぼんやり眺めているだけだったが、窓拭き中のサヤに問う。
「僕も何かやった方がいいか?」
「え、ああ、バタバタしちゃってごめんね。ここ、もうすぐ終わるから」
「そうじゃなくて。僕は暇なのにサヤだけ働いているから……。手伝いとか」
「王子様にそんなことさせられないよ。そもそも、ここには俺が無理矢理連れてきたんだし。ゆっくりしてて」
「暇を持て余すというのも苦痛なものだ」
「うーん。じゃあ、これが終わったら一緒に畑の整備の続きをしよう。新しい種もあるんだ。どう?」
「やる」
「よかった。ちょっとだけ待ってて」
「ああ」
 廊下の窓をピカピカにし終えたサヤと裏庭へ出る。
 先日、花壇と畑を整備し、種を植えた。すでに発芽しているものがちらほらある。まだ空いているスペースがあり、そこを畑として整えて新しい種を植える予定だ。自分の家で野菜を育てると、随分食費の節約になるのだという。
 耕すところまでは終わっているので、鍬を持って畝を作っていく。まだまだサヤのように上手くはできないが、教わりながら何とかこなす。
 体力が削られる作業だというのに、サヤは何だかご機嫌だ。調子外れのハミングまで聞こえてくる。
「余裕だな」
「まあ、慣れているからね」
「慣れていてもしんどいものはしんどいだろう」
「今は医療院での仕事一本だけど、前は色々やってたからなあ。それで体力はついたかな。コックに大工に郵便配達員に……」
「そんなにか?」
「お金のない一般市民はそんなものだよ。特に郵便配達は他と並行してずっとやってたなあ」
「郵便配達……。そういえば、手紙、もうそろそろ着いた頃かな」
「まだもうしばらくかかるんじゃない? 無事に彼らの手に渡ることを願おう」
 邸の使用人宛に手紙を出すことを許してもらえたので、五日ほど前、手紙をサヤに託した。
 他者に開封される可能性も考え、詳細な事情や個人名は一切書いていない。元気にしていること、事情があってしばらく帰れないこと、それに対する謝罪。
 これだけでは差出人がヒノワだと察してもらえないかもしれないから、サヤに預けていたロケットペンダントも一緒に送ってもらえるよう頼んだ。中の肖像画は抜いたが、生前の母が職人に作らせた特別なデザインだから、あの従者やその母ならばヒノワのものだとわかるはず。
 サヤは数人を経由して邸に届くよう手配してくれたらしい。
 先に一畝作り終えたサヤは、ヒノワの作業を手伝おうとしてきたが、自分でやると断った。彼は鍬の柄を杖代わりにして寄りかかり、危なっかしいヒノワの手つきを辛抱強く見守っていた。
「しばらく帰らないって言っちゃったね」
「言ったが……、なんだ。ここで暮らせと言ったのはサヤだろう」
「でも、君には俺に従わないっていう選択肢もあるわけでさ」
「え、出ていっていいのか?」
「よくないよ。よくないけど……。出ていこうと思えば出て行けるだろう。ここを出て警察なり大使館なり適当なところに駆け込んで、保護を求めればいい。大切なペンダントまで同封しちゃうし、いったいどうしちゃったのかなって」
「自分を攫った相手に唯々諾々と従っているなんて、王子としてはふさわしくない行動だろうな……。でも、ここの居心地がよすぎるのが悪い」
「居心地いい? じゃあ、自ら望んでここにいてくれているということかい」
「現実逃避先としてちょうどよかったんだ」
「そう。ならもっと居心地よくして、ヒノワが現実に帰れないようにするね」
「あんまり世話を焼かれすぎてもな。今くらいがちょうどいい」
「そっか、残念。君の世話をするのは楽しいのに」
 楽しいのか。楽しそうだな、確かに。ヒノワのために何かをしているときの彼は。今朝の家事だってにこにこしながらやっていた。
 どうしてそこまででできるのだろう。彼はヒノワの使用人として雇われているわけではない。こんなことをしたって何の見返りもないのに。
 彼がこの国でヒノワと過ごしたという五年前、きっとそこに理由があるはず。
「よければ、五年前のこと、また聞かせてくれないか」
 食後の語らいの中で、サヤは時折ヒノワと共に過ごした過去の話を口にすることがあった。多くを一気に捲し立てるとヒノワの負担になると思ってか、毎回少しずつだ。自分のことなのだからもっと聞きたいと思っていたが、何となくこれまで口に出せず、彼が語るに任せていた。
「一応信じてはくれてるの? 五年前に俺と君が同じ時間を共有していたってこと」
「番云々はなかなか信じがたいが、知り合いではあったのかなと思っている」
 攫われて目覚めた朝が初対面であったとは思えないほど、彼はヒノワのことに詳しい。
 記憶喪失の時期を知っていたのもそうだし、過去に好きだった本や食べ物をはじめ、母や祖父母、アデュタインにある邸で働く使用人の名前まで知っていたし、また、愛する人々に祝われた誕生日の思い出、湖の畔にある別邸を訪れたときのこと、父に初めて会った日のこと、少し苦手な兄姉のこと——あの時の自分は随分多くのことを目の前の男に語って聞かせていたらしい。
「……よし」
 やっと自分の担当の畝が終わり、サヤにチェックをしてもらう。所々直しながら、彼は口を動かすこともやめない。
「うーん、何が聞きたい?」
「そもそもどうやって出会ったんだ? 全く接点がなさそうに思える。五年前、サヤは学生だったんだろう?」
「そうだね。俺が二十歳のときで……」
「二十歳か。今の僕と同じくらいだな。あのとき僕は十四歳だったから……、うーん」
「言いたいことはわかるよ。大人と子供じゃないかってね。それについては俺も悩まなかったわけじゃないけど、そんなこと気にしていられないほど好きになったんだ」
 サヤの語る、出会い、惹かれあって番になるまでの物語。一部を掻い摘まんで話しているのだろうが、すでに彼から聞いていた内容の中に、初耳の情報もあった。
「……別れ別れになったのは、やはり僕が記憶喪失になったからか?」
「それもある。でも、それだけじゃない。君が記憶を失ったって、俺は毎日君の元に通って、思い出せるまで寄り添おうとしただろう。——それが可能なのであれば」
「つまり、それができない理由があった?」
「ああ」
「……言えないことか?」
「いや……。そうだね、話しておくべきだ。君と番になって何日か経った頃かな、俺は暴漢に襲われて、生死の境を彷徨うことになった」
「暴漢に……?」
 背中にじわりと寒気が這い上ってくる。
「大学からアパートまで帰ってきて、部屋の扉を開けたとき、背後からナイフで刺された。幸い隣人にすぐ発見してもらえたんだけど、傷が深くてね。結構危なかったんだ。結局普通の生活に戻れるまで一年もかかった」
 サヤはあくまで淡々とした口調だ。しかし、心臓を直接握り込まれるようなただならぬ恐怖がヒノワを襲う。目眩がして、後方に倒れかけたところを支えられた。
「大丈夫?」
「ああ、……問題ない」
「こんな血生臭い話、君にはしたくなかったんだけど」
「いい。聞かせてくれ」
「……うん。で、少し具合がよくなってきた頃に病院から特別外出許可をもらって、君が滞在していた邸に会いに行ったことがあったんだ。でも、君のお爺さんに追い返された。当然だよね。一介の貧乏学生と王子様が、なんて信じてもらえなかった。その時教えてもらえたのは、君がアデュタインへ帰ったということだけ。なぜ帰ったのか、どうすれば会えるのか、何もわからなかった」
「……」
「ようやく退院できて……、アデュタインへ行って君と会わないことには始まらない、とりあえず行こうって気を取り直してはみたんだけど、そこでまた問題発生。医療を受けるのはタダじゃない。長期間の入院で気づけば借金まみれ。借金取りの目があって、とても国外に出るどころじゃない。親身になってくれた教授に働き口を紹介してもらって、その教授の強いすすめもあって、働きながら何とか大学を卒業、今の職に就いた、というわけです。ちなみに、今はもう借金完済しているよ」
「すごいな……」
 五年の間、彼は度重なる逆境にもめげず、乗り越え、ようやくアデュタインの地を踏んだ。半年間一緒に過ごしただけの恋人を追って。そこから穏やかなだけでない彼の執念や熱情が見える気がした。
 多分真実なのだ。彼の語ることは、全て。妄想や勘違いや嘘ではなく。妄想や勘違いだとするには、彼はヒノワのプライベートな情報を知りすぎているし、裏に企みのある嘘ならば、こんなに心を揺さぶられるはずはない。実感なんてまるでないけれど、おそらくそういうことだ。無くした記憶の中で、彼はヒノワと生きていた。
 彼が必死でもがいていたのと同じ五年で、ヒノワは何をしてきただろう。——思い浮かぶことなんて一つもない。何もしてこなかった。

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