(1)君と出会ってからの僕

「大丈夫じゃなかったら出てないよ」
『そりゃそうだな。体調どう? 熱は?』
「下がった。病院でも異状なしって」
『そうか。よかった。学校は?』
「仰せの通り休んだ。病院から寄り道せずに家に帰ってきてごろごろしてた。俺、いい子ちゃんだろ」
『そうだな。よしよし、いい子いい子』
「ふふふ。亨は? 俺のうつったりしてない?」
『今のところは。俺、丈夫だから多分問題ない』
「よかった。昨日ごめん。突然押しかけて」
『いいんだよ。頼ってくれてうれしかった』
 うれしい? 楓に頼られることが? 迷惑だったらわざわざこんなことを言う必要はないから、おそらく本心であろうと思い、安堵する。
 彼は『それで、』と本題に入る。
『今日はさっそく法務部の同期と話したんだけど、いい弁護士知ってるって。まずは俺が会ってくるわ』
「俺はいいの?」
『俺が信用できるって判断した後でいいよ。お前、この件解決するまで学校休めよ。怖いだろ』
「でも、講義あるし……」
『もうすぐ冬休みに入るんじゃないのか?』
「そうだけど、提出しなきゃいけない課題もあって」
『そんなの、襲われた恐怖で外に出ることもままならなかったとでも言えばどうにかなるよ。ってか、休んで。俺、心配すぎてどうにかなりそう。なるべく早く解決できるように頼むから』
「……うん。亨がそこまで言うんなら」
『ありがと』
 お礼を言わなければならないのは楓の方なのに。なぜここまで良くしてくれるんだろう。
 いい人を好きになったと思う。楓にだけじゃなくて、彼は皆にこうなのかもしれないけれど、それでもそんな彼が好きなのだった。
「好き」
 胸の内が、知らず漏れていた。
『……え?』
「あ、いや、その……、好きだなあって。その、大根おろし?」
『何だよそれ』
「今日はみぞれ鍋なんだよ。さっきまで大根すってたの。……でも、違う。いや、大根おろしも好きだけど、さっき言ったのは亨のこと」
『大根おろしと俺ってお前の中で同列なの』
「ううん。亨が食べるなって言うなら、一生大根おろし食べない」
『なんでそうなる。食べていいよ。食べろよ。身体にいいんだから。そういうことじゃなくて』
 伊崎は困っているらしい。いきなり好きなんて言われたら無理もないか。言うにしても、まず彼に恋人の存在を確認してからにするつもりだったのに、つい口が滑ってしまったのだ。
 困っているくらいだから、もしかしたらこれから会うのをためらってしまうかもしれない。どうせそうなるのなら、先週末に押し切って抱いてもらっておけばよかった。あのとき発散できなかった熱は、まだ身体の奥の隠れた場所に留まってくすぶっていて、燃え上がらせてくれる誰かを待っている。
「いいよ。ごめん。忘れて。変なこと言うつもりなかったんだ」
『忘れられるわけないだろ。お前さ、前に女の子と付き合いたいって言ったじゃんか。あそこで俺は一回ふられたものだと思ってて』
「ふられたって何で? あのとき別に付き合う付き合わないの話してなかったよな?」
『下心がバレて警告の意味だったのかと。あのとき下心あるように見えないって言ってたのもわざとらしかったし』
「わざとらしいとかじゃないぞ。本当にないと思ってる」
『ないわけないだろ。あのときのセックスがよすぎて、もう一度抱きたいってずっと思ってた。でも、まあ、大人だし? 徐々に距離を詰めていこうかなって頑張ってたらふられて、でも次三週間後に会ったら思い切りデレてて、何なのお前っていうね』
「……うそ。嘘だ。嘘」
 まったくそんな素振りを見せなかったではないか。きっとからかわれているのだ。楓は真剣なのに。
「やっぱ亨はバカ」
『バカじゃねえよ。嘘ついてどうすんだよ。下心あるってわかったら、お前嫌がるだろ。好かれたいと思うなら、隠すのなんて当然じゃん』
「じゃあ何であのとき——」
『いつの話?』
「先週だよ! なんで拒否したんだよ」
『拒否? ああ』
 電話の向こうで彼が吹き出すのが聞こえた。
『何なの。そんなにヤリたかった?』
「はあ!? 違う。ちがうちがう、俺は……。お前だって」
『俺はしたかったよ、すごく。電話がかかってこなかったら、あのままヤッちゃってたと思う。でも、お前は身体だけの関係を望んでる訳じゃないだろ。俺だってそうだし。だから、流されてすんのはよくないなって、思った訳なんですが』
「……ちゃんと付き合ってからってこと? 他に相手がいるわけじゃないの?」
『いないよ。ちゃんと楓だけ。なあ、その辺の話は会ってしない? 明日ちょっとでも会えないかな。うちで』
「俺はどうせ休むから大丈夫だけど……」
 あまりの展開に頭がついていかない。
 付き合うのか? そもそも付き合うって何だ。週末だけじゃなくて明日みたいな平日にでも会っていいってことか。たくさん会えるようになるなら、それはとても素敵だ。
『明日はなるべく残業しないように頑張るから、七時半には帰ってきたいなって』
「わかった。その頃行くようにする」
『遅くなるようなら連絡するから。昨日みたいに外で待ってるんじゃないぞ』
「もう懲りたよ」
『そうか。じゃあまた明日』
 通話が切れて真っ黒になった画面をしばしぼんやりと見つめる。そこに映った自分と目が合い、はっとして立ち上がる。大根おろしの続きは後だ。自室に駆け込み、クローゼットを開ける。明日何を着ていこうか、小一時間悩んだ。

 翌日午後七時半過ぎ。伊崎宅を訪れた。
 悩みに悩んだ末、結局普段大学に着ていっているのと同じように服装になってしまった。マンションから外に出かけるわけでもないのに、お洒落しすぎていると、気合が入りすぎているみたいで嫌だ。ただ、自宅を出る直前に下着は新しいものにかえて、替えもリュックに突っ込んできた。だって今日はそういうことだろう、多分。
 夕飯はすでに用意されていた。帰りに弁当屋で惣菜を買ってきたのだと言う。米は出勤前にタイマーをセットしてあったようで、すでに炊き上がっている。
 夕飯を食べながら、いつもの肩肘張らない会話が交わされる。
「亨は料理しないの?」
「あんまり。するのはいいんだけど、後片付けとか面倒臭いし、ゴミ出るし。お前もしなさそうだな」
「できるし。失礼な。母子家庭で母親が働き通しだったから、子供らで家事回さなきゃやってらんなかったの。姉ちゃんに色々叩き込まれたわ」
 そのおかげで、「ずぼらなおかん」レベルの料理はできるし、洗濯も掃除も一人暮らしに支障がない程度にはできる。今は姉も働いているため、母は昔ほど忙しくはしておらず、ほとんど毎日家で夕飯を作ってくれているが。
 サラダのドレッシングに手を伸ばしながら、伊崎は感心したように頷く。
「見かけによらず苦労してんだな」
「おうよ」
「大学はどうしてんの? 奨学金?」
「そう。返済不要のやつ通った」
「さらに意外だわ。結構優等生なんだな」
「成績は中の上って感じ? オメガの特別枠ってあるんだよ。性別利用するの嫌なんだけど、母ちゃんにも姉ちゃんにも迷惑かけたくないし」
 奨学金がなければ大学には行かないつもりだった。大学なんて金に余裕のある者が行く贅沢だ。
「えらいなあ。特別枠っていってもあんまり出来が悪くちゃ駄目なんだろ? 成績落とすわけにはいかないから大変だな。あ、そういえば、学校いつまで?」
「来週末だよ」
 ちょうどクリスマス週間で、リア充たちの浮かれっぷりが最高潮に達しようというときだ。楓はリア充ではないから、毎年石か卵を投げつけてやりたい気分でそれを見ている。外に出ればそんな連中ばかりで、せっかくの休みなのに、バイト以外はほとんど家にこもって過ごしていた。今年はどうだろう。何か変わったりするだろうか。
 楓は淡い期待による想像を膨らませかけていたが、伊崎は全く別のことを考えているようだった。
「それまでに対応してもらえるかな。今日会った弁護士の人、えらく親身になってくれて、さっそく動いてくれるって言ってくれてるんだけど」
「もう会ったんだ、すごい」
「そうだろ。その弁護士さんもオメガ性で、オメガの人権活動を熱心にやってるんだって。で、楓のこと聞いて憤慨して、一緒に戦いましょう!って、ものすごく熱血だった。年末はめちゃくちゃ忙しいらしいんだけど、他の案件押し退けて取りかかってくれるらしい」
「……大丈夫なの? 逆に」
 極端なタイプは怖い。こちらの用件が済んだ後も、人権活動集会に引っ張り出されたり、知らぬ間にどこかの人権団体の会員にされていたり、そういったことはないんだろうか。
「紹介してくれた同期によると、ややこしい人ではないらしい」
「まあ、信用するしかないよなあ。ごめんな。俺のせいで迷惑かけて」
 他に誰か、といっても楓には当てがない。伊崎に任せておけば、きっと心配ないはずだ。
 彼は首を振って、相変わらず綺麗な箸使いで焼き魚の身をつまんだ。
「この件、俺が原因でもあるじゃん。俺が彼氏の振りなんてしなきゃ、あいつらもお前を襲おうとしなかっただろ」
「そうかな。いつかこうなってた気もする。でも、俺はちょっとうれしかったよ。彼氏って、なんか」
「そうか? やめろよ、照れるだろ」
 そうは言うが、ちっとも恥ずかしそうに見えなかった。

 食後はテレビを見ながらまったりしていた。ここは伊崎の匂いでいっぱいだし、隣にはいい匂いの出元がいるし、ふわふわしていい気分だった。収まるべき居場所にぴったり収まったような安心感。周りによくわからない変な絵がいっぱいあろうと関係ない。
 すっかりくつろいでリモコンを離さない楓に、伊崎は呆れたように言った。
「お前、チャンネル変えすぎ。落ち着いて一つを見れないの」
「6チャンと8チャン、どっちも見たいんだよ。でも、6チャンの今のコーナーがつまんないから、8チャンに変えたんだけど、8チャンがCM中で、他になんかおもしろいのないかなって別のチャンネルをめぐったの。だけど、どれもいまいちで、6チャンに戻ったんだけど、まだつまんないコーナーが終わってなくて……って感じのことやってた」
「詳しい説明どうも。で、どうするの?」
「やっぱ8チャンかなあ。亨は何がいい?」
 CMが開けて、ドッキリのオチが流れる。さすがはプロのリアクションで、オチだけ見ても笑えた。
「あはは」
「まあ楽しいならいいけどさあ。なんか忘れてない?」
「何が? あ、4チャンのクイズの答え何だったんだろ。……うわ、終わってる」
「あれアシカだよ、アシカ。海に驢馬の驢でアシカ」
「すげえな。どこで覚えたんだよ」
「グーグル先生に聞けばいいだろ」
「カンニングかよ。おー、6チャンで別のが始まったー」
 カーペットの上であぐらをかいて手を後ろにつき、テレビ画面に集中する。小さな頃から友達が少なく、母親はあまり家にいなかったので、一人でテレビを見るかゲームをすることの多い子供だった。それがそのまま大きくなった感じだ。
 集中しすぎて、すぐ側に伊崎が寄ってきていたのにも気づかなかった。
「楓」
 耳の真横で声がして、両手で耳を押さえて飛び上がる。
「なんだよ!」
「さっきからものすごく気になってることがあるんだけど、聞いていい?」
「……なに?」
 彼は笑っていなかった。怒っているわけではなさそうだが、もしかしたらザッピングに苛々し始めているのかもしれない。リモコンを差し出す。
「どうぞ」
「いらねえよ。そうじゃなくて。お前がさっきリュックをごそごそやっているとき、ちらっと見えちゃったんだけどさ」
「ん? ……うん」
 なんだか嫌な予感がする。
「入ってたよね。新品のパンツ」
「うわ、のぞくな! 変態!」
「見えちゃっただけだよ。俺が背後にいるときにリュック開けるのが悪い。どういうつもりであれ入れたの?」
 至近距離で真正面から目を合わせられ、頬が一気に朱に染まる。それを隠すように下を向くが、当然ばれている。
「なにそれ可愛い。もう一回やって」
「無理!」

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