(2)引力

「あの……」
『なに』
「ううん。なんでもない。忙しいのにごめん」
 伊月から切る。聞いてほしいことがあると言えばよかったか。言えば多分、帰宅してからでも聞いてくれたのに。切ってしまった後で悔やんでも仕方がない。
 夕飯の片付けをしてから、風呂に入る、いつものパターン。そこで心を落ち着かせた後、再度スマホを手に取る。健康保険証の手続きのために両親に電話しなければならないのだった。陽介よりそちらが先だろう。どうかしていた。だが、いざ発信ボタンを押そうとすると勇気が出ない。
 姉の葬儀の後、憔悴しきった彼らの顔を思い出す。きっと悲しむだろう。伊月が性別変更したことを知ったら。姉が逝かなければならなかったのは、オメガだったから。オメガでなければ死なずにすんだ。オメガでなければ幸せだった。一人になると、いつもこんなことを考えて気鬱になってしまう。
 スマホと睨めっこをして十五分は経とうかというとき、救いの手が伸びる合図のように、チャイムが鳴る。
「……もしかして」
 慌てて玄関まで走って行き、ドアスコープで確認する。そこには陽介が立っていた。自分でも滑稽に思うほど焦って内鍵と補助ロックを外し、ドアを開ける。彼は伊月に軽く手を上げる。
「やあ」
「……やあ」
 顔を見ると心臓が跳ね、抱きつきたい衝動に駆られた。会いたかった。会いに来てくれた。——うれしい。それが正直な気持ちだった。いったいどういうことだろう。土曜日に彼がここに来た時から、伊月はおかしい。
「はい。どうぞ」
 コンビニの白いレジ袋を差し出される。とりあえず受け取ってしまったが、これは何だろう。
「えっと……」
「プリン。一緒に食べよ」
 返事も聞かずに、彼は靴を脱いで上がり込む。
 テレビの前に並んで座り、バラエティー番組を見ながらプリンを食べる。コンビニのプライベートブランドの少しお高めのプリンだった。デザートは贅沢品なので、自分ではあまり買わないが、実は甘いものは好きだ。彼に話したことがあっただろうか。
 ペットボトルの水を直飲みしながら、陽介はテレビの音量を下げる。ここにはコーヒーも紅茶もないので、ミネラルウォーターのストックをお出ししたのだった。
「何してたの?」
「実家に電話架けようと思って睨めっこしてた」
「ああ、そういうこと。電話しないの?」
「なかなか踏ん切りが付かなくて」
「ふーん」
 陽介は伊月が握ったスマホを取り上げ、素早く連絡帳を開く。
「登録なに? この『家』ってやつ?」
「うん」
「はっしーん」
「え、もう?」
 伊月は散々悩んだというのに、いとも容易くやってしまった。
 呼び出し音が鳴り出し、五コール目の途中で繋がった。スピーカーから、もしもしと小さく聞こえている。彼は伊月にスマホを戻す。こうなればもうやるしかない。
「……もしもし。伊月だけど」
『あら、どうしたの? 元気にやってる?』
 久々に聞く母親の声にほっとし、不覚にも涙がこみ上げそうになるが、堪える。泣けば余計に心配をかけることになるから。努めて明るく言う。
「うん。元気だよ。すごく元気」
『ちゃんとご飯食べてる? 野菜も採らないと駄目よ。あんたのことだから、出来合いばっかりなんじゃない? 出て行く前にもっとお料理教えてあげればよかったって、お母さんずっと反省してるの』
「ちゃんと食べてる。大丈夫だよ。その、今日は話さなきゃいけないことがあって。長くなるんだけど、時間はいける?」
『大丈夫よ。なに、どうしたの? 何かあったの?』
「うん……、それがね」
 先週月曜日に突然発情期になったこと、医師からは変転オメガと言われたこと、性別の変更を済ませたことを話す。動揺を悟られないように、なるべく淡々とした口調を心がける。その間ずっと陽介は手を握ってくれていた。温かい。守られているみたいだ。
 聞き終わっても、母は意外なことに取り乱した様子はなかった。
『……そう。大変だったわね。一回家に帰ってくる?』
「ううん。学校もバイトもあるし。それで、一番の用件は、保険証の再発行の手続きを頼みたいってことなんだ。手持ちの保険証と住民票を送るから、なるべく早くお願いできないかな」
『わかったわ。お父さんに話しとく』
「うん」
『伊月、あんた本当に大丈夫? 帰ってきた方がいいんじゃない? 冷静に喋ってるように聞こえるけど、平気なはずないでしょう?』
「大丈夫だって。俺だってもう子供じゃない」
『お母さんがそっちに行こうか?』
「いいってば」
『そっちに頼れる人はいるの?』
「まあ、うん……。とにかく大丈夫。手続きお願いね」
『それはわかったけど』
「課題で忙しいんだ。また電話する」
 このままだと、あれはどうこれはどうと延々と話が続きそうなので、さっさと電話を切ってしまう。
 母親という生き物は、どうしてあんなにも心配性なのだろう。それがありがたいことだとはわかっている。実家を出てからは特に思う。世の中には多くの人間がいるが、真に伊月のことを大事に思ってくれる人はほんの一握りだ。
 深々とため息をつく。
「はあ……」
「お疲れ」
 扱いづらい癖毛の髪を撫でられ、不意に胸がきゅんとなる。いたわるような優しい匂いの引力に抗えず、陽介の肩に頭を預けた。彼はさらに伊月を甘やかすつもりらしい。
「僕のこと頼っていいんだよ。今日は遠慮しただろう。電話で呼び出してくれたっていいのに」
「……母さんの喋ってたこと、聞いてたのか?」
「聞こえたんだよ」
「忘れて」
「嫌。……ねえ、伊月」
「ん?」
「オメガであることは、イコール不幸だって、君は思ってるのかもしれないけど、僕はそうじゃないと思うよ。僕の友達や知り合いのオメガの人は、結構皆楽しそうにやってるよ。良いパートナーに巡りあって結婚している人もいる。人知れない苦労はあると思う。でも、彼らが君を絶望させるほど不幸には、決して見えない」
「……うん」
「君がどうしてそう思い込んでいるのかわからないけど、悪い面ばかりじゃなくて、いい面にも目を向けたらいいんじゃないかって思うんだ」
「いい面なんてある?」
「年金、何割か増しでもらえたと思う」
「先のこと過ぎ」
「うーん、あとは僕たちが結婚できること?」
「またそういうことを……」
「まあ、これから探せばいいさ」
「そうだな」
 なぜだろう。彼といると少しずつ前向きになれる。
 今日一番聞いてほしかったことも報告しておく。
「あと、今日は初めてクリニックに行ってきたんだ」
「そう。偉かったね。よく頑張ったね」
「……うん」
 肩を抱く腕の温もりは、昔からずっと傍にあるみたいに、しっくりと馴染む。心にたった波が、すっかり鎮まっていく。知り合ってまだほんの少ししか経っていないのに、おかしな話だ。
 男を頼ってしなだれかかって、こんなのまるきり女性の役回りだと思うのに、違和感は早くも薄れつつある。じわじわ確実に囚われていくのがわかっていながら、見て見ぬ振りをした。

 約束通り、陽介は伊月の性別変更の件を誰にも喋っていないようで、キャンパスライフはとても平和だ。
 学食ビッグ・マミーで格安ランチを食べたあと、伊月は友人の瀬上と、次の講義まで学部棟の壁沿いのベンチに座り、日なたぼっこしていた。そろそろ外に出ていると暑いが、貴重な梅雨の晴れ間を満喫でき、良い気分転換になる。
 瀬上は毎度おなじみの話題を振ってくる。もちろん、彼女作りの進捗状況についての話である。
「聞いてくれよ。カナちゃんがさあ」
「カナちゃんって誰だっけ?」
「この前の合コンで知り合った子だよ。お前、俺の話ちゃんと聞いてる?」
「んー、うっすら聞いてる」
「しっかり聞け。テストに出ると思って」
「はいはい」
 今度はこんなメンバーと合コンに行く、あの子とは駄目だった、この子とはいい感じ、連絡先を交換した、デートの約束をした、など毎回毎回同じようなことを言っているので、ついつい聞き流してしまうのだ。
 瀬上は恋愛経験など無い伊月に、熱心に語る。
「カナちゃんといい感じに進んでて、一回目のデートでキスできたから、今日辺りいけるかもしれないんだ」
「今日もデートなのか?」
「おう。あー、そわそわする」
 これからきっと「今日辺りいく」ためのシミュレーションが始まる。聞いているだけだと退屈なので、こちらから質問してみることにした。
「それって、カナちゃんのこと好きになったからやりたいの? それとも、やりたいからやれそうな子探したの? どっち?」
「え、うーん……。好きが先かやりたいのが先かってこと?」
「うん」
「どっちかって言うと後者だけど、デートとかしてるうちに好きになって、好きだからやりたいに変わった感じじゃないの」
 気まぐれに聞いてみただけだったのだが、案外真面目に答えてくれた。さらに踏み込んだ問いを投げかけてみる。
「付き合ってないのにエッチすることある?」
「ないわけじゃないけど」
「ふーん」
「なんだよ。やっと恋愛に興味が出てきたか」
「別にそういうわけじゃないよ」
 恋人でもないのに勢いだけで男と寝て、それをずるずる続けている自分は異常なのか、気になったのだ。瀬上も恋人ではないと人と関係を持ったことがあるようだし、それほど変わったことでもないのか。いや、問題は恋人ではないと人と寝たことというより(それも問題ではあるが)、それをずるずる続けていることの方だろう。近頃、暇ができれば、よく思い悩んでいる。
 付き合っていない状態で関係を続けたことがあるか、瀬上に問うのは踏み込みすぎだろうか。迷って言い出せず、スマホに逃げようとしたとき、強く吹いた風に髪が煽られ、視界を塞いだ。
 風に乗って覚えのある匂いが鼻をかすめる。髪を払って匂いの元を探すと、すぐに見つかった。向こうから中央芝生広場を突っ切って、こちら側に歩いてくる男女のグループの中に、陽介がいた。陽介の他は、男一人と女三人だ。
 唯一被っている授業ではいつも一人だったが、それを除き学内で見かける陽介は、いつも五人から十人くらいの団体でいる。メンバーはその時々によってバラバラで、たいていいつも女の子の数の方が多い。それも揃いも揃って美人ばかり。今日の子だって皆可愛い。楽しそうに何を喋っているのだろう。——あ、頭を撫でた。
 伊月の視線の先の存在に気づいたのだろう、瀬上は言う。
「取り巻きとハーレムって感じかね。俺たちは彼女一人作るのにこんなに苦労してるっていうのになあ」
「主語を複数形にするな」
「ほんとは彼女欲しいくせに」
「いらないし」

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