(1)君と出会ってからの僕

 そういえば、一ヶ月に一回の注射を忘れていた。発情抑制剤は一ヶ月に一回の注射と、発情期予定期間中の錠剤の服用でセットだ。しかし、注射を打ってもらうにはわざわざ病院にいく必要があるため、楓は後回しにしてしまっていた。それが原因か。しかし、注射はあくまで補助的なものだし、忘れるのは今回が初めてではない。予定がこんなに狂ったことなんてなかった。
「うわっ」
 わずかな段差に引っ掛かって転ぶ。何とか手はついたが、足に力が入らない。起き上がれ。立て。そうしないと、待っているのは——。
「ちょっと、大丈夫?」
 楓の内心の混乱も知らず、伊崎は能天気に声をかけてくる。そこにからかいは感じられなかったから、おそらく単純に心配しているだけなのだと思う。しかし、そんなお節介、今はありがた迷惑だ。
「来るな!」
「でも」
「ほっとけよ! あっち行けよ!」
「……お前」
 怒鳴る楓の乱れた息や紅潮した頬、うっすらと涙のうかぶ眼。それらから彼は楓の置かれた状況を察したのだろうか。
「すごい匂い……。発情期?」
「うるさい。あっち行け。近づくな! 消えろっ」
 どうしようどうしようどうしよう。ほんの少しでも楓を助けたいという気持ちがあるなら、どうか楓を置いてここから立ち去ってほしい。彼がいなくなってから実琴に電話して——。
 だが、楓の願いは聞き入れられず、伊崎は楓を肩に担ぎ上げる。
「我慢して。これが一番接触しないだろ」
「下ろせ。下ろせよ! 嫌だっ」
 抗議のため手足を動かそうとするも、うまくいかない。情けなさすぎる。自分の身体なのに。
 彼はそのまま器用にオートロックを解除すると、マンションの中に入っていく。
 おんぶや抱っこよりはましだろうが、それでも近い。揺れた拍子に伊崎の匂いを深く吸い込んでしまい、頭がくらくらしてくる。いい匂いだった。匂いだけで気持ちよくなれそうなくらいに。甘いハーブの香りに蜂蜜を混ぜたような。
 それは楓の四肢から残りの力を奪い、うっとりと陶酔させ、抵抗せんとする意思をへなへなにした。昔、近所の猫がまたたびをもらっているのを見たことがあるが、なぜだかそれを思い出した。
 連れていかれたのは、おそらくマンション内の彼の部屋だろう。玄関から入って一直線に廊下突き当たりのドアの前へ。ここは寝室に違いない。実琴宅と間取りは一緒だろうからわかる。やられんのかな、やられるんだろうな、とぼんやりした頭で考えた。
 伊崎は大股で寝室を横切ると、壁際のベッドに楓を放り投げる。スプリングが効いているので痛くはなかったが、少々荒っぽい。すぐに乗りかかってくるかと思いきや、彼はエアコンのスイッチを入れると、さっと寝室から出てドアを閉める。
「え……?」
 アルファはオメガの発情にあてられるんじゃなかったのか? 保健体育の教科書にも載っているけれど、あれは嘘? そもそも伊崎はアルファではなかった?
 次々に浮かぶ疑問には、彼は答えてはくれない。
「真宮さんと泉田の部屋、何号室?」
「なんで」
「薬もらってきてやるよ。泉田、きっと持ってるだろ。直接そっちに行ってもよかったけど、真宮さんもアルファだって話だし……」
 いったん発情期に入ると、通常の抑制剤は効かない。緊急抑制剤が必要になる。これはオメガ性であれば、だいたい皆自宅に常備しているものだ。一家三人全員がオメガである楓の家にもある。
 しかし、今は薬のことなどどうでもよかった。伊崎の寝室には、さきほど嗅いだあのいい匂いが充満していた。それを吸い込めば吸い込むほど、熱くなる身体。下腹部がうずいてたまらなくなる。
 身体の真ん中、子宮のあるところをそっと押さえてみる。隠された楓の中の『女』が言っている。欲しいと。欲しい、欲しい……、何が? 発情期なのだ。子種に決まっている。子宮の入り口は尻穴の中らしいが、自分で触ってみたことはない。
 コンコンとドアが叩かれる。
「おい。もう喋るのも無理か? 俺、真宮さんの電話番号知らないんだよ。もうちっと頑張って部屋番号だけ言って。それとも気を失ってる? おーい」
「……ちゃんと起きてる。こっち来て」
「はあ? 俺アルファなんだよ。あれ以上もう無理。早く部屋番号」
 なんだ、やはり我慢していたのか。
 重い身体をなだめてベッドから降り、這うようにして移動し、ドアにすがりつく。
「こっち来てって言ってるのに……」
 ドアを開け放つ。こちらを見下ろす伊崎の目が見開かれる。オメガフェロモンだっけ。アルファを狂わせる毒。
「俺のこと好きにしていいよ」
 猫のように彼の足元にすり寄る。
「なあ、お願い」
 ——オメガはアルファを誘う、アルファはオメガを求める。それそのままの図式。
 それ以上誘惑を重ねるまでもなかった。楓は再び抱えあげられ、ベッドに戻される。のしかかってこられても、もう怖いなんて思わなかった。柔和に見えた笑みが消えると、案外男っぽい顔立ちなんだな、とそんなことを考える余裕さえあった。
 その日、ほとんど一晩中、伊崎は楓の中にいた。

 翌朝目を覚ますと、ベッドの側には実琴がいた。背中を支えられ、半身を起こす。実琴と、実琴のものではない匂いと、馴染みのない部屋。
「気分はどう?」
 いつもの優しい口調で実琴は問う。気分は悪くない。身体はひどくだるいが、頭はすっきりしている。あれ、どうして身体がだるいのだったか。
 黙ったままの楓の背を、実琴はそっと撫でる。
「薬、打ったからね。もう大丈夫だから」
「薬……?」
 なんの薬だろう。そういえば、昨日言われたっけ。薬もらってきてやるって。あの伊崎って男に。なぜ? そうだ、楓が突然発情期になったから。
「……あ」
 昨夜の記憶が一気によみがえってくる。楓は何をした? 楓は——。瞬間的に顔が熱くなる。猛烈な羞恥と後悔の波が押し寄せ、飲み込まれそうになった。
「つらかったよね。かわいそうに……」
 ぎゅっと抱きしめられる。実琴の肩に顔をうずめ、何度か深呼吸する。
 恐ろしい。発情期って恐ろしい。恐ろしすぎる。素面の自分では考えられないありとあらゆることをした。俺のこと好きにしていいとか、中にいっぱいほしいとか、気持ちいいとか、そこがいいここがいいとか、もっととか、いろいろ口走っていた気がする。自分から上に乗っかったこともあった気がする。嫌いなはずのアルファ男に自分から。
 実琴はつらかったと言うが、何が恐ろしいって、一番つらいのが発情期の熱が引いた今だということだ。真っ最中はつらかった記憶が全くない。楓は一方的に無理矢理いたぶられたわけではなく、むしろ無理に誘ったのは楓の方で、それに相手が乗ってきて、共に大いに楽しんでしまった。それを思い出している今が最もつらい。
「ああ、消えちゃいたい……」
 しかし、楓の呟きを実琴はもっと深刻な意味でとらえたらしい。楓の両肩をつかみ、じっと目を見据える。
「楓、気をしっかり持って。起こってしまったことを無かったことにはできないけど、命を粗末にしないで」
「うん。それは大丈夫だけど……」
「とりあえず病院に行こう。ね?」
「え、なんで病院?」
 身体に大きな傷を負っているわけではないが。実琴は首をかしげる。
「あれ、楓、避妊薬飲んでた?」
「ひにんやく……」
 ひにん……避妊。妊娠できる身体で何度も中出しされれば、結果どうなるか。しかも妊娠しやすい発情期に。
「あー! うそ、やだ、妊娠とか!」
「病院でアフターピルもらえば大丈夫だから。これから行こう。まだ時間は早いけど、緊急の場合は開けてくれることがあるんだ」
「うん……」
 そうだ、一番重大な問題はそこだった。
 タオルケットを羽織り、実琴に手を借りてベッドから降りると、ノックの後ドアが開いた。ドキッとして飛び上がりかけたが、入ってきたのは慶人だった。
「病院まで車出すよ」
「あの人は……?」
「伊崎くんは外に出してる。また君の発情にあてられるといけないからね。俺は番がいるから大丈夫だけど」
 二人に連れられ、彼らの部屋でシャワーを浴びた。実琴に借りた服に着替え、慶人の運転でクリニックへ向かう。
 楓も実琴も同じクリニックをかかりつけにしている。オメガ専門のクリニックで、抑制剤の処方はここでしてもらう。スタッフにアルファはおらず、診療時間内のアルファの出入りも禁止という徹底ぶりだ。
 行きの車内で、実琴と慶人には、このことを母にも姉にも内緒にするよう、あまり大事にしないようにと頼んだ。特に姉に知られるのは絶対に嫌だ。大騒ぎして、根掘り葉掘り聞いてくるに決まっているから。そんなの恥ずかしすぎる。
 後から聞いたところによると、早朝目を覚ました伊崎は、訪ねようにも部屋番号がわからないため、楓のスマホから実琴に電話をかけた。それで実琴と慶人が慌てて駆けつけた、というわけだった。

 ——夢だ、夢だ、夢だ。あれは悪い夢だ。
 それからというもの、楓はあの日の出来事を思い出すたび、心の中でそう念じ続けた。だってそうだろう。いくら発情期だからって、自分がアルファ男を誘惑したなんてあり得ない。
 身体の不調が元に戻ると、それも徐々に信じられるようになってきた。夢、夢、夢……。楓はおかしくなっていない。これは現実逃避なんかじゃない。
 取り憑かれたようにぶつぶつと呟きながら、自宅の自室で通学用のリュックの中身を整理していると、見覚えのないメモが出てきた。
 『会って謝りたい。いつでもいいから連絡がほしい。伊崎』というメッセージと電話番号、メールアドレス、それからメッセージアプリのID。
 すぐさまメモを丸めるも、少し考えてから広げて伸ばす。夢じゃない? 夢じゃなかった? こんなもの捨ててしまえば、夢にできる。夢ってことにして、忘れて——。本当に忘れられるのだろうか。
「ああ、もう、余計なことしやがって!」
 いつの間に入れたんだ。こんなメモ。夢にしてしまおう作戦がせっかく上手くいきそうだったのに。ひどくむしゃくしゃして、腹いせに何かしてやらないと気が収まらない。メモに書かれたメッセージアプリのID宛に恐怖の手紙を送りつけてやることした。
『できちゃった。責任とって。』
 返事を待つ間、英語講読の課題の論文を翻訳し始める。友達と手分けしてやるという学生が多いようだが、学内に友達のいない楓は一人でやらなければいけないため量が多い。
 返事が来たのは三十分後くらいだった。
『どちら様ですか。お姉さんが私と同じ会社の方ですか。』
 楓の姉は慶人と同じ会社で同期だ。つまり慶人の後輩の伊崎は姉の後輩でもある。楓の姉が同じ会社だとなぜ知っているのだ。慶人から聞いたのか。
 だいたい、『どちら様』とはなんだ。万が一人違いであったときのことを警戒しているのだろうが、かちんと来たので、さらに意地悪をすることにした。
『そうだけど、他にも心当たりがおありで?』
 すぐに返信があった。
『ないよ。でも、念のため。』
『で、責任取ってくれんの?』
 また十分ほど間があいて、返ってきた。
『ご両親とお姉さんにご挨拶に伺います。』
「はあ? こいつ飛躍しすぎだろ」
 もっと動揺して慌てふためくのをからかいたかったのに。シャーペンを放り出してスマホを取る。
『めんどい。来るな。』
 すると今度は通話の着信音が鳴る。五コールくらいためらってから、応答する。
「……なに」
『なにってな。こういう話は文字でやるもんじゃねえだろ』
「そうなの? 知らない」
『知らないって自分の身体のことだろうが。でさ、真宮さん、病院でアフターピルもらったって言ってたけど、間に合わなかったってこと?』
「えー、なんだよ。聞いてたのかよ」
 せっかくいい腹いせを思いついたと思ったのに。ふてくされてルーズリーフの隅に落書きを始める。江野玩具のあめ左衛門だ。
「じゃあもういいよ」
『いいってどういうことだよ』
「できちゃったのは俺の人生の汚点だよ。誰も子供ができたなんて言ってない」
 電話の向こうで沈黙があった。不安になって先に口を開いてしまう。
「なんだよ。怒ったのか?」
『いや、なんでこんなことしたんだろうなって考えてた』
「深い意味はない。あんただってちょっとは困ればいいって思っただけだ」
 彼にとっては、きっと近いうちに楓とのことは何でもない過去の一部になるのだろうから。楓にとっては人生最大クラスの大事件なのに。

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