(1)君と出会ってからの僕

「なあ、楓は先週の続きするつもりで来たんじゃないのか? しないの?」
「その前に話し合うとか言ったのは亨だろ!」
「うん。だけど、あまりにもリラックスしすぎててびっくりしちゃって」
 伊崎が正座していたので、楓も無意識のうちに正座になって膝をつき合わせる。さあ、何でも言え、どんと来いだ。いや、何でもは訂正しておく。下ネタは苦手だ。
 彼は真顔を作ろうとしたが、テレビから流行りの一発ギャグが聞こえてきて破顔した。
「うん、もう、いいや。付き合っちゃう?」
「軽い!」
「でも、替えのパンツ持ってきてる時点でオッケーってことだろ」
「そうだけど! そうだけど、なんか違う」
「跪いて愛を乞う的なのが理想なのか? 頑張ってみる?」
 からかいの混じった笑み。ガキだって、恋愛経験少ないって馬鹿にされている? さすがに楓だってそんな乙女のような願望を持ったことはない。でも、このままというのは嫌だ。大事なことを聞いてない。
 自分の膝をぎゅっと握りしめる。
「そこまでしなくていい。す……」
「す?」
「……好きって言って」
 蚊の鳴くような声でぼそぼそとこぼす。
 伊崎はまじまじと楓を見つめた後、我慢できなかったのか、大声で笑い始めた。
「ひどい……、ひどい!」
 口にしたことを人生で五本の指に入るくらい深く後悔した。表に出て走り回りたいほど恥ずかしい。楓はすっくと立ち上がってリュックを掴む。
「帰る! もうこんなとこ二度と来ない!」
「待てって。赤くなってぷるぷるしてんのがものすごく可愛かっただけだから」
「その言い方がもう馬鹿にしてる! なんで。そんなおかしいこと言った!?」
「馬鹿にしてない。お前、見た目結構チャラいのに、そのギャップがなんかおもしろくて」
「おもしろいんだろ。馬鹿にしてるんじゃん! てかチャラくねえわ!」
 昨日ドキドキして眠れなかった時間を返せ。顔に一発食らわせてやろうかと思ったがそれもできず、ただ負け惜しみのように睨むのが精一杯で、ドアの方に足を向けた。今ならまだ終電がある。家に帰れる。でも、なぜ。
「ごめん」
 背中が温もりに包まれ、楓を引きつけてやまない匂いが全身を覆う。後ろから楓を抱きしめた彼は、痛いくらいに腕に力を込めた。
「泣かせるつもりはなかったんだ。ごめん」
 なぜ、ぼろぼろと涙が溢れて止まらない。怒っていたはずなのに、悲しいのはなぜ。
「俺は……、俺は、本気で」
「わかってる」
「こんなに好きになったのも、ほしいと思ったのも初めてで……。お前にとっては数ある中の一人でも、俺は」
「……からかってごめん。もうしない。ちょっと浮かれてたんだ。大人げなかった。俺も好きだよ。ちゃんと好き。大好き」
 好きと言えとねだられたから言っただけだろう。そう突っぱねてやりたいが、耳に馴染む低さの声は楓を絡め取って動けなくする。言わされただけだとしてもうれしいなんて、やっぱり楓は馬鹿だ。せめてもの意地で、腹のあたりに巻き付く腕に爪を立てる。
「お前だってヤリたいだけなんだろ」
「それだけじゃないよ。デートは毎回楽しかった。これからもっといろんなとこ行こ」
「奢らされるだけ奢らされてんのに変なやつ」
「楓の気を引くためだから、なんてことないよ。……なあ、楓、顔見せて」
「やだ」
「お願い」
 彼の右手が上ってきて、手の甲が楓の頬に触れる。
「一昨日の約束、覚えてる?」
「……知らない」
「キスしてってお願いしてきたときの楓、すごく可愛かった。どうしようかと思っちゃった」
 器用な指が唇を探し当て、そっとなぞる。ぞくっとして思わず声が出かけたが、それを打ち消そうとするように、彼の指に噛みつく。
「痛いなあ。舐めて」
「んっ……」
 人差し指と中指が口内に押し入ってきて、ゆったりした動きで歯の裏や上顎を撫でる。口の中がこんなに敏感なんて知らなかった。考えてみればそうか。キスがあんなに気持ちいいのだから。なけなしのプライドが、反応してはいけないと命じているのに、動きに合わせて舌が勝手に指に絡まる。こんな些細な刺激で、身体は浅ましく期待し始めるのだ。
「……楓、こっち向いてよ」
 耳元で喋るな。ずるい、ずるい、ずるい。
 糸を引く指が口から抜かれる。肩を持って促されると、たいした力を掛けられたわけでもないのに、ひとりでに彼の方に向き直っていた。潤んだ瞳で睨んでも、何の迫力もない。悔しい。そんなことわかっている。
 彼は楓の濡れた頬を手のひらで優しく拭い、唇に触れるだけの軽いキスをした。
「約束のキス」
「……バカ」
 抱き寄せられ、彼の肩口に額をこすりつける。匂いを胸いっぱいに吸い込んで、やっぱり好きだと思った。結局彼には勝てないのだ。惚れた方が負けだって、全くその通り。
「俺だけのものになって」
「……浮気しない?」
「しない。楓だけだよ」
「会えるの週末だけじゃやだ」
「いいよ。いつでもおいで」
「毎日でも?」
「いいよ」
 毎日会っていいなんて夢みたいだ。
 子供をあやすように楓の背を撫でる手が、強張った心を解いていく。
「……亨、好き」
「うん。俺も好き」
 楓から交わしたキスは、とびきり甘かった。

 裸でベッドに寝転がるなんて悪いことをしているみたいだ、と思う。小さい頃はパンツ一枚で走り回っていると、姉から早くパジャマを着なさいと怒られた。
 ここには怒る人間はいない。隣に寝そべる男も裸で、先ほどまでの行為の余韻を引きずったまま、軽いキスを何度も繰り返した。
 どれだけはしたないことをしたって、ここでは二人だけの自由で、二人だけの秘密。
 伊崎の首筋に鼻先をくっつけ、大好きな匂いを好きなだけ嗅ぎながら、楓は囁くように言う。
「なあ、今度さ」
「もう、お前鼻息くすぐったい。くんくんしすぎ」
「だめなの?」
 少し顔を遠ざけ、むくれて見せる。彼は楓の鼻をつまんですぐに離す。
「いいよ。いいけど」
「亨の匂い、好きなんだもん。ずっとこうしたかった」
 この匂いでうっとりするのはいけないと、近づきすぎるのを我慢していた。結局、不意に距離が縮まったときなどにうっとりしてしまっていたのだが。
 また彼の首筋に顔をうずめる。今日はこのまま眠れたら幸せ。彼はすっかり諦めて、首元が暖かいからと伸ばしすぎた楓の髪を、指に巻き付けて遊んでいた。
「初めとえらい違いだな。二回目会ったとき、大嫌いって言ってたの、覚えてる?」
「気にしてたんだ」
「そりゃ気になるだろ。俺、愛想も要領もいいから、普段人から嫌われることないもん」
「あれはミコちゃんがいじめられてたって話聞いた後だったからだよ。実際喋ってみたら、結構いいやつじゃん?ってなった」
 大嫌いがいいやつに変わって、いいやつが好きになったのはいつからだっただろう。自分で認められなかっただけで、わりとすぐだったのかもしれない。
 恋に落ちると言うけれど、どこかの親切だか不親切だかわからない誰かさんが用意した落とし穴にはまり、気がついたら穴の底にいて、容易には抜け出せなくなっていた、という感じだ。自分ではどうしようもないことだった。
 頭のてっぺんに彼の鼻先がかすめる。彼も彼で匂いを嗅いでいるのかなと思った。前にいい匂いと言っていたし。
「泉田のことだけど……。俺んちいろいろ問題あって、高校の頃さ、ちょっとやさぐれてたの。周りに荒々しいやつが結構いたから、感覚が狂ってて、あれくらいどうってことないって思ってた。本気じゃなかった。からかっただけのつもりだったんだ」
「首噛まれるって結構な恐怖だぞ。番にされたら一生離れられないんだから。まあ、発情期コントロールしてたら噛まれても平気だけど、本能的な怖さがある」
 実琴の話を聞いたときは、楓だって恐怖を感じた。同類だからこそわかること。
「……だよな。後悔してるよ、ずっと。それに、一昨日楓を見て思ったんだ。楓を襲ったやつらと俺も同じだって」
「同じじゃないよ。ミコちゃんが学校に来なくなってから、亨、変わろうとしてきたんだろ」
「そうだけど……」
 今の彼なら絶対にしない。オメガだという理由だけで下に見ることも、相手の意思をねじ曲げて手に入れようとすることも。そうでなければこんなに好きにならなかったはず。
「いつか謝れるといいな」
 元気出せよと言うかわりに、またキスを落とす。
 彼は頷いて、もぞもぞと寝返りを打つ。狭いベッドの上で、彼の足が楓を蹴る。
「痛い」
「ああ、ごめんごめん。そういえば、お前、さっき何か言いかけてなかった? 今度が何とか」
「そうだな、忘れてた。今度一緒に服買いに行ってくれないかって言おうとしたんだ。買ってって意味じゃないぞ。選んでくれればいいから」
「それはまったく構わないけど、なんで? お前服とか好きそうじゃん。自分で選びたいんじゃないの」
「だって」
 まだもう一つ、気になることが残っている。仕返しに軽く蹴り返して、言った。
「チャラいって言ったじゃん、お前。俺は全然そんなつもりないんだけど」
「気を悪くしたなら謝るよ。ごめん。あれに深い意味はないよ。今風でかっこいいくらいの意味だから。服変えることはないんじゃないの」
「お洒落しても褒めてくんないし。お気に召さないのかと」
「先週のあれとかのこと? よかったよ。すごくかっこよかったけど、周りの女の子の目が気になっちゃって。いつ逆ナンしに来るかと気が気じゃなかった」
「暇そうにボーッと突っ立ってるときならともかく、誰かといるときにそうそう声なんてかけてこねえよ」
「ならいいんだけど」
 腕が伸びてきて、ぎゅっと楓を抱きしめる。
「知らない人に声かけられてもついて行っちゃ駄目だからね」
「わかってるよ。いくつだと思ってるんだ」
 ぶっきらぼうに返してみたものの、焼きもちめいたことを言うのが愉快で、伏せた顔はニヤニヤしてしまっていた。
「……もう寝よ、亨」
「うん」
 彼の隣で目を覚ます明日は、きっといい日になる。こんな日がこれから何日もあるのだと思うと、幸福感で満たされた。
 心地よい倦怠感に身を任せて、楓は目を閉じた。

 人権派弁護士と対面して打ち合わせしたのは、その翌々日のこと。いかにも肝っ玉母ちゃんという雰囲気の中年女性は、楓の手を握って力強く語った。
「こういうのはね。泣き寝入りしちゃ絶対駄目なの。私に任せなさい。大学の方には、すみやかに対処しないと法的措置に出ると言います。学校としては性別差別を野放しにしているって評判が立つのは絶対に避けたいでしょうからね。すぐに対処してくれるはず。加害者学生二人についてだけど、彼らのうち一人の馬鹿親、失礼、親御さんが大学側に多額の寄付をしているらしくて、大学側も強く出られなかったのだと推測できます。この親御さんが地方で市会議員をしているらしいので、まあさっきと同じね、息子が差別主義者だとバレるのはまずいだろうということで、息子を過剰に甘やかすのはやめていただくということね」
 彼女は週明けには大学、加害者の両親、双方に話をつけにいった。
 費用について、伊崎は頑なに話そうとしなかったが、恐らく彼が立て替えてくれたのだろうと思う。ネットで調べたところによると、相談だけでも三十分最低五千円はかかるらしいから、すぐに返せない額になるのはわかっているが、気になるものは気になる。しつこく聞くと、彼は躱し方を変えてきた。
「じゃあ、サンタさんからのクリスマスプレゼントってことで。時期も時期だし」
「どうしても教える気ないんだな」
「サンタさんからのプレゼントは素直にもらっとくもんだよ」
 出させたままなのは悪いから、出世払いということにしておいてもらおう。
 楓からのプレゼントは何にしようか迷い、本人にほしいものを聞いてみると、「みぞれ鍋が食べたい」というので作ってやった。美味しいと喜んでいたから、また作ってやってもいい。
 そうして今年が終わっていく。来年は二人の時間がたくさん増えますように。来年も、再来年もその次も、ずっとこの人が隣にいてくれますように。初詣でお願いしに行こうと決めた。

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