(1)君と出会ってからの僕

 伊崎はソファから立ち上がる。咄嗟に彼のシャツの裾を掴む。
「行くなよ。怒んないで」
「ちょっと頭冷やしてくる。離して」
「やだ。行くな。もう離れたくない。ここにいてよ。いっぱい待ったのに、また会えなくなるのやだ……」
 怒らせたまま別れて、また三週間後しか会ってもらえなかったら。もう二度と会えなくなったら。考えるだけで恐ろしい。なぜこんなにも楓はこの男に執着してしまうのだろう。
 少しの逡巡の末、楓も立ち上がって彼の背に抱きつく。布越しの温もりが肌に馴染む。あのときみたいにこの中に触れたい。そう考えたとき、腹の奥がきゅっと収縮した。
「亨」
「……どういうつもり」
「捕まえてる」
「俺が何考えてるのかわかる?」
「怒ってるんだろ」
「それもあるけど、お前、馬鹿だなって。俺はちゃんと警告したよな?」
「うん。だから、亨は悪くない。俺が馬鹿なのが悪いんだ。全部俺のせいだから……、だから、我慢しなくていいよ」
「ほんとにたち悪いな」
 伊崎は楓の腕を引き剥がすと、こちらと向かい合う。絡まった視線は抑圧された彼の熱を伝えてきた。彼の頬におずおずと指を伸ばす。接触する前に、乱暴に手首を掴んで引っ張られる。
「……あ」
 両手で左右の耳のあたりを挟みこまれ、重ねられた唇。一切抵抗はしない。薄く口を開き、舌で彼の舌を誘うことさえした。深まるキスは、三ヶ月前のあの夜に、いとも容易く楓を連れ戻す。甘い熱が全身を支配していく。
 密着する下腹部に固いものがあたる。あれが楓の中に潜り込んできて、中をめちゃくちゃに掻き回すのだ。知っている。それが身体の中も頭の中もぐちゃぐちゃに溶けるくらい、気持ちいいってこと。
 伊崎の手のひらが楓の尻に滑り下りてくる。ここに入れたいと思っているのか? ひとりでに濡れるオメガの特殊な穴は、この部屋に入ったときからとっくに準備を始めていて、下着を汚すほど潤っていることだろう。
 早く裸になりたい。早く。早く。早くほしい。
 離れていく唇。互いの荒い息遣いにさえ興奮する。
「……ベッド行く?」
「ここでいい」
 どこだっていい。早く抱いてほしい。ソファで充分。
 邪魔な服を脱ぎ捨てようとボタンに手をかけたところだった。
「……!」
 不意に着信音が響き渡る。出所は楓のポケットだ。なぜこんなときに。嫌だ。出たくない。
 しかし、伊崎の温もりがさっと離れていく。
「……出れば?」
「いい」
「出ろよ。たぶん泉田だろ」
 しぶしぶスマホを取り出す。伊崎の読み通り相手は実琴。応答すると、今帰宅した、遅れてごめんと謝られた。
 電話が切れると、先ほどまでの濃密な空気は消えていた。伊崎はソファに腰を下ろして首の後ろを押さえる。
「行ってこいよ。約束してたんだろ」
「でも」
「……やっぱりまた流されてやんのはよくない。冷静になるまで待って話し合おう」
「何を?」
「いろいろだよ。話したいこと考えとけ」
「……わかった。もういい」
 ほんのさっきまで確かに楓を求めていたはずなのに、電話で少し話している間に涼しい顔だ。結局、大してほしくなかったということなのだ。
 子供の喧嘩のように舌を突き出す。
「亨のバカ! もう土下座したって大金積んだってヤラせてやんねえから!」
「はいはい。また来週な」
「バカバカバカ!」
 一張羅のコートを引っつかみ、悪態をつきながら足音荒く廊下に出る。ちょっと待ってみても追いかけてこないので、走って玄関から飛び出た。澄んできらめく冬空に叫びたい。吐き出しどころのないまま身体の奥底に溜まった熱をどうしてくれよう。

 非常階段で一階分駆け上がり、実琴宅へ行く。
 慶人と二人で慶人の妹宅へ遊びに行った帰り、事故による渋滞に巻き込まれてしまったということだった。時間がなくなってしまったため、実琴は手早くできるカレーを調理中だった。手伝いを申し出るが、ゆっくりしていてと断られた。
 リビングで慶人と一緒にテレビを見る。彼らの中で料理は実琴の担当と決まっているようで、これまで慶人が手伝っているのを見たことはない。
 ふと思い立って、楓は慶人に鼻を近づけて首筋あたりの匂いを嗅いでみた。
「うーん……」
「え、なに、どうしたの?」
「いや別に」
「別にって何? 臭い? 俺臭いの? もしかして」
 慶人は台所に向かって声を張り上げる。
「ミコ! 楓に臭いって言われた!」
「言ってねえし」
「……もう僕忙しいんだけどなあ」
 そう言いながらも優しい実琴はリビングに顔を出す。慶人は手招いてソファに呼ぶ。
「くんくんしてみて」
「えー、どこ?」
 実琴は指された首筋に鼻を寄せる。十秒くらいしっかり嗅いで、小首を傾げる。
「臭くないよ。いつもの匂い」
「だよね! だよね!」
「いつもの匂いってどんな匂い?」
 参考までに聞いてみる。
「どんなって言われても、言葉では表現しづらいけど、汗くさいとか親父くさいとかじゃなくて、いい匂いだよ。香水とか柔軟剤とかの匂いともまた違うんだよね」
「匂い嗅いだだけでうっとりする感じ?」
「まあそういうときもあるよね」
「ミコもいい匂いするよ。すごくいい匂い」
 そう慶人が言うので、実琴の匂いも嗅いでみる。慶人と同じで匂いらしい匂いはしない。本人たちにしかわからない匂いがあるようだ。
「それって番になってから? それとも最初から?」
「出会ったころからだったと思うけど」
「俺もー」
「でも、なんで突然そんなこと聞くの?」
「大学でフェロモンの研究でも始めた?」
 実琴もソファに詰めてきたので二人に挟まれる格好になる。彼らの好奇心を刺激してしまったようで、興味津々といった様子で両側から見つめられる。そんなにたいした話でもないのだが。
「俺、文系だから研究とかじゃない。ミコちゃんの匂いも慶人の匂いも俺にはよくわかんないけど、少し前にすごくいい匂いがする人に出会ったんだ。その人も俺のこといい匂いだって言ってる」
「好きな子?」
「好き? 好き、なのかな?」
 会えないと寂しくて、会えると離れたくなくて、キスやそれ以上をしていいって思う程度には好き。——あれ、それって普通に好きってことじゃないのか。普通というか、すごく?
 そうか。目から鱗の気分だ。今日一日、楓は自分がおかしいおかしいと混乱していたが、諸々の感情や言動は「好き」から来たものだと考えれば、特別おかしいことでもない。
 好きってどうして。女の子と付き合いたかったはずではなかったのか。でも、実際に付き合いたい特定の女の子がいたわけではないから、アルファ男が嫌いすぎてそう思い込んでいただけではないのか。
 ああ、どうしよう——。
 頬が熱くなってくる。二人がそれをにこにこと見守っているので、さらに恥ずかしくなった。
「どんな子なのかな。同じ大学の子?」
「内緒。ミコちゃんでも内緒!」
「もしかして、それって運命の人なんじゃない?」
 運命の人なんて、信じていいのは少女と言われる年齢の乙女だけだと楓は思っている。姉と同年齢の慶人の口から出てくるのはものすごく違和感がある。
「アルファとオメガの間には、まるで番になるために生まれてきたような運命的な繋がりを持つ組み合わせがあって、出会ったらすぐに磁石みたいに引きつけあって離れられない、みたいな話は有名だよね? 運命の人とは匂いで引きあうんだって」
「それ都市伝説だろ?」
 楓も聞いたことはあるが、少女漫画の定番みたいな話が現実にあるとは思えない。しかし、慶人は大真面目のようだった。
「俺もそう思ってたよ。でも、ミコと出会って、この話がすごくしっくりきたんだ。俺は普段感情の起伏が激しい方ではないんだけど、まるで見えない何かに突き動かされるみたいに手に入れたい、手に入れなきゃ、絶対に離すもんかって思ったのは、ミコだけなんだよ」
「慶人、そんな……」
 実琴は感動しているのか照れているのか、乙女のようにはにかんでもじもじしていた。これが似合う二十七歳は貴重だ。いや、年明けまで二十六だったか。楓もこのくらいいじらしくて可愛らしければいいのだが。
 ないとは思うけれど、運命があればいいなとは思う。運命的なつながりがあって離れられないなんて、離れたくない楓にとっては好都合だ。でも、相手がどう思っているかは別の話。今日は全身で誘ったのに受け入れてもらえなかった。冷静になるまで待って話し合おうって何だ。楓は伊崎に関することでは冷静になれる気がしない。
 一人で落ち込み始める楓に、実琴は素朴な疑問を口にする。
「そもそも、相手はアルファなの?」
「そうだけど……」
「じゃあやっぱり運命だ。よかった。楓にもついにそんな人が……」
「わかんないよ。現時点で付き合ってるわけじゃないし、俺のこと好きかどうかなんてわかんないし、今フリーかどうかも……」
 自分で言ってはっとした。そうだ、そうだった。伊崎にはすでに相手がいる可能性があるのだ。なんといっても、アルファ男はアルファというだけでモテる。彼は勤め先もしっかりしているし、見目も悪くないし、おまけにかなり我が儘を聞いてくれるし、いわゆる良物件なのでは。今日拒否されたのも、相手がいるから思いとどまったのでは。さかのぼれば発情期になったあのときに楓を抱くことに一度は抵抗したのも、もしかしたら。
 なぜ今まで確認していなかったのか。理由は単純。好きだという認識がなかったから、確認する必要を感じなかったのだ。もともと恋愛話は不得手であるし、何気ない会話のネタにすることもない。
 伊崎がさきほどまで楓といたあの部屋で、楓ではない誰かとキスをして、セックスも、と考えて、吐き気がするほど苦しくなった。そんなの嫌だ。絶対に嫌だ。あの手で、唇で、他の誰かに触らないでほしい。でも、恋人でも何でもない楓に駄目だなんて言う資格はない。
「ねえ、楓、どうしたの?」
 突然ずんと沈み込んだ楓の肩を、実琴は軽くたたく。楓は首を振った。
「なんでもない」
「そうは思えないけど……。もしかして、発情期が来ちゃったあのときのこと、気にしてるの? ほぼ初対面の人と関係を持っちゃった事実は取り消せないけれど、新しい恋を始めてみたっていいんじゃないかな。せっかくいい人がいるんでしょう?」
 実琴は勘違いをしていたが、彼が楓を思いやってくれていることに変わりはない。胸が詰まって、勢いよく実琴に抱きついた。
「ミコちゃん好き。大好き!」
「……え、ほんとどうしたの」
「ちょっと楓、やりすぎ! 離れて!」
 慶人は両肩を持って引き剥がそうとしてきたが、楓はしがみつく。
 そんなこんなでバタバタして、夕食にありついたのは、それから一時間ほど後だった。

 週明け月曜日。年内の講義は来週いっぱいで終わり、大学は冬休みに入る。冬休みが明けると後期試験があり、そこからはまた長い春休みだ。大学というところはとにかく休みが多い。
 この日の最終講義終わりで図書館に寄り、試験がわりに提出が必要なレポートのため、本を見繕って二冊借りる。それをリュックに仕舞っていたとき、愛用のルーズリーフバインダーがないのに気づいた。どこかの教室に忘れてきたようだ。あれがないとレポートが書けない。
「ああ、もうめんどくさい」
 小走りで学部棟に戻り、最終講義が行われていた教室をのぞく。もう皆帰った後で暗い。明かりをつけて自分の座っていた机の中を探ると、バインダーがあった。しかし、妙だなと思う。バインダーはずっと机の上に出していて、中に入れた覚えはないのだが。入れると忘れるかもしれないから、出したままにするのが習慣なのに。
 首をひねりながらリュックにバインダーを収めていると、教室に誰かが入ってくる音がした。見回りの職員だろうか。

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