(1)君と出会ってからの僕

 顔を上げると自分の予想が外れていたことがわかった。そこにいたのは、先月伊崎とも顔を合わせた例のアルファ男二人組だった。
「楓ちゃん、バインダー見つかったんだ。よかったね」
「は? なんでお前らがそれを」
「いやあ、ちょっと借りて元のとこに返しただけ」
「貸した覚えはないね!」
 そうだ。ここで行われていた講義のとき、彼らもいた。学部学科が違って履修登録していなくても、講義を聞くこと自体は禁止されていないので、出入りは自由にできるのだ。彼らを見かけたときはまた絡まれるのではないかと身構えたが、声をかけられなくてほっとしていたのだが。新しい嫌がらせを始める気か。
 伊崎が彼氏の振りをしてくれてから寄ってこなくなって快適だったのに、今さら何だ。
「いいじゃんいいじゃん。ちょっとくらい」
 にやにや笑いながら近づいてくる。楓を性的な対象としてしか見ていないことが明らかな、下品な目つきと声。ああ、気持ちが悪い。あと一秒だってこんなところにいたくない。
「……どけ。帰る」
「だーめ。用が済むまで帰してあげない」
「さっきドアに鍵かけたから、外から誰も入って来れないよ」
「……は?」
 どういうことだ。何が言いたい。背中に冷たいものが走って、重いリュックを胸に抱えたまま、じりじりと後ろに下がって距離を取る。
「ねえ、彼氏は元気?」
「お前らには関係ないだろ」
「関係あるよ。挨拶してもらったし」
 男たちはせっかく取った距離をさらに詰めてくる。もしかして、これはかなりまずい状況なのではないか。せめてもの虚勢で、目つきを鋭くして怒鳴る。
「……なんだよ! こっち来んな!」
「どうせあばずれの男好きなんだろ。オメガだもんな。俺らとも遊んでよ」
 ひどい侮辱だ。今好きなのは男だけど、男は一人しか知らない。
 とうとう壁際に追い詰められる。揃いも揃って図体が大きい二人に立ちはだかられ、逃げ道がない。考えろ。どうしたらいい。考えろ。考えろ。
 時間稼ぎをするため、なんとか震えないよう声を出す。
「何が目的?」
「前から言ってるじゃん。ヤラして」
「こんなとこで? ベッドじゃなきゃ嫌なんだけど」
「ホテル行こうって? そんなこと言って途中で逃げる気だろ」
「ここでいいよ。すぐ済ませるから」
「勝手なこと言うな! そんなのオナホにでもハメてろ。ふざけんな!」
 オメガは自分たちより下の存在で、性欲を満たすためだけに利用しても構わない。いつの時代の考えだ。悔しい。悔しいが、どう逃げればいいかわからない。
 痛いほど肩を掴まれ、押しつけられた壁は身体の芯を凍らせるほど冷たい。顎に手をかけて上を向かされる。
「なあ、オメガってケツの中に女の穴があるって本当?」
「そこ突かれると、すっごく気持ちいいらしいね」
「なっ……!」
 唇が唇で塞がれる。固く閉じた口唇の境を舌で舐められ、全身に鳥肌が立つ。手始めに舌で口の中を犯そうというのだ。たとえ口の中でも御免だ。
 もう一人は硬直する楓の身体を撫で回す。手がズボンのベルトのバックルを外し、無遠慮に侵入してきた指が素肌に触れる。下着の中をまさぐられ、尻の割れ目を指がなぞる。
 怖い。怖い。気持ち悪い。吐きそう。もういっそ吐いてしまえれば、こいつらも離れていくのに。
 ——やめろ、やめろ、やめろ!
 咄嗟に身体が動いた。胸に大事に抱えていたリュックを、思い切り前に突き出す。キスをしていた男の鳩尾にヒットした。彼はよろめいて尻餅をつき、頭を椅子にぶつけていた。もう一人は、驚いたのか手を引っ込める。——よし、いける。
「優しくしてりゃ調子に乗りやがって。いい加減にしろよ!」
 倒れた男は大声でがなり上げるが、それに怯むわけにはいかない。
「調子に乗ってんのはお前らだろうが!」
 自分の身は自分で守るのだ。楓には武器がある。リュックの中には辞書並みに分厚い本が二冊と、買ったまま飲んでいないペットボトルの水が一本。とびきり重い武器。怪我? そんなのは気にしない。血が出ようが骨が折れようが知ったことか。
「ヤレるもんならヤッてみろよ!」
 リュックの肩紐を持って力任せに振り回す。空振りもしたが、何発かはクリーンヒットした。相手からごめんなさいが出るまで、死に物狂いで暴れた。

 電車を降りて駅を出ると、雨が降っていた。結構な勢いだ。駅前のコンビニで傘を買い、目的地へと急いだ。
 マンションの前。見上げて確認すると、外からでも部屋の電気がついているのが見えたから、実琴はおそらくもう家に帰っている。きっと実琴なら優しく話を聞いて慰めてくれるはずだ。それで、少しはましな気分になれる。でも、今会いたいのは彼じゃない。
 オートロックを解除した住人の後に続き、そっと内部に入った。
 伊崎の部屋のドアは閉まっていた。外から見て暗かったから、在宅でないのはわかっていたが。
 ドアにもたれかかって座り込む。雨のせいでいっそう気温が下がり、コートとマフラーがあったって寒い。初めはスマホでゲームをしたりしていたが、そのうち頭がぼんやりしてきて、うつらうつらしながら待つ。
 いつ帰ってくるだろう。あと一時間ぐらい? 早く会いたい。少し顔を見るだけでいいのだ。そうしたら、納得して帰るから。
 どれくらい経っただろう。ふわふわした意識の中で、物音を聞いて顔を上げる。そこにたたずむ愛しい男。楓が求めていたもの。
「……やっと帰ってきた」
 伊崎は眉をひそめる。
「お前、何やってんの?」
「待ってた」
「そりゃわかるけど、連絡ぐらいしろよ」
「でも仕事だろ」
 仕事の邪魔はしたくない。
 立ち上がるがふらつき、伊崎に腕を持って支えられる。
「お前、変だぞ。熱くね?」
 額に彼のひんやりした手が触れる。不思議だ。あいつらだと虫唾が走るほど気持ち悪かったのに、彼に触られるのはちっとも嫌じゃない。
「やっぱ熱あんだろ。いつから待ってたんだよ」
「七時ぐらい?」
「三時間も経ってんじゃねえか。とにかく入れ」
「……いいの? 週末じゃないのに」
「週末じゃないといけないことはないだろ」
 うれしい。ちょっとでも時間を取ってくれるのだ。
 中に入れてもらい、寝室に連れて行かれる。伊崎がエアコンをつけてヒーターを運び込んでいる間に、もたもたとリュックを下ろして防寒具を取った。
「とりあえず寝ろ。風呂入るか? お湯張って温まる?」
「ううん。いい」
「晩飯は?」
「食べてない」
「じゃあお粥か? こういうときは。ほら、とりあえず横になれ。それから、体温計どこだったかな」
 言われるがまま、ベッドに横たわる。ここで初めてした。一晩中抱き合っていたところだ。
 伊崎はいったん寝室を出て体温計を持って戻ってきた。計ってみると三十七度八分。慌てるほどではないが、しんどいには違いない。熱を出したのは久しぶりだ。頭が重く、身体の節々が痛い。ああ、確か以前もこんな感じだったなと思い出す。
 うつろな視線を向けると、伊崎は頷いた。
「よし。俺はちょっとコンビニ行ってくるわ。お粥的なもの買ってくる」
「いらない」
「なんか腹に入れないと駄目だろ」
「ミカンの缶詰とかゼリーとかなら」
「わかった。あとポカリと冷えピタ? 薬は……」
「抑制剤の関係で飲んだら駄目なやつある。明日になっても下がってなかったら病院行く」
「そうか。じゃあお前は寝とけよ」
 寝たら泊まることになると思うが、いいのだろうか。いいのだろう、きっと。だって楓は熱があるのだし、イレギュラーということで、甘えていい理由はある。
 彼は楓の掛け布団を肩まで引っ張り上げると、背中を向ける。それがひどく寂しく感じた。
「待って。ここにいて」
「でも、買いに行かないと何もないぞ」
「もうちょっとでいいから」
 伊崎は何かを見極めようとするようにじっと楓を見たあと、部屋の端にある折りたたみの椅子を引っ張ってきて、それに座った。
「なんかあったのって、今聞いてほしい? それとも治ってからがいい?」
「いま」
 この気持ちを吐き出さないことには寝られそういない。聞いてほしい。
「なんかあったの」
「先月さ、大学で絡んでくるっていう二人組に会ったろ。あいつらに嵌められて」
「ハメ……!?」
「いや、ヤラれてねえから。罠に嵌められたって意味。俺とあいつらしかいない教室でさ、また気持ち悪いこと言われて、キスされて、触られて、ほんともう嫌で……。俺がオメガなのが悪いの? あんなことされて我慢しなきゃなんないの? いっつも下に見られて……。セクハラ通報何回やっても状況変わんないし……」
 大学側も何も対応してくれない。小学校も中学校も高校も、どこでもそうだった。オメガだから仕方がない、我慢しろ、いちいち対応しきれない。はっきりと口に出すことはないが、彼らの言わんとしていることは、いつも同じだ。もう慣れてはいたが、今日みたいなことはさすがに怖い。
「……かわいそうにな」
 伊崎の指が伸びてきて、楓の髪を梳く。頭を撫でられているようだ。
「でも、ちゃんと自分で撃退したんだ。重いリュック振り回して。ごめんなさいって言わせてやった」
「えらかったえらかった」
「だろ」
 自分を守るための楓の孤独な戦いを彼が認めてくれたことで、これまで背負わなければならなかったものが少しだけ軽くなった気がした。
 楓の髪を撫でる指が心地よくて、目蓋が重くなってくる。
「……法務部の同期に弁護士紹介してもらおう。その人連れて行けば、大学側の対応も変わるだろ」
「弁護士とか、俺、金ない……」
「そんな心配はしなくていい。買い出しから帰ってくるまでちょっと寝てろ。それからなんか食べてまた寝ろ」
「……うん。でも、早く帰ってきて」
 彼の指を握る。その指を彼は楓の頬にそっと滑らせる。
「わかった」
「ああ、あと」
「なに」
「熱下がったら、もう一回キスしてくれる?」
 今日されたキスを忘れさせて。きっと他の誰にもできないことだから。
「……いいよ」
「やくそく」
 安心して目を閉じる。いい匂いのするベッドに横たわっていると、彼がいつまでも側にいてくれるような感じがした。

 翌朝起きると熱は下がっていた。若さって素晴らしい。
 伊崎は出社した後でいなかった。もう十時だから仕方ない。かわりに書き置きがあった。
『一応お粥のレトルトとパンをテーブルに出しとくけど、冷蔵庫のもの何でも食べて。出るとき戸締まりお願い。鍵はポストへ入れといて。熱が下がってたとしても、念のため病院行っとけよ。今日一日学校は休んで安静に! 明日以降も怖かったらしばらく無理に学校行くことないぞ。また電話する。』
 昨日世話になった身だから、素直に言うことを聞くことにした。テーブルの上の菓子パンと冷蔵庫の牛乳をいただいたあと、ゆっくりする時間もないのですぐに鍵をかけて出た。
 その足で、かかりつけのオメガ専門クリニックの午前診療に滑り込む。結果は異状なし。ついでに一ヶ月に一回の注射も打ってもらった。
 風邪は引いてしまったが、こじらせることはなかったし、伊崎に会いに行って話を聞いてもらえてよかったと思った。

 その日の夕方。休みで暇になったので、久しぶりに自宅で夕飯の準備をしていた。母も姉も仕事に出ていて、家には楓しかいない。
 冬といえば、そう最強のお手軽メニューの鍋だ。病み上がりに良さそうなみぞれ鍋をチョイスして、おろし器で大根おろしを大量生産していると、着信があった。伊崎だ。急いで手を洗ってきて、応答した。
「はーい」
『今大丈夫?』
 一言声を聞いただけで、表情筋が緩む。風邪は治ったが、別の病気で楓は重症だ。ふにゃふにゃした声にならないように注意しなければいけない。

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