(1)君と出会ってからの僕

 講師が講義の終了を告げると、学生たちはぞろぞろと教室を出ていく。ちょうどランチの時間帯。腹を空かせた学生たちで出入り口が混雑するから、特に急いでいなければゆっくり片付けて出たほうがいい。
 玉木楓(たまきかえで)は几帳面な字の並んだルーズリーフを愛用のバインダーに閉じ、リュックに入れる。続いて筆記用具をペンケースに仕舞っていると、後ろの方の席から女子学生の話し声が耳に入ってきた。
「ほら、あの人だよ。前にかっこいいって言ってたの」
「あれ? あの人?」
 彼女たちが誰のことを言っているのかピンと来るぐらいには、楓は自分の容姿に自信があった。そして、悲しいことに、この後どういう会話の流れになるのかも、おおよそ見当がついた。聞き耳は立てるが、片付けの手は止めない。
「そうそう。モデルか若手俳優にいそうな感じ。ずっと鑑賞してたいわー」
「あんたねえ。知らないの? 有名じゃない。あの人、あれだって」
「あれって?」
「だからー、オメガなんでしょ」
 声を潜めたつもりのようだが、本人に筒抜けなので意味はない。こんな場面、大学に入ってから何回遭遇したことだろう。
「うそ! ショック。男のオメガってほんとにいるんだ」
「だよねー。私も初めて見た」
「オメガって身体の中は女の子なんでしょ」
「違うわよ。両方入ってるんでしょ」
「でもなあ、半分でも女の子だったら無理かな。だってなんか、レズビアンみたい」
「わかる。結局やっぱアルファってなるよね」
「ねー。で、次の合コンでね……」
 ——アルファは嫌いだ。アルファ男に群がる女も嫌いだ。大嫌いだ。
 席を立ってリュックを背負うと、楓はつかつかと彼女たちに歩み寄る。
「おい、聞こえてんぞ。ブスども。そんな顔でよく男捕まえる気でいるよな」
 硬直する女たちを一睨みし、教室を出ていく。こんなことをしているから、楓には友達がいない。

 学部棟の外に出ると、肌を襲う日差しはまだきつい。長い夏休み明けの九月、まだ秋は遠いようだ。
 このあと講義の予定はない。大学を出て、途中で昼ご飯を買ってから、バイトに行くつもりだ。炎天の中、学生たちの脇を早足で通り抜ける。自分に近寄ってくる人影は認識していたが、足は止めない。時間の無駄だから。
「楓ちゃーん。もう帰るの?」
「ねえ、遊ぼうよー」
 頭の悪そうな男の声が二種類。無視してずんずん進む。明らかな拒絶を示されているにも関わらず、男たちは諦めない。
「俺たちとご飯どう? 奢ったげるから」
 高級焼肉でも嫌だ。彼らの顔を見ていると、どんな料理も不味くなる気がする。しつこい。昨日も断ったはず。先週も。
「ねえ、聞こえてる?」
 男が肩を掴んだのを、楓は即座に振り払う。
「触んな」
「やっと喋った。楓ちゃん、何だったら俺らと遊んでくれるの?」
「遊ばない」
「そんなツンツンしてたら可愛い顔が台無し」
「可愛い言うな。お前ら下心丸出しでキモいんだよ。ヤリたいって顔に書いてある」
「わかっちゃった? なら話は早い。ヤラして」
「男とはヤラねえ」
「一回だけでいいから」
 同じことをその辺を歩いている女子学生に言ってみろと言いたい。ひっぱたかれた上に、要注意人物の最低男と学内に噂を広げられるだろう。いや、案外素直に股を開いてくれるかもしれない。彼らが希少な性別だというだけの理由で。
 楓は立ち止まり、男たちに向き直る。
「うるさい。黙れ。それ以上喋ったら学内セクハラ相談窓口に電話する。脅しじゃねえぞ。俺、番号覚えるくらい架けまくってるからな。お前らにはピーチクパーチク噂話してるブスがお似合いだね」
 一気に捲し立て、いっそう早足で正門へと急ぐ。今日は幸いそれ以上しつこくされることはなかった。

 アルバイト先には電車で行く。大体二十分程度だ。駅から通い慣れた道を歩き、途中コンビニでパンと飲み物を買って、大通りから一つ外れた静かな通りに入る。年代物のビルの中では少しだけ新しい、こじんまりした三階建て、そこに江野(えの)玩具の事務所がある。
 楓はまず階段で二階に上がると、無人の休憩室でパンを平らげる。わびしいランチを終えてから、邪魔になるリュックをロッカーに仕舞い、一階の事務所に顔を出す。涼しいクーラーの風が扇風機でかき回されていて、とても快適だ。
「お疲れ様でーす」
 物は多いが整理整頓が行き届いたそこには、一番奥に社長の机、その手前に事務机が六台と、隅に年季の入った応接セットも置かれている。
 机で各々の作業をしていた三人——社長夫人、社員の泉田実琴(いずみだみこと)、パート女性は楓に挨拶を返してくれる。社長と社長の息子は外に出ているらしい。
 まずタイムカードに打刻してから、次にすること。社員の実琴に指示を貰いに行くこと。彼は楓の面倒を見るように社長から仰せつかっている立場で、プライベートでは楓の数少ない友人でもあった。
 楓が近寄っていくと、彼は顔を上げ、下がった眼鏡を直す。彼を見るとほっとする。楓にいつも優しい笑顔を向けてくれるから。
「ああ、楓、外は暑かったでしょ。ちゃんと水分補給してる?」
「してるしてる。さっき昼ご飯食べたときペットボトル空にした」
「ならいいんだけど。あ、そうそう、これ見て」
 実琴はパソコンの影に隠れていた手のひらサイズのマスコットを二つ取る。そのうちの一つ、首から下は着流し姿の侍なのだが、頭が包み紙の両端をねじったキャンディー型という奇妙な人形で、もう一つが頭がキャンディー、下は犬というものだ。
「これ、あめ左衛門の新作?」
「うん。今度は飼い犬つき。どう?」
「どうって言われても……」
 ここ江野玩具の現在の売れ筋はレトロポップなイケイケうさぎ『うさのすけとなかまたち』グッズだが、このあめ左衛門も「へたうまな絵に味がある」「なんかクセになる顔」とSNSで一部の話題になっているらしい。悪人をアメチャンバラで成敗し、子供には飴をあげるという正義のヒーローだ。
 楓はこういうファンシーグッズの類いの良し悪しはよくわからないのだが、なんとか感想をひねり出そうと飴男とにらめっこした。なんとも言えない悲哀を感じさせる顔がこちらを見つめ返してくる。
「人生の哀愁を感じるよね。ヒーローの孤独を表してるみたいな」
「売れそう?」
「さあ……。俺はうさのすけよりは好きかなー」
「そっか。うん、わかった、ありがとう。それで……」
「今日何すればいい?」
「書き出しといたから。上から順にお願いします」
 あんな感想でよかったのだろうか。たぶんまったく参考にならないだろうが、それ以上は楓からなにも出てこないと判断したのか、実琴は本日の業務内容を記したメモを渡してきた。本人に似て可愛らしい文字だ。年上の男に失礼だろうが、女っぽいわけではないのに、実琴は文字だけではなく表情も仕草もどこか可愛らしい。
 受け取ったメモの内容を上から順にこなす。コピー取り、郵便物や伝票の整理、データ入力、合間に電話対応。ここでの楓に役目は雑用全般だ。時間が余れば掃除もする。せかせかと休みなく動き回っていると、終業時間まであっという間だ。
 タイムカードを押すには押したが、実琴と帰る約束をしていたので、彼の仕事が終わるのを待つ。二階のロッカーからリュックを取ってきて、応接セットのソファーでゲームをしていると、そう待たされることもなく実琴から「帰ろう」と声がかかった。
 実琴の同居人が外で食べてくるそうなので、楓たちも夕飯は外食で済ませることにした。事務所の近くの小綺麗な居酒屋に入る。居酒屋とはいっても、楓はぎりぎりまだ十代だし、実琴は服用している薬の関係があり、二人とも酒は飲まない。料理が美味しいから好きな店だった。
 座敷席であぐらをかいて座り、ジンジャエールを一気飲みしたあと、楓は今日大学であったことを話し出す。実琴は数少ない楓の『同類』だし、外見に違わず穏やかな人柄なので、楓の愚痴をいつも優しく受け止めてくれる。
「まだまだ偏見って強いよね。こんなだから性別を偽らなきゃいけなくなっちゃう」
「俺なんか偽ってるつもりでも、アルファ男が騒ぎまくるから、学内に知れ渡っちゃってるよ。露骨に指差されるときもある。あれがオメガの子って。見世物じゃねえっての」
「楓はさ、顔が派手で目立つっていうのもあるよ。僕は地味だから、大学時代は平和だったなあ」
 地味だとは言うが、実琴が眼鏡をはずして重い前髪を上げると化けるのを、楓は知っている。
 重く息を吐き出し、配膳されたばかりの唐揚げに大口でかぶりつく。熱くてすぐに後悔し、水を飲む。
「ミコちゃんは性別で嫌な思いしたことないの?」
「あるよ、もちろん。高校の時ちょっとね。でも、楓みたいに子供の時からずっとってわけじゃない」
「そっか。あーあ。もう諦めるしかないのかな」
 こう毎日悩ませ続けられると、弱音も吐きたくなるものだ。
 この国には、男女の他に、それぞれ三つに分化した性別が存在する。アルファ、ベータ、オメガ×2(男女)で、計六種類の性別。人工比率的にはベータが大多数で、アルファが一割、オメガはそれより少ない。
 一般的に、あくまで一般的に言うなら、ベータは多数派の平均で、アルファは知能も身体機能もベータより優れた者が多い。楓にしてみれば大いに異論のある乱暴な決めつけだが、世間的にそういうことになっているから、アルファはどこに行っても有り難がられる。学校でも職場でも合コンでも。アルファに生まれれば勝ち組、いくら平等化が叫ばれたって、それはなかなか変わらない。
 そして、最後にオメガ。かつて「産む性」などと言われアルファよりベータより下に置かれていた性別。今は差別的だからとそういう呼び方はされなくなったが。
 産む性というその言葉通り、オメガは男女どちらでも子供を産める。つまり子宮がある。外見が男でも腹の中には子宮を持っていて、精巣も共存している。「半分女の子」「どっちも入ってる」あれはそういう意味だ。
 数が少ないだけに好奇の目で見られやすく、偏見にさらされやすい。好きでこんな身体に生まれてきたわけではないのに、本当に迷惑な話だ。さらに厄介なのが——。
「キモいアルファ男どもを撃退する方法、ないかなあ。毎日毎日うざいうざいうざい。ゲームみたいに無双したい」
 こう、長い槍的なものを振り回して、一気になぎ倒したい。大学で絡まれるたび、よく妄想する。
「喧嘩は駄目だよ!」
「わかってるけど……」
 オメガはアルファを誘う、アルファはオメガを求める、などと言われる。詳しい仕組みは楓にはよくわからないが、アルファの本能を刺激するオメガフェロモンとかいうものが関係しているらしい。
 楓はそんなものを振り撒いた覚えはないし、アルファを求めたことなど一度もないのだが、バカなアルファ男はゴキブリホイホイに集まるみたいに楓に寄ってくる。一度オメガを抱いてみたい、それだけの理由で。「オメガは特別に具合がいいらしい」とか、そんな噂もあるらしい。別に楓じゃなくてもオメガ性であれば誰でもいいのだ、あいつらは。
 イライラにはカルシウム、と実琴がすすめてきたので、焼きシシャモを頭からかじり、白飯をかき込む。
「俺は女の子と普通に恋愛したいだけなのにな。半分女の子じゃ無理なのかな」
 アルファ男は掃いて捨てるほど寄ってくるが、それ以外からはまったく相手にされないため、楓はこれまで恋人がいたことはない。年頃に若者にとっては切実な問題だった。
「そんなことないよ。皆が性別をオープンにしているような海外の国では、ベータ女性との結婚例もよくあるって言うよ。まだまだ若いじゃない。楓にもきっといい人が見つかるって」
「そうかな。うん、ミコちゃんに言われたらそんな気がしてきた」
「よかった。大学卒業まではしんどいかもしれないけど、うちに就職したら楽になると思うよ。社長に理解があるから働きやすいんだ」
「雇ってもらえるかな」
「大丈夫じゃない? 楓、真面目によくやってくれてるし。社長も奥さんもわかってくれてるよ」
 恋愛もそうだが、それよりむしろ就職というのが大学生には大きな問題だ。
 江野玩具は実琴の小学生時代の同級生の父親が経営する会社だ。実琴は小さい頃から江野一家と家族ぐるみの付き合いで、彼らは実琴の性別も、性別についてくる様々な厄介事も、よく理解している。あそこにアルファの従業員はいないし、ずっと働くことができれば、きっとこんなに精神がささくれ立つような経験を毎日することもないだろう。それに、あそこには実琴がいる。実琴の側で働くのは楽しい。
「ミコちゃん優しい。お嫁さんにしたい」
 わりと真剣にそう思ったこともあるのだが、実琴は笑って本気にしない。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10