伊月もハーレムの一員ということだろうか。そう考えると、胃の辺りがずしんと重くなる。昨日も彼の家に泊まり、今朝はそこから直接大学に来た。毎日ではないが、先週は四回泊まった。先々週は五回。その前は……、たぶん同じくらい。気持ちを置き去りにしたまま、身体の関係ばかりが深くなる。
相手が男だからどうだなんて躊躇いは、とっくに消えた。あれだけ関係を持てば、自分は男とでも寝られる人間なのだと認めざるを得ない。不安なのは、このまま続けていていいのかということだ。
いいか悪いかで言えば、悪いに決まっている。優柔不断なところがあるのは昔からだが、ここまでとは自分でも思っていなかった。
電話から異変を感じて会いに来てくれたり、両親に性別変更の件で電話するとき付き添ってくれたり、眠れないとき眠れるまで話に付き合ってくれたり、悪い夢を見たときなだめてくれたり、助けてほしいときに手を差し伸べてくれるから離れられないのだ。
なぜここまでしてくれるのか聞いたことがあるが、「ただの下心だよ」としか言わない。発散させる先があんなにあって、やりたいだけというのはないと思うが。伊月がそう思いたいだけなのだろうか。セックスがしたい相手なら、誰にでもあんなに優しくするのだろうか。
彼の情報を初めて聞いたのは瀬上からなので、少しだけ探りを入れてみることにする。
「あの人が遊び人って、この前言ってたじゃん。ほんとなのかな」
「サークルの先輩に聞いたけど、見るたびたくさん女の子引き連れてるんだってさ。アルファだけが一夫多妻を認められていた時代もあったみたいだし、アルファはいっぱい女を侍らすのが習性なんだろって、その先輩は言ってた。うらやましいよなあ」
今日は約束していないから、あの中の誰かと? もしくは複数? ——それは面白くない。とても、すごく、ひどく。ああ、胃が重い。ムカムカする。二人きりでくっつき合っているときは、あんなに安心できるのに、今はストレス製造機のようだ。
あまりに凝視しすぎてしまったのか、陽介はふとこちらを向く。逸らす前に目が合ってしまった。呑気に手を振ってきたので、小さく舌を出して応戦してやった。わいわい明るい一団は、モテない二人の前を通り過ぎていく。
瀬上はこちらに身を乗り出してくる。
「え、知り合いだったの?」
「ああ、まあ、バニバニ繋がりで。この前ライブで一緒になったんだ」
嘘ではない。ドルオタという噂が広まってモテなくなればいいと思った。リア充に対するささやかな嫌がらせだ。
「あの人も好きなの? なんか意外」
「だよな」
「あ、俺、ちょっと悪口っぽいこと言っちゃったけど、本人には」
「言わないよ。そんなに親しくない」
言ったところで、陽介はそれをどうこう思うタイプではないだろう。きっと慣れっこだ。
嫌な気分を引きずったまま、その日は過ごすことになった。
その日はアルバイトのある日だったので、帰りが遅くなった。
コールセンターで通信販売の電話注文受付をしているのだが、今日は特にクレームが多くてへとへとだ。
ご相談窓口は別にあるので繋ぐと言っても、怒り心頭の客には通じない。止まらないクレームを心を無にして聞いていると、社員からは、注文の電話が詰まっているから早く相談窓口へ繋げと怒られる。繋げるものなら繋ぎたい。
クレームが無くたって、ずっと電話は鳴りっぱなしの喋りっぱなし。電話が切れたら取り、切れたら取りの繰り返し。それだけでてんてこ舞いなのに、敬語の使い方や入力がおかしければ、いちいち社員から注意を受ける。業務を正確に淡々と捌いていくベテランのおば様たちを心から尊敬する。
年中空調が効いているし、座っていられるし、割のいいバイトだと思っていたのだが、楽な仕事などないものだ。
駅から自宅までの道のりを、とぼとぼと歩く。陽介の住むマンションの前に差し掛かり、なんとなく部屋の辺りを見上げる。行きたいと思ったわけではなく、本当になんとなくだ。
驚いたことに、ベランダには本人が立っていた。陽介は大きく手を振り、叫ぶ。
「待ってて!」
室内に消えたかと思うと、しばらくしてマンションから走り出てきた。パジャマにしているTシャツと短パン姿だ。
「伊月……。メッセージ見てくれてないんだもん。どうしたの?」
「ああ、電源落としたままだったかも」
バイト先では、スマホは電源オフにし、ロッカーに入れておくよう徹底されている。
彼はマンションの入り口を手で示す。
「少し話がしたいなと思って。来ない?」
「今日はクレームいっぱい来て疲れたから……」
あの部屋に行けば、またいつものようにお泊まりコースになるのだろう。今は色っぽいことをする気分にはなれない。美人に纏わりつかれる陽介の姿と瀬上から聞いた話が重しのようになり、あれからずっと胃にムカムカを感じたままだ。
だが、彼は引き下がらない。
「少しだけでいいから時間ちょうだい。ね?」
「ほんとに今日は嫌だ」
「お触りなしで話すだけなら?」
「……やだ」
「うちに来るのが嫌なら、ぐるっとその辺を散歩しながら話そう」
こういうとき、この人はとても強引になる。疲れているのに散歩させられるのは嫌なので、渋々頷いた。
「わかった。部屋行く。でも、話が終わったら帰るから」
「それでいいよ」
手を引かれて部屋まで連れて行かれた。
部屋に入ると、陽介は冷蔵庫を開ける。
「晩ご飯は?」
「バイトの休憩時間に食べた」
「そう。飲み物はどうする?」
「いい。水持ってる」
「コーヒーは? リンゴジュースもあるよ」
「いらない」
荷物を置き、カーペットにどかっと腰を下ろす。言いたいことがあるならさっさとしろ、という意味を込めて陽介を睨む。自分の家だというのに、彼は肩身が狭そうに、伊月の向かいに正座した。
しばし無言の時間が続いた後、彼から口を開く。
「……友達だからね?」
「何のこと?」
「今日、学部棟の脇ですれ違っただろう。すっごく嫌そうな顔してこっち見てたよね。あれくらいで怒んなくてもいいかなっていう」
「嫌な顔なんてしてない。ああ、いるなってぐらいで」
「そう? 言いたいことあるんじゃないの」
「ない。勝手にすればいいんだ。今日だって……」
「今日だって何?」
あの女たちとさっきまで遊んでいたんじゃないのか。伊月がバイトに励んでいる間に。
部屋に彼以外の匂いは無いようだが、場所がここだとは限らない。
「……言わない」
これではまるで嫉妬しているみたいだ。下心と甘えで繋がっているだけの関係なのに。自分のシャツの裾をぎゅっと握る。皺が寄ったって気になるような服ではない。
陽介は深々と嘆息し、足を崩して膝を抱える。
「それなら、ちょっと僕の愚痴に付き合ってもらっていいかな」
「……なに」
「オメガほど大変ではないと思うけど、アルファも色眼鏡で見られることが多くてね。例えば、友達と歩いているだけで、たくさん女を侍らせててけしからん、とか」
「……」
瀬上が言っていたことそのままで、内緒話をしていたのを見透かされたような後ろめたい気持ちになる。
「アルファってだけで何もしなくても女が寄ってくる、遊び人、取っかえ引っかえ、ハーレムでうはうは、アルファはいいなあ、うらやましい、ずっと色々言われてきたよ。否定したって信じてもらえないから、ムカついて逆に煽るようなことをしてた時期もあって、それがいけなかったのかな。煽られて激昂する馬鹿を見るのは楽しかったけど、こういうとき困るよね」
「……煽ってどうする」
「だよねー」
「嘘は噓なのか?」
「最初だけ本当かな。次々と色々来るには来るけど、一度に付き合うのは一人だけだし、浮気はしないよ。余計な誘いはきっぱり断ります。まあ、当たり前のことだよね。アルファだって色んなタイプがいるのに、十把一絡げにされるのは嫌だよね」
陽介は抱えた膝の上に紙パックのリンゴジュースを置き、ストローで吸う。人が飲んでいると美味しそうに見える。もらっておけばよかったか。
彼の言葉は伊月を安堵させた。彼の言うことを信じたがっている自分がいた。ハーレムの一員より、一対一の関係の方がいいのは当然だ。しかし、気懸かりが消えたわけではない。
「でも、合コンで女子を根こそぎ持って帰るって……」
「どこで聞いたの。あのお友達? あれは煽りの一貫だよ。男どもの歯ぎしりが聞こえてきそうで楽しい」
「……ひっど」
「あと、勝手についてくるパターンもあるね。でも、部屋まで入れないよ。しつこい子がいるときはファミレスあたりでちょっとお茶して解散。全部相手にしてたらキリがない」
「うわあ、自慢だ」
「ただの事実」
「初めてしたときも結構強引にぐいぐい来たから、いつもあんな風にガツガツいってんのかと」
「そんなわけないじゃん。こっちから強引に迫んなくても、向こうからいくらでも来るんだから。あんなのは……、君だけ」
珍しく生真面目な目で見つめられ、動揺が心臓を騒がせる。とても見ていられなくて、絡んだ視線をこちらから外す。君だけだと——伊月だけだと彼は言ったのだ。
「うそ」
「ほんと。信じてほしいな。君の心配は的外れってこと」
「心配なんてしてない」
「なら、どうしてあんなにむくれてたのか説明してくれる?」
「バイトで客のクレームばっかり聞いてうんざりしてるんだ」
「素直じゃないね」
「うるさい」
どうしよう、嬉しい。みっともない表情になってしまいそうで、伊月も真似して膝を抱え、半分顔をうずめる。
嬉しい。嬉しいが、喜ぶ前にすることがあるだろう。
「……心配とか、全然そんなんじゃないけど、ごめん」
「何が?」
「さっきの話、鵜呑みにしてた。性別差別とか偏見とか、憎いと思ってたはずなのに、自分もやってたんだなって」
オメガに対する人々の歪んだ目が、姉を苦しめた。アルファへの偏見だって、広い括りで言えば同じことだ。恐る恐る顔を上げると、彼は小動物でも見るように微笑ましそうにしていた。
「伊月はほんといい子だねえ」
「そんなこと全然無い。考えてみれば、アルファってだけで無条件で優秀だって決めつけちゃうところはあるよな」
「それもつらかったかな。元々僕は大して頭も運動神経もよくなくて、顔と要領の良さだけで乗り切ってきたようなところがあるから。アルファのくせにベータより成績が悪い。アルファのくせに足が遅い。笑って流してたけど、結構グサッときたな。アルファのくせに歌が下手って言われたこともあるよ。それもう性別関係ある?って感じ。まあ、歌は猛練習して、今はカラオケ採点で高得点叩き出すけどね」
「あんたもそれなりに苦労してるんだなあ」
「男より女の子の方が世間の目は厳しいんじゃない。アルファの女の子はオメガの男の子と同じ両性だから。うちの下の妹はアルファなんだけど、半分は男だって言われて、クラスの女子グループに入れてもらえなかったりするって。フリフリのお洋服が大好きな、根っからの乙女なのにね」
「そっか……」