(2)引力

「絶対引かない?」
「もちろん」
「じゃあ、まあ、少しだけなら」
 お礼ができるチャンスかもしれない。お茶とお菓子でも出そう。実家から送ってきた梅干しや果物を一部持って帰ってもらってもいい。下心を発動させるつもりなら、自分の家に連れ込んだ方がやりやすいだろうし、さきほど下心は「なしでいい」と言っていた。
「ありがとう。うれしいよ」
 微笑んだ彼の顔は、どこからどう見ても紳士だった。

 伊月宅へやってきた陽介は、部屋を揶揄って笑うことはなかった。だが、別の件で呆れてはいるようだった。ワンルームの狭い室内をざっと見渡したあと、無知な子供を諭すように言う。
「君もさあ、もうちょっと危機感持った方がいいんじゃない? 僕みたいなの、そう簡単に信用しちゃ駄目だよ」
「へ?」
「弱みにつけ込んで一回やられてんのにさ。それとも、今日はオッケーって意味に取っていいの?」
 今日はオッケーというのは何が、というのは、さすがに聞かなくても理解できる。さっきまで、というか今も紳士面しているくせに、何を言い出すのだ。
「……いやいやいや、下心なしでいいんじゃないのか?」
「いいよ。いいんだけど、こうも簡単に部屋に入り込めたら、やってやろうかって気になってくるよね」
「えー。約束と違う。梅干しあげるから帰って」
「やだ。帰らない。梅干しいらないから帰らない」
 きっぱりと宣言し、陽介はベッドに腰を下ろす。彼は再度ぐるりと部屋を見渡したあと、自分の座っているベッドに目を留める。枕を取り上げたかと思うと、それに顔をうずめた。いきなりの奇行に面食らう。
「おい」
「……伊月の匂いがする」
「そりゃ毎日そこで寝てるからな」
「ベッドだけじゃない。部屋全体、ものすごく匂いが濃い。まさしく伊月の巣って感じ」
「匂い? 換気足りてなかったからかな」
「窓開けないで。この匂い好き。伊月の匂い」
「俺ってそんなに匂いする?」
 シャツの襟首から中を覗き、自分で自分を嗅いでみる。少し汗臭いかもしれない。朝、制汗剤を振ってはいたのだが、ライブ中に大興奮して、自分が思っている以上に汗をかいていたのだろう。
「シューしてこよう」
「いいってば。変な匂いを混ぜないで」
 洗面台に向かいかけた伊月の背中に、ベッドから立ち上がった陽介がぎゅっと抱きついてくる。首筋のあたりに息がかかる。鼻息? くんくんしているのか。
「ここから一番匂いするんだよ」
「やだ。放せよ。恥ずかしい。いい匂いさせてんのはあんたの方だろ。香水か何かなんだろうけど……」
 人が多く広い場所では、よほどくっついていない限りふわりと香ってくる程度だが、この部屋のような狭い場所では、二人きりになった途端、無視できないほど濃度が増す。部屋に入ったときから意識はしていた。
 ただでさえ強い匂いなのに、こんな至近距離から嗅がされればたまったものではない。匂いは記憶と密接に結びついている。この前、この近さから彼の匂いを感じた記憶とも。
 もぞもぞ動いて逃れようとするも、放してもらえない。
「香水はつけることもあるけど、普段はつけてない。僕自身の匂いだよ」
「こんな匂いが体臭なんてあり得ない。甘くて頭がぼーっとしてきてぞくぞくして……」
 月曜日のあの夜もそうだった。時間が経つほど濃く甘ったるくなる匂いに、理性を溶かされ乱された。性別変更せねばならないということから自暴自棄になっていたのもあるが、この匂いがなければ、ほぼ初対面の男と寝るなどという大胆で軽率な行動には至っていなかったはず。
 陽介の腕に力がこもる。苦しいはずなのに、どうしてだろう、心底嫌だとは思えない。鼓膜を震わせる声は、いつもより低く感じる。うっとりなんてしてはいけないのに。
「君もそうだよ。初めて見かけた時から魅力的な匂いだった。伊月はいつ気づいた?」
「俺はこの前の月曜日に感じたのが最初」
「初めて発情期が来た日だね。発情期を迎えられる身体になって、オメガとして一人前になったってことじゃない?」
「どういうこと?」
「僕としても、まだ腹を決めかねているところがあってさ。話すの、まだ待ってもらっていい?」
「気になるよ。この匂いを嗅いでたら、もうどうなってもいいって、全部差し出してもいいって、手に負えない衝動がわくんだ。どうして? 身体でもなく感情でもなく、匂いに支配されてるみたい。こんなのおかしい。怖い」
「さあ、どうしてだろうね」
 前にしたように、彼の指が唇を撫でる。それだけで腰の辺りがぞくぞくするというのに、追い打ちで濡れた舌が耳を舐めた。ずるい。思い出してしまう。身を任せることで何を得られるかを。
「匂い、ちょっと強くなったね。期待してる?」
「そんなことない……」
「今日はやめとこうと思ってたのにな。この巣の匂いは予想外だったな。ちょっと首回して僕のこと見て」
 身体が勝手に言われたとおりに動く。彼の手が顎をあげさせ、上から唇が覆い被さってくる。舌が押し入ってくるのも、抗議を挟むことなく受け入れた。ほら、おかしい。「下心あり」は嫌だったはずだろう。
 キスを続けながら、シャツの裾から彼の手が中に入り、乳首を軽くつままれる。
「あっ……ん」
「可愛い声。清香が見てるのに」
「だって……」
「これは?」
 普段は服で擦れても何ともないのに、何倍も過剰なほど敏感になった部分が、こねたり先を引っかいたりされると、じんわりと痺れる。これが「気持ちいい」なのだということは、前回で覚えた。
 意図せず、欲を滲ませた熱っぽい目で、彼を見つめてしまう。
「駄目だよ。嫌だったら、ちゃんと拒否しないと」
「嫌ってわけじゃない……」
「また抱くよ。いいの?」
「……」
 よくはない、はずだ。恋人でもないのに、こんなこと。でも、またこの匂いに溺れたい。また「気持ちいい」がたくさんほしい。期待感に心臓が高鳴る。
「……いいよ」
「じゃあ、遠慮無く」
 抱え上げられてベッドに放り出される。陽介は上に乗りかかってきて、またキスをしてきた。何かに突き動かされて、そうせざるを得なかったかのような、慌てた動作だった。先ほどの話が本当だとすると、彼も伊月の匂いに抗いがたい衝動を感じているのか。
 シャツをたくし上げ、露わになった胸に彼の顔が近づき、熱い舌がねっとりと小さな突起を包み込む。声を漏らさないために、伊月は咄嗟に口を押さえた。
「声出せばいいのに」
「このマンション、同じ大学の人いっぱい住んでるんだよ!」
「今度からはうちでしようね。あそこ、結構防音しっかりしてるから」
 今度ってあるのか。あるだろう、多分、ここでまたもつれこんでしまえば。ずるずると関係が続く予感がする。拒めないのは匂いのせいだ。全部そのせい。

 翌々日。学校終わりで、オメガ専門クリニックに行った。近所だと知り合いと会うかもしれないので、家から電車で二十分ぐらいのところを選んだ。保険証はまだ性別がベータのままだが、切り替え期間でもクリニックにかかれるように、役所で性別変更の証明書をもらっていた。
 こじんまりとした明るい雰囲気のクリニックで、診療時間内のアルファの立ち入りは厳禁らしく、医師やスタッフにもアルファはいないという。それ以外は普通の病院と変わらないように見えた。
 まずは看護師に事情を話し、発情抑制剤についての説明を聞く。抑制剤は月に一回の注射と発情期予定期間中の錠剤の服用でセットらしい。すでに発情期になってしまったという差し迫った状況で使う緊急抑制剤とは違い、通常の発情抑制剤の注射はクリニックで受けることになるので、ここには月に一回通うことになるわけだ。
 今日さっそく注射を受けるらしい。月一の注射は忘れる方が多いので注意してくださいと言われた。そういえば、発情期のとき助けてくれた人も言っていたか。行っておいた方がいい、と。
 発情期が近づいたときの兆候や対処方法、緊急抑制剤の打ち方も習った。緊急抑制剤はオメガならどの家にでも常備してあるものらしい。伊月の実家にもあったはずだが、親や姉が隠していたのか目にしたことはなかった。
 最後に、発情期になることによってアルファに襲われることの危険性について、何度も念押しされた。周りにアルファのいる状況で発情期が来てしまうと、性的被害に遭う可能性が非常に高い。
 あの時助けてくれた男も「アルファ近づくな」と何度も言っていたし、陽介も伊月が外で発情期になったと聞いて、伊月の身を案じてくれた。いまいち自分の身に起こったことの重大さがわかっていなかったが、あの時どれだけ危ない状況であったのかがやっと理解でき、恐ろしくなった。
 姉がオメガだったというのに、ずいぶん知らないことが多い。姉はずっとこんな苦労をしてきたのかと、自分が同じ立場になって初めて理解できた。
 オメガにとっては基礎知識らしい説明が終わると、医師の診察を受け、次回の大まかな発情期予定期間を割り出してもらう。会計の時に緊急抑制剤を渡された。
 初めてのクリニック受診も「不安なこと」の一つだったが、無事に一人でこなした。帰り道、よく頑張った、とまた誉めてほしいという思いがわく。ご褒美のチケットがほしいなんて言わない。ただ言葉がほしい。
 駅から電話してみたが、陽介は出ない。まだバイト中なのだろう、仕方ない。いや、こんなのは甘えすぎか。やめておこう。話すのは次に会う時でいい。次はいつ会えるのだろう。

 クリニックから自宅に帰ってくる。静けさが嫌で、バニバニのアルバムを聞きながら、明日提出期限の課題を終わらせた。それから、スーパーのお惣菜と家で炊いたご飯という夕食を取る。お供はライブDVDと迷ったが、清香主演の映画『とろける月』を選ぶ。
 主人公は貧しい家で苦労して育ったオメガの女子学生。心優しい世間知らずのお坊ちゃんアルファと恋に落ちるという、典型的なシンデレララブストーリーだ。
 お坊ちゃんの両親は、息子をアルファのお嬢様と結婚させたがっており、二人の仲をたびたび妨害してくる。何度も別れの危機がありながら、それでも彼らが離れなかったのは、自分たちの出会いが「運命」だと信じていたから。
 アルファとオメガの間には、まるで神様に用意されたかのような、奇跡的な運命の出会いが存在するのだと、作中では語られている。シンデレラと同じ、ロマンチックなお伽話だ。
 名作は何度見たって色あせないはずだが、今日は内容が頭に入って来ない。耳はもっと他の音を求めている。今朝も大学で聞いたはずの声が、また聞きたい。リモコンの停止ボタンを押す。こんな状態で見たら、清香に申し訳ない。
 スマホを手に取る。もう一度架けてみようか。どうしよう。発信履歴の画面を意味なく上下にスクロールしていると、電話の着信を知らせる画面に切り替わった。陽介からだ。即座に応答する。
「もしもし」
『早押しクイズみたいだね』
 指摘され、まるで自分が彼からの電話を今か今かと待ち構えていたようだと思われたかもしれない、と気づく。
「え、あ……。スマホいじってたとこだったんだ。なに?」
『なにって、君から着信があったから架け直したんだよ。どうしたの』
「バイト終わった?」
『うん。今から帰るとこ』
「別に何か用事があったわけじゃないんだ。ただ」
『あなたの声が聞きたかっただけ?』
「そんな小っ恥ずかしいことじゃない」
『そっかー。じゃあいい? 切るね』
 電話の声はいつもより素っ気ないように感じる。今から帰るところ、ということは、まだアルバイト先にいるのだろう。早く仕事場を出たいに違いない。

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