(2)引力

 土曜日。ついにバニバニライブの日がやって来た。
 地元に住んでたときは、会場が遠くて気軽に行くことができなかった。一番近い会場でも片道二時間かかったから。しかし、今の住まいからだと、一番大きな会場に三十分かからずに行ける。都会万歳。地元を出てきて良かった。
 ただ、お楽しみの前に、乗り越えなければならない試練がある。区役所へ行って性別変更の手続きをしなければならない。陽介がついてきてくれると言っているが、それでも気が重いには違いない。
 自分の性別が変わるというのは、そう簡単に受け入れられることではない。社会的地位が変わり、世間からの見られ方が変わり、つける仕事の幅が減り、自分のアイデンティティを揺るがしかねないことだから。
 また、オメガが嫌だ嫌だと思うのは、姉の件でオメガへの差別が憎いと思いながら、伊月も心のどこかで差別していたのかもしれない——、そう考えると、さらに気分が落ち込んだ。
 この一週間、「ライブだ、やったー」と「役所行きたくない」の間で揺れ、テンションの上がり下がりが激しかった。
 昨日、陽介は電話で「考えてもどうにもなんないことは置いといて、楽しいことだけ考えてれば?」と言っていた。しかし、考えないでおこうと思って考えないでおくことは難しい。
 あれから、陽介とは毎日連絡を取っている。「夜になると不安になるんじゃないかと思って」と電話してきてくれるのである。話していると気が紛れるので助かる。
 会話の内容は他愛もないようなもののことが多い。昼ご飯や夕飯のメニューを報告し合ったり、バニバニの出ていた歌番組の感想を喋ったり、教授や講師の特徴、単位の取りやすい講義を教えてもらったり。重い気持ちを吐き出すと、励ましてもくれる。眠れない日も、遅くまで話し相手になってくれた。
 可哀想な後輩の面倒は見てあげないと、という使命感のようなものからだろうか。それとも、下心からだろうか。ちらちらと見え隠れする下心が気になってはいる。寂しいなら泊まりに来なよ、とか、うちで夕飯を一緒に食べよう、とか、さりげなく会話に混ぜ込んで、自宅に来るよう誘ってくるのだ。
 親しい友達でもないのに、毎晩話し相手になるなんて面倒なこと、何か見返りを期待していなければ出来ることではないだろう。
 合コンで根こそぎ女の子を持って帰るような人だから、相手に不自由しているとは思えないが、オメガの男はめずらしいというし、つまみ食いしたくなることもあるのかもしれない。
 また身体の関係を求められたらどうしよう。恋人でもないのにああいうことをするのは、やはりよくない。
 ——いや、相手が誰かということ以前に、彼は男だ。引っかからなければいけないのは、まずそこだ。男を性的対象とする、または男から性的対象にされることについて、まず悩むべきだ。
 ごく最近まで、多数派のベータとして生きてきた。ベータの感覚で言うと、男同士でというのは普通ではない。伊月もこれまではそう思っていたはずなのだが、今は彼が男性だという点にはあまり抵抗を感じない。発情期が来てオメガの性質が強くなれば、急に指向まで変わるのか。それともあのときのセックスが強烈すぎたせい?
 なんにせよ、このままではよくない。求めを断るつもりなら、彼が伊月のためにしてくれることを受け入れていてはいけないのだが、寒い夜に毛布を手放すようなことはできなくて、べったりと甘えてしまっていた。
 その日、午前九時の開庁に間に合うように駅で集合し、区役所へ行った。来庁者は少なく、ほとんど待たされることはなかった。
 自分一人だと書類を提出できずに帰ってきていたかもしれないが、悩みながらだらだら書いたものを、陽介が横から取り上げ、医師に書いてもらった証明書と一緒にさっさと窓口に持っていってしまった。
 あとは、後ほど健康保険の手続きもしないといけない。健康保険証には男女性の他にαβΩ性が記載される。学生証や運転免許証等には、個人情報保護の観点から、性別は男女性の記載のみでαβΩ性は省略されることが多い。だが、医療現場では必要な情報であるので、健康保険証には省略されずに書かれる。そのため、性別欄を書き換えた保険証の再発行が必要になるのだ。
 伊月は父親の扶養になっているので、父に会社で手続きしてもらうことになり、そうなると両親に性別変更の件を話さねばならない。ものすごく気が重い。
 区役所を出て、駅に向かって歩いている間、何度もため息が漏れる。
「あーあ。これでもう正真正銘オメガになっちゃった……」
「おめでとう」
「おめでたいもんか。アルファ様はいいよな。どうせなら変転アルファがよかった」
「なんでそんなにオメガが嫌なの? いいじゃん。誰とでも結婚できるよ」
 どうせ他人事だからなのか、陽介は非現実的なことを気軽に言う。
 この国では基本的に結婚は男女間でしかできないが、両性であるオメガ男性とアルファ女性は別だ。婚姻届の夫、妻の欄、どちらにでも名前が書ける。男性同士、あるいは女性同士でも夫婦になれるのだ。制度上はそうだ。あくまでも制度上は。
「ベータの時でさえ彼女の一人もできなかったのに、オメガになって結婚とか無理だろ。俺は一人寂しく誰にも看取られず死ぬんだ」
「大丈夫大丈夫。僕の婚姻届の妻の欄は空けといてあげるから」
「あー、はいはい」
「もう、流さないでくれる? 本気で口説いてるんですけど」
「本気だったら、そんな軽々しく言わないだろ。俺が受け流すってわかってるから言えるんだよ」
「そうかもねー」
 実に軽い口調。それが本気でないことの何よりの証に思えた。彼はこの手の冗談をよく言うから、いちいち真に受けていたら身が持たない。
 商店街を抜けると、駅が見えてきた。スマホで時間を確認する。
「いったん家に帰るかなあ。時間中途半端だな」
「今から現地に行こうよ。近くにショッピングモールもあって、ランチも取れるし」
「なに、あんたも行くの?」
「ふふふ。じゃーん」
 彼はジャケットの内ポケットから封筒を取りだし、中からチケットを出す。印字された内容を確認すると、それは今日のバニバニライブ昼の部のチケットだった。しかも席がすごい。
「アリーナ二列目じゃん。なにこれ。身内パワー?」
「これは、ファンクラブ最初期会員の母さんが自力で取ったんだよ。下の妹と二人で行くつもりだったらしいんだけど、妹が部活で行けなくなったらしくて、僕が買い取った」
「下の妹? 夏穂ちゃん以外にも妹が?」
「すぐ下に夏穂、その下に双子の妹と弟。兄弟多いんだよ、うち」
「へえ。今時めずらしいな」
「伊月はどの辺の席?」
「スタンドの後ろの方……」
 それでも当選したときは嬉しかった。どんな席でもバニバニメンバーと同じ空間にいられれば幸せだと思っていたのに、実際に良い席のチケットを目の当たりにすると羨ましくなってしまう自分が憎い。
「じゃあ、手続き頑張ったご褒美、あげちゃおっかな」
 陽介が手にしているチケットを指でずらすと、手品のように、後ろからもう一枚チケットが現れる。
「行けない妹が、お母さんだけずるい!って駄々こねるから、母さんも行かないことにしたんだってさ」
「……うわあ」
 正直ほしい。ファンとしては喉から手が出るほどほしい。正価の倍額出してでもほしい。しかし、あまりに気前が良すぎないか。この席の価値をよく知らないのだろうか。
「いいの? これ、かなりの神席だぞ」
「いいよいいよ。無駄にするのはもったいないから。伊月のチケットと交換しよ」
「いや、買い取るよ。交換したって使い道ないだろ」
「会場の周りでチケット欲しそうにしてる子にあげたらいい。はい、どうぞ」
 チケット一枚を差し出してくる。受け取るのを躊躇していたら、彼は背中に回ってリュックを開け、中にチケットを入れ込んだ。
「はい、これで君のもの」
「強引だなあ」
「君みたいな熱心なファンに楽しんでもらえたら、夏穂も、もちろん清香も喜ぶと思うよ。僕も伊月と一緒に楽しみたいな」
「……下心つき?」
「下心なしで心苦しいようなら、後からキスでもしてくれる?」
「……」
 ついに具体的なお誘いが来たか、とひやりとする。だが、彼は急作りの真剣な表情を、笑みで崩す。
「冗談だって。なしでいい」
 ほっと胸を撫で下ろす。
 一応交換ということなので、電車内で伊月の持ってきたチケットを渡した。

 会場ホールの最寄り駅へ着く。ぶらぶら歩き、ホールからほど近いショッピングモールに立ち寄る。
 「せっかく清香の近くまで行くんだから、もっとお洒落しないと」言われ、服を見立ててもらった。手持ちがそうないので、行ったのはファストファッションの店だ。馬子にも衣装で少しだけお洒落になった。
 気になる店を所々で覗きながら、モール内を散策し、十一時に飲食店エリアがオープンしてすぐランチにした。休日はどこもいっぱいになるのが早い。待たされて時間を無駄にしたくない。
 陽介と電話で話をすることには慣れていたから、長時間二人きりで会話が続かず困った、などという事態にはならなかった。あれよりこれがいい、この色が好き、最近あれを買った、この前入ったあの店が美味しかった、いちいち記憶にも残らないような些細な話題の数々が、シャボン玉のようにポンポンと生まれては空中ではじけて消えていく。このシャボン玉遊びが楽しかった、それだけ残れば充分。
 物販列に並ぶ時間を考慮し、早めに会場ホールへ向かった。ライブグッズを購入した後、席につく。ステージと席がこんなに近い。こんなに間近でバニバニが見られる。気分は最高潮に盛り上がる。午前中の憂鬱など、いとも容易く吹き飛んだ。
 ライブは大いに満喫した。歌やダンスなどのパフォーマンスが素晴らしかったのはもちろん、何度もこちらに視線をくれたり、手を振ってくれたり、投げキッスまでしてくれた。おそらく知り合いである陽介に向けてやっていたのだと思うが、たとえ意識されなくても彼女たちの視界に収まることができれば、伊月は充分幸せだ。夢のような時間だった。
 ライブ終わり。床に落ちた銀テープを拾っていると、陽介は「楽屋に入れてくれるみたいだよ」と神席以上の贅沢を勧めてくる。しかし、遠慮する。彼女たちも疲れているだろうし、あれ以上近づけば、きっと興奮しすぎて呼吸困難に陥ってしまうだろうから。
 一斉に移動する観客たちの波に逆らわず進み、数十分かけて外に出た。余韻で、まだ頭がぼーっとしている。陽介と並んで、人の流れに沿って駅の方向へと歩く。
「チケット、ほんとにありがと。最高だった」
「よかった。楽しめたみたいで」
「うん。やっぱりバニバニはすごい」
「しんどいことがあっても、楽しい気分で一日終われるのはいいよね」
 そういえばそうだ。役所で手続きだけして家に帰っていれば、沈んだ気持ちを引きずっていたに違いない。嫌なことを済ませてからライブに行ってよかった。
 それもこれも、陽介が土曜日に役所に行こうと提案してくれたおかげだ。さらに、不安がる伊月のためにわざわざ役所に付き添ってくれて、良い席のチケットをくれて、今日一日だけでも借りがずいぶん増えた。返す方法もわからない借りが。
 こうも貰ってばかりだと、さすがに心苦しい。何か良い恩返しの仕方はないものか。ただ、月曜日の夜のようなのは、避ける方向で考えたい。
 伊月に何ができるだろう。取り立てて特技もなく、金もない伊月に。成績はいい方だが、相手は先輩なので、勉強を教えたり、かわりに課題をこなしたりすることはできない。それ以前にアルファならきっと成績もいいだろう。
 どんな些細なことでもいい。伊月にできること。こんなとき、すぐに答えを出せる多才な人間ならよかったのに。
 考え込んで歩みが遅くなり始めた伊月を振り返り、陽介は問う。
「このまま帰る? どこか寄る?」
「もうお金が……」
「ああ、服もグッズも買ったからねえ。なら、今度は僕が伊月の家に行ってもいい?」
「え? いや……、壁に清香ちゃんのポスターとか貼ってあるし、恥ずかしい……」
 いつでも女の子ウェルカムの陽介の部屋とは違い、伊月は友人を呼ぶのさえも躊躇するような部屋だ。壁にポスターを貼ってあるだけではなく、棚には所狭しとバニバニうさぎグッズが並んでいる。終電が無くなって行き場のない瀬上を仕方なく泊めたことがあるが、彼は明らかにリアクションに困っていた。
「えー、いいじゃん。うちの実家は夏穂のポスターだらけだから慣れてるよ。見てみたいなあ。伊月がどんなところに住んでるか」

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