(1)君と出会ってからの僕

「僕は男だけどいいの?」
「ミコちゃんだったらいい。まあ、嫁の貰い手が決まってることは知ってますけど」
 実琴には結婚前提で同棲している恋人がいる。アルファの男だが、楓は彼のことは嫌いではなかった。楓だってアルファが誰も彼も嫌いなわけではない。真宮慶人(まみやよしと)という、物腰柔らかで爽やかで仕事もできる(らしい)、アルファであってもなくても女性人気が高そうな男だ。
「慶人、今日遅いの?」
「ううん。軽めの会だから、そんなに遅くならないって」
「慶人帰ってくるまでミコちゃんちでごろごろしてもいい?」
 実琴宅は職場から近く、歩いて十分、走って五分のところにある。バイト帰りによく寄らせてもらっていて、ときには実琴の手料理をご馳走になることもあった。
「いいけど、お姉さんに連絡しときなね」
「えー。やだ」
 楓には年の離れた姉がいるが、これが母親より口うるさい。弟はもう大学生になるのに、彼女の時間は十年前で止まっているかのようだ。
「でも、心配するよ? 可愛い弟なんだから。ね?」
 メールをするのは面倒だ。でも、家に帰って説明するのはもっと面倒かもしれない。しぶしぶスマホを取り出す。
「ミコちゃんがそう言うなら」

 実琴が住むマンションに着く。駅から徒歩三分のファミリータイプの分譲マンションで、部屋の所有は慶人の両親らしい。
 オートロックを解除してエントランスに入り、エレベーターを待つ。そこに、もう一人エレベーター待ちが加わる。ノーネクタイだからサラリーマンかどうかはわからないが、仕事帰りらしい若い男だった。子供やママに好かれそうな、いかにも人当たりが良さそうな雰囲気だ。
 楓の視線に気づいたのか、男はこちらを見る。そして次に、何気なくその隣の実琴に視線を移す。
「……あれ、泉田?」
 呼ばれ、実琴は振り返る。その瞬間、実琴の表情は驚きのまま固まった。
 男は遠慮がちに口許に笑みを作る。
「久しぶり。俺のこと、覚えてる?」
「……」
伊崎(いざき)だけど、覚えてないか。無理もないね。最後に会ったのって十年くらい前だし。ここに住んでるの?」
「……」
 実琴は男を見つめたまま動かない。いや、少し手が震えている。怯えているのか。
「ちょっと、ミコちゃん、どうしたの?」
 小声で問いかけるも、楓の声は届いていない様子だった。実琴が助けを必要としているのはわかった。だが、何をどうすればいいのか楓には見当がつかない。
「ねえ、ミコちゃん」
「……」
 張りつめていた実琴の表情がふっと和らぐ。探していたものを見つけたというように。エントランスのガラス扉の外に、彼の恋人の姿があった。
 慶人がこちらに歩いてくる。すがるような視線に気づいたのか、こちらに笑いかけてくる。それに反応したのは実琴だけではなかった。
「あ、真宮さんだ」
「伊崎くん? どうしたの?」
「先月ここに越してきたんです。友達が安く貸してくれるって言うんで。真宮さんもこちらに?」
「そうだよ。すごい偶然だね」
 慶人は喋りながら実琴の側に立つ。実琴はそっと彼の腕を掴んだ。
 伊崎と呼ばれた男を示し、慶人は言った。
「彼はうちの後輩なんだ。伊崎くん、こっちが……」
「知ってますよ。泉田実琴でしょ。高校のとき一緒でしたから。そっちはあんまり……、覚えてないみたいだけど」
 困ったような悲しいような、よくわからない顔だった。
 敵なのか? 彼は、実琴の。お人好しそうな雰囲気で、悪人には見えないのだが。しかし、実琴を怯えさせる何かを持っているのだ。
 慶人は実琴を気遣いつつ、話を継ぐ。
「そうか。知り合いだったんだね」
「はい。そっちもお知り合いなんですね。もしかして、噂に聞く同棲相手?」
「うん、そうだよ。……ごめんね。ちょっとうちの子、気分が優れないみたいだから」
 やっとエレベーターがやって来て、ドアが開く。伊崎は後ろに下がる。
「皆さんお先にどうぞ。俺は用を思い出したので」
 軽く頭を下げる。彼を置いてエレベーターの扉が閉まり、目的階へと動き出した。

 自宅のリビングで温かいコーヒーを飲み、実琴は落ち着きを取り戻したようだった。
 ソファの上では慶人が実琴に寄り添い、楓はカーペットの上で足を抱えて座っていた。
「ごめんね。もう大丈夫。彼とは昔いろいろあって。いや、いろいろってほどでもなかったか……」
 実琴は言葉を選びながら、下を向いたままもごもごと話す。慶人も楓も、それを急かしたりはしない。
「彼は地元の高校で同級生だったんだ。そのとき、なんというか、いじめられたことがあってね」
 そういえば、さきほど居酒屋でも少し言っていたか。「高校の時ちょっとね」と。
「中学までは平和だったんだけど、高校の時オメガだっていう噂が学校中に広がってね。いろいろからかわれたりして。彼からも何度かあったかな。それだけだったら、別にいつまでも引きずることでもないんだけど……。二年生の時、何かの当番で放課後一人教室に残ってたら、彼がやって来て、ここ、噛まれかけて……」
 実琴はワイシャツの襟の上から首筋を押さえる。それを聞いて慶人は顔をしかめていたし、楓は背筋に寒気が走るのを感じて自分の腕を握った。本能的な恐怖だ。
「発情期でもないし、噛まれたってただ軽い怪我をするだけなんだけどね。彼だってふざけただけで、本気で噛む気なんかなかったんだと思う。でも、彼はアルファだったし、僕、怖くて、それから学校に行けなくなった」
「許せない! 何てやつだよ」
 我が事のように腹が立った。人の良さそうな顔をして、とんでもないやつだったのだ。
 アルファがオメガの首筋を噛むということには特別な意味がある。発情期中にオメガの首筋、フェロモンが分泌される臭腺のあたりを噛むことで、番というものが成立する。
 発情期というのはニ、三ヶ月に一度、オメガにのみ訪れるものだ。産む性と言われるだけあり、オメガには特に妊娠しやすい期間がある。それが発情期で、この期間はアルファを性行為に誘うフェロモンを大量に撒き散らす、らしい。「らしい」というのは、現代社会において発情期は薬——発情抑制剤でコントロールすることが可能で、楓自身発情期になったことはないし、発情期の人間を見たこともないため、教科書的な知識しかないのだ。
 この厄介な発情期中に、オメガに誘われて発情したアルファがオメガの首筋を噛むと成立するのが「番」。簡単に言うとアルファとオメガの間にだけ成立する原始的な結婚のようなもの。
 メリットと言えば、発情期中のオメガが番以外のアルファを誘うことがなくなること、アルファが番以外のオメガに誘惑されなくなることぐらいだが、発情期は抑制剤でコントロールできるので、たいした意味がないと楓は常々思っている。
 むしろデメリットのほうが大きく、一度成立した番関係はどちらかが死ぬまで解消できない、というのが恐ろしい。番がいる場合は番以外との性行為は身体が受け付けなくなるし、番から引き離されると非常に大きなストレスに苛まれることになる。
 愛し合ってはいたが別れたくなった場合、無理矢理番にされた場合はどうするんだという話である。
 高校生という不安定な時期に、たとえいたずらとわかっていても、そういった状況に陥る可能性のある行為を受けそうになるということは、どんな恐怖を感じるものだったか、想像に難くない。
 慶人はそっと実琴の肩を抱く。
「かわいそうに。つらかったね」
「今はもう大丈夫。慶人もいるし、自分の事みたいに心配してくれる楓もいるし」
 慶人に安心して自分の身体を預ける実琴を見ていると、なんというか、素敵なカップルだと思う。必要とするときにいつでも自分を支えてくれる人がいるとは、どんなに心強いだろう。
「ミコの番が俺でよかった」
「うん」
 見つめ合う恋人たちは完全に二人の世界を作っていたが、発言の内容に口を挟まずにはいられなかった。
「……え、二人って番だったの?」
「そうだよ。あれ、言ってなかったっけ?」
「言ってない! 聞いてない!」
 実琴はネクタイを緩めてボタンを二つ外し、ワイシャツの襟を下げて首をさらす。そこにははっきりと歯形が残っていた。番になる際にできた噛み跡は番関係が解消されるまでずっと消えない。契約印だ。初めて見た。契約印って都市伝説じゃなかったんだ。
「……知らなかった。いつから?」
「もう一年くらいになる。楓と僕が友達になる前だね」
「なんで? 番ってめんどくさいだけじゃん」
「んー。僕は発情抑制剤で副作用が出やすい体質だからさ。番がいると薬が少なくてすむし」
「それだけのために? デメリット大きすぎない?」
「どうせ別れないんだから関係ないよ。俺はずーっとミコだけだから」
 慶人は自信満々だったが、三組に一組が離婚する世の中で、結婚よりよほどリスキーな番関係を結ぶというのは理解に苦しむ。だが、実琴も慶人と同じようだった。
「この先ずっとあなただけっていう約束みたいなもんだよ。あ、でも、楓はまだ学生だから、いくら好きでも簡単に噛ませたりしちゃ駄目だからね」
「俺はアルファとは付き合わないよ」
「ああ、そうだったね」
 どうしたらそんなふうに他人に自分を委ねることが出来るのだろう。そんな相手なら付き合ってみてもいいかもしれない。——でも、やっぱりアルファは嫌かな。

 それから何日か経った日。
 この日は講義を詰め込んだ曜日なので、バイトは無しだ。履修登録も終わり、晴れやかな気分で秋物の服の買い物をして、実琴宅へ向かう。
 今日は夕飯をご馳走になる約束だった。料理の腕は「ずぼらなおかん」レベルの楓とは違って、実琴はいつも丁寧で手が込んだものを振る舞ってくれる。あんなものを毎日食べさせてもらっていては、慶人も外で悪さはできまい。
 しかし、駅を出てマンションが見えると、高揚した気分を冷めさせるような光景が視界に入ってきた。横断歩道を渡ってこちらに歩いてくるのは、高校時代の実琴の仇、伊崎だった。
 目があったが、関わるときっとろくなことにならないので、さっとそらして先を行く。しかし、無視されたことがわからないわけではないだろうに、伊崎は小走りで追いついてくると、楓の横に並んだ。
「君、前に真宮さんたちと一緒にいた子だよね? 今から行くの?」
 柔らかく刺の無い話し方だ。相手の緊張を解く狙いがあるのだろうか。もちろん答えてやらない。世間話でもするように伊崎は続ける。
「ねえ、あの人たちとはどういう知り合い? 友達? 君、見たところ高校生っぽいけど」
「とっくに卒業してるわ。大学生」
 とっさに否定してしまった。年齢より下に見られることは好きじゃない。もしかしてわざとか? でも、この男が楓の性格を把握しているわけでもないし。
 歩みを早めるが、絶妙なスピードで伊崎もついてくる。
「へえ、大学どこ?」
「あんたさ。無視られた理由わかんないの? 胸に手を当ててよく考えてみろよ。わかってもわからなくても話しかけてくんな。俺、あんたみたいなやつが心の底から大嫌いなんだよ」
 オメガをオメガであるという理由で軽んじて馬鹿にするアルファは、世界で一番大嫌い。実琴の手料理に浮かれせっかくいい気分だったのに、唾でも吐きかけてやりたい。
「そのことだけど……、ちょっと待ってってば」
 手首を掴まれる。そう強い力ではなかったが、ゾッと逆毛が立つような感覚が足元から駆け上がってきた。
 ——なんだ……?
 初めてだった。人に触れられただけこんなふうになるのは。
 恐怖を感じてその手を乱暴に振り払う。
「離せよ!」
 さらに足を早めるが、行き先が同じなので、当然伊崎は後ろをついてきている。視線を感じる。見られている。怖い。——怖い、と何か別の感覚。
 触れられたときのざわついた感じが抜けずに残っている。その小さな火種が、普段自分では意識しない身体の真ん中に熱を生む。熱はみるみるうちに温度を高め、全身に散る。
 熱い、熱くて重い。身体がおかしい。これは熱中症とかそういった類いのものじゃないだろう。もう日は落ちていて、気温も高くないのだから、考えられない。考えられるのは、一つ。
 ——嘘だろ……?
 身体の内部で急激な変化が起こっているのがわかる。息が苦しい。足がもつれる。目がかすむ。今すぐここから逃げないといけないのに。逃げる……、マンションの入り口はすぐそこだ。実琴のところに駆け込めば、きっと助けてくれる。電話して来てもらったほうが早いか? しかし、電話している間にこの状態を伊崎に気づかれたら? 彼はアルファなのだと実琴は言っていた。今、この状態で、最も側にいてはいけない相手だ。
 ——発情期なんて……。
 発情したオメガはアルファを発情させる。そこに両者の意思は関係ない。発情したアルファは理性を失い、目の前のオメガを犯すことしか考えられなくなる。
 ——予定はまだ一週間以上先のはずなのに、なんで?

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