(2)引力

 背中に突き刺さるような視線を感じた。同時に馴染みのある匂いも。
「……何してるの」
 聞き覚えのありすぎる声に振り返ると、そこにはマンションで待っているはずの陽介がいた。
「え、なんで」
「何してるのか聞いてるんだよ」
「ケーキ選んでる」
「そんなの見たらわかるよ! 遅いから来てみれば、他の男ときゃっきゃきゃっきゃ楽しそうに。人を待たせてる自覚ある?」
 マンションを出てきたとき以上にカリカリしている様子だ。頭の整理をするために外に出ることも、ケーキ屋に行くことも、彼は了承してくれたのに。
「一緒に選んでもらってただけだ」
「どうだか」
「なんだよ。どういう意味だよ」
 まったく、いつまで喧嘩腰でいるのだ。大人気ない。
 瀬上は遠慮がちに割って入ってくる。
「あのー、俺、そろそろ行くよ」
「おう、悪かったな。また月曜日なー」
「うん……。はあ、もうどうしよ」
 何やらぶつぶつとぼやきながら、瀬上は店を出て行った。またきちんと礼を言っておかなければ。友達とは良いものだ。
 誕生日が険悪なムードのまま過ぎていくのは避けたいので、言葉がきつくならないよう気を付けて問う。
「……えっと、どれがいい?」
「どれでもいい」
「ホールにするか? イチゴショート好き?」
「いいんじゃない」
 自分のことだというのに、えらくつっけんどんな物言いだ。理由は後で聞くとして、ひとまずここでの用件を終わらせてしまおう。
「じゃあ、そうする。すみませーん」
 ショーケースの内側の店員に、誕生日用として五号サイズのイチゴショートケーキがほしいと注文する。
「なあ、プレートつけてくれるんだって。『陽介くん お誕生日おめでとう』でいい?」
「……声が大きい」
「ロウソクは? 二十本、は無理か。大きいの二本でいいか?」
「好きにしてよ。外出てるから」
「先帰っちゃうの?」
「外で待ってる」
 そう言ってさっさと出て行ってしまう。そういえば、瀬上もホールケーキの蝋燭は恥ずかしいと言っていたか。陽介も他の客がいる前で聞かれるのは嫌だったのだろう。迂闊だった。もらうだけもらっておいて、使うか使わないかは後で決めよう。
 支払いしてケーキの箱を受け取り、慌てて店を出る。陽介が待ってくれていてほっとした。
 そろそろ薄暗くなってきた。先に歩き出した彼を追いかける。早足でずんずんと進むので置いて行かれそうになりながら、何とか隣に並ぶ。
 このままでは駄目だ。怒らせたままなんて嫌だ。
「……なに怒ってるんだ? 待たせたこと? ごめん。でも、俺だって頭を整理する時間が欲しかったんだよ。初めてのことばっかりで、頭の処理速度が追いつかないんだ」
「なんであいつといたの?」
「瀬上? 大学の中芝で考え事してたら、偶然会ったんだよ。フットサルの試合があって来てたんだって。それで、ちょっと話聞いてもらったあと駅まで一緒に行って、ケーキどれにしたらいいのかわかんないから、一緒に入ってもらった。それだけ」
「えらく楽しそうだったね」
「そりゃあ、誰かのためにプレゼントを選ぶのって楽しくないか」
 伊月は楽しかった。伊月の買ってきたケーキを彼と食べるのを想像しただけで、心が弾んだ。
 彼はこちらを見て、またすぐに逸らし、低いトーンで話し出す。
「……なかなか戻ってこないから、もう家に帰っちゃったんじゃないかって、君んちまで見に行ったんだ。でも、ポストに郵便物は残ってて、部屋に明かりはついてないし、恐らくまだ帰ってないだろうってわかった」
「そんなに時間経ってないだろ。一時間もかかってないよ」
「君が出ていってすぐ怖くなったんだ。このまま戻ってこなかったらどうしようって。選択を迫ったのは僕自身なのにね。君んちからケーキ屋まで走ってきてみれば、君は別の男といて、もしかして今からこいつとどっかに行くつもりなんじゃないかって焦った」
「瀬上は友達だぞ」
「わかってる。でも、仕方ないじゃん。不安になったんだから」
 黄昏時の薄暗い中、じっと陽介の横顔を観察していると、怒っているというよりは拗ねているように見えた。
 信じられないが、彼の言う「焦った」とか「不安になった」とかというのは、嫉妬や焼きもちといった類いのものだろう。聞いてみてもいいだろうか。聞きたい。言ってくれれば、こちらも素直に言えるのに。
「……好きなのか? 俺のこと」
「言わないよ。君は僕より清香の方がいいって言った」
「言ってないってば。しつこいな」
「で、どうするの?」
 彼のマンションは、もうすぐそこだ。行くと返事をする前に、彼は伊月の手を掴む。痛いほど強い力で。自分の感情をどう扱えばいいのか、彼の方も測りかねているのではないかと、そのとき思った。
「嫌って言っても連れて行く」
「嫌じゃない。ちゃんとここに帰ってくるつもりだった。だいたい、そのつもりがなかったら、ケーキなんて買ってない」
「……だよね」
 そのまま彼の部屋まで、手は繋いだままだった。絶対に離さないと言われているみたいで嬉しかった。

 部屋に入ると、食べ物の匂いが漂ってきた。
「美味しそうな匂いがする」
「待ってる間に夕飯の準備したんだ。あとは仕上げだけ」
「一緒に作りたいって言ってたのに、ごめん」
「今度は伊月が作ってよ。それで許してあげる」
「俺、やったことない」
「教えてあげるから」
 料理には苦手意識があるが、二人でキッチンに立つのは調理実習みたい面白いかもしれない。
 伊月からケーキの箱を受け取った陽介は、丁寧に冷蔵庫に入れた。せめてテーブルの上でも片付けようと目を向けると、そこに見覚えのあるものを見つけた。それはブルーレイディスクで、清香の主演映画『とろける月』の初回特典付き限定盤だった。伊月もDVDを持っている。ただ、ディスクの種類以上に決定的に違うのが、サインつきというところだ。正直とっても羨ましい。だが、また怒らせそうなので言わない。
 伊月が食い入るように見ているのに気づいたのだろう、彼は説明してくれる。
「清香からの誕生日プレゼントなんだ。僕が恋愛映画好きじゃないの知ってるくせに、選ぶの面倒くさかったんだろうね。去年夏穂にせがまれて一緒に映画館まで見に行ったけど、あんまり響かなかったな」
「俺は五回ぐらい見に行ったぞ」
「去年って受験生だよね? 何やってるの」
「息抜きも必要なんだよ。受験生じゃなかったら十回は行ってる」
「へえ」
 また少し不機嫌になってしまった。何度も失敗するな、と心の中で自分を叱る。
 陽介はディスクのパッケージを取り上げ、差し出してくる。
「まあ、あんまり好きではないんだけど、内容は参考にしてもらえるだろうから、見る?」
「何の参考?」
「君の知りたがってた『ちゃんとしたこと』、話すよ。とりあえず夕飯を仕上げてくるから見てて」
 あの紛らわしい発言の真相がついに聞けるわけか。交際申し込みでないとすれば、いったい何なのだ。連続サスペンスドラマの最終回で、ついに犯人が明かされる直前のような心持ちだった。早く知りたい。そのために、まずやるべきことを終わらせなければ。どのみちこんなことを言われたら、集中して映画を見られない。
「内容はしっかり覚えてる。一字一句間違わずにセリフ言えるレベル。ちょっとだけでもそっち手伝わせて」
「それじゃあ、お願い」
 手伝いと言っても、伊月は卵を割って、食器を並べただけだ。
 メニューは親子丼と味噌汁とカット済みで売られているミックスサラダ。全くお祝い感はないが、「夏穂には今日作るって言わなかったから、僕にでも作れそうなのを適当に教えてくれただけだと思う」とのことだ。
 居間のテーブルに全て並べる。マグカップと箸は、夏穂がプレゼントしてくれた新品だ。茶碗と皿は本日登場機会がないが、そのうちすぐ出番が来るだろう。
 いつものように隣り合わせでカーペットの上に座る。お茶の入った新しいマグカップで乾杯して、おめでとうとお疲れ様を言った。
 さて、陽介の手料理はどんなものだろうか。
「おいしそう」
「やればできるんだよ、僕は。やらないだけでね」
「食べていい?」
「どうぞ。お替わりあるからね」
 まずは親子丼からだ。箸で丼物を食べるのは苦手なので、スプーンですくって口に入れる。
「ん、いける。鶏プリプリだし、卵ふわふわだし」
「でしょ。さすが僕。食べながら映画見る?」
「いいって。オメガの苦学生が、お坊ちゃんアルファと運命の出会いをするシンデレララブストーリー、だろ」
「よろしい。じゃあ、まず何から話そうかな。順を追ってがわかりやすいかな」
 よし、ついにか。伊月は口をもぐもぐさせながら、先を促すように二、三度頷く。さあ、犯人は誰だ。違った。事の真相は?
 陽介は真顔で人差し指を立てる。
「ここで問題です。君と僕が初めて会ったのはいつでしょう?」
 突然クイズ番組が始まった。すぐに真相が明かされるわけではないようだ。
「え、月曜日の講義の初回だろ? 会ったっていうか、同じ空間にいただけだけど」
「ハズレ。正解は去年の九月、オープンキャンパスの時だよ。僕はバイトで学校側の手伝いをしてたんだ。君は友達と三人で来ていて、僕に道を聞いてきた」
「よく覚えてるな、そんなこと」
 オープンキャンパスに行ったのは事実だ。地元が同じ田舎者三人だったため、大学の敷地内でも外でも迷いまくったのはよく覚えている。あちこちで道を聞いたので、どんな人に尋ねたのかまでは全く記憶にない。
 その数ヶ月後、三人ともこの大学を受験したが、受かったのは伊月だけだったため、伊月が一人で地元を出てきた。
 陽介は先にサラダを平らげてしまうと、ようやくメインに箸をつけた。
「そりゃ覚えてるよ。君からは今まで嗅いだことのない、この世のものじゃないみたいないい匂いがしたから。あんなの忘れられるわけない。あの頃の君はオメガとして未成熟で、まだ僕の匂いはわからなかったのかも知れないけどね。あと、田舎くさかったけど、僕好みの可愛い顔してたし」
「可愛くはないだろ」
「可愛いよ。ホッキョクギツネの子供より可愛い」
「ああ、この前のアニマルドキュメントに出てたやつ?」
「うん」
 白いもふもふの毛に全身が覆われていて、耳や鼻が丸っこく、目もつぶらで、ぬいぐるみのように愛らしい生き物だった。ホッキョクギツネは確かに可愛いが、あれがどうして自分の比較対象にされるのかが理解できない。
 しかし、いちいち掘り下げていると話が進まないので、彼の話に耳を傾ける。
「で、あの匂いには絶対何かあるはずだと思って、あれからずっと調べてた。調べれば調べるほど、また君の匂いを嗅ぎたくなった。たった数分のことで、すっかり囚われてしまったんだ。なんで連絡先を聞かなかったんだろうって何度後悔したかしれない。四月に教室で君を見たとき、あの時の子だってすぐにわかったよ。いつ声をかけようか機会を窺ってたんだ」
「なんですぐ声かけなかったんだ?」
「まだ覚悟ができてなかったんだよ。まあ、できてないまま、コーヒーぶっかけ現場を見られちゃって、あんなことになっちゃったわけだけど」
「声かけるだけで覚悟?」
「それは……」
 彼はいったん話すのをやめ、どう説明しようか考えを巡らせているようだった。

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