(2)引力

「うん、まあ、そうなんだけど」
 伊月の煮え切らない態度に、陽介は大仰にため息をつき、洗い物途中のスポンジを放り出した。
「……最低。誕生日なのに」
「誰の?」
「僕の! 決まってるだろう。君の大好きな清香からも夏穂からもプレゼントもらったよ」
「え、俺は何もない」
「いいんだよ。君はバイト代を清香に貢いでお金無いのに、何か買わなくちゃって悩ませるの可哀想だから言わなかった。僕は君とデートして買い物して、一緒にご飯作って食べられたら、それでよかったんだ」
 そうか、だから夏穂は仲間に入りたいと言ったのだ。兄の誕生日を一緒に祝いたいから。でも、陽介は断り、伊月と二人で過ごそうとした。彼のプランを最後に台無しにした伊月は、もしかしてとてもひどいことをしたのか?
「……なんかごめん」
「謝られたって嬉しくないよ。君は僕のこと好きじゃないって言った」
「好きじゃないとは言ってない。前に、ちゃんとしたことは改めて言うって言ってたから、その時に付き合おうって言われるんだと思ってた。それまでは好きかどうか返事する必要はないって」
「なんなの、その頓珍漢な勘違いは」
 頓珍漢と言われ、カチンとくる。陽介の常識は伊月の常識ではない。これでも伊月だって随分悩んだのだ。恋愛する機会が掃いて捨てるほどある男に、好きな子と手を繋いだ経験もなかった伊月の気持ちは、到底理解できないだろう。
「仕方ないだろ! 誰かと付き合うってしたことないんだから。だいたい、なんで親切にしてくれるのかって聞いたときに、あんたは下心からだって言ってたじゃん。やりたいだけなのかなって、ずっと悩んでて」
「なんでそうなるの? 君に好きになってもらいたいっていう下心だよ」
「わかりにくい! そうならそうと言ってくれないとわかんない」
「君が鈍感で否定的すぎるんだ」
「察しがいい子がお好みなら、もっと色々経験のある百戦錬磨の子にすればいいんだ。俺は初めてだって最初に言ったぞ。わかってて引っ張り込んだのはそっち」
「こんなに察しが悪いなんてさすがに思わなかったんだよ」
「そうかいそうかい。どうせ全部俺が悪いんだろ!」
「そうは言ってない」
「言ってる」
 両者睨み合う。これまでこんな風に言い争いをしたことなんてなかった。お互い腹を割って話してこなかったから。
 このまま続けていると、ひどい喧嘩にエスカレートしそうだ。冷静になった方がいい。彼を嫌いになったわけではないし、傷つけたいわけでもない。深呼吸してから、お出かけ用のボディバッグを肩にかけ直す。
「……ちょっと外出てくる」
「帰るの?」
「ケーキでも買ってくる。駅前に小さなケーキ屋さんあったろ」
「僕も行く」
「ごめん。一人で頭の整理がしたいんだ」
「それじゃあ、このまま僕と付き合うんならここに戻ってきて。付き合うつもりがないなら自分ちに帰って」
「二択?」
「友達から始めましょう、なんて生温い答えは受け付けないから」
「……はーい」
 どうせ今日交際申し込みをされる予定にしていて、それに答えるつもりではいたのだ。答え方の形式は違うが、同じことだ。

 マンションから駅への道を、とぼとぼと行く。
「怒ってたなあ」
 そんなに怒ることないのに、と思うが、自分が彼の立場だったら、同じように怒りが湧くかもしれない。立ち直れないくらいショックを受けるかも。恋人だと思っていた人に、恋人だったの、なんて言われたら。
 デートして身体の関係もあるのなら、付き合っているとみなすのが普通なのだ。ごちゃごちゃ考えない方がよかった。でも、好きだから付き合おうと一言でも言ってくれていたら、こんな勘違いしなかったのに。
「てか、好きなんだよな?」
 よりどりみどりなのに、周りにいる「女友達」だってあんなに可愛いのに、なぜわざわざ伊月を選ぶのか謎だ。地味だしダサいし天パだしドルオタだし。唯一肌艶はいいという自信はあるが、そんなの欠点に掻き消されてしまう程度のことだろう。たくさんいる中に毛色の違うものも混ぜたいということならわからないでもないが、一度に付き合うのは一人だということだし。
 世の中には熟女好きだとかB専だとかデブ専だとかいう言葉があるから、陽介も趣味が特殊なのかもしれない。ひとまず無理矢理自分を納得させる。
 付き合うのか付き合わないのか。いろいろなことを取っ払って、自分の気持ちだけで言うと、付き合いたいのだとは思う。面と向かって交際申し込みをされたら、確実にイエスと言っていた。
 しかし、彼と付き合いたい理由というのは、寂しいとき頼れる人をなくしたくないというだけではないのだろうか。それだけで付き合うのは、利用するみたいでそれこそ不誠実だと思う。
 途中で道を逸れ、大学の方へ向かうことにする。ケーキ屋で買い物をしたら、生ものは長時間持ち歩けないので、その前にまずはどこかゆっくり考え事が出来る場所に行きたい。
 土曜日の夕方のキャンパスは、あまり人気が無く静かで、考え事には最適だ。中央芝生広場のベンチに腰をかけ、空の雲を目で追っていると、声をかけてきた男がいた。
「あれ、どうしたの?」
 瀬上だった。実家住まいで通学に時間がかかるらしいのに、土曜日まで大学に来ているのはめずらしい。
「ん? いや、家近所だから」
「近所だから大学に来るのかよ。どっか遊び行けよ」
「遊びに行って帰ってきたんだよ。お前は?」
「サークルでフットサルの試合やってた。これ、昨日お前に話したよな?」
「そうだっけ?」
「ほんと人の話聞いてないよな」
 思い返してみれば言っていたような気もするが、昨日は今日のデートのことで頭がいっぱいになっていて、話半分で聞いていたのだと思われる。
 そうだ。伊月の今の悩みを、瀬上に相談してみるのはどうか。一人で考えていたって、同じところをぐるぐる回っているだけで、一向に答えは出ないかもしれない。モテないとはいえ、瀬上は伊月より確実に場数を踏んでいるだろう。
「ちょっと聞きたいことあるんだけど、時間いい?」
「悪いな。打ち上げあんの。俺は図書館に用事があって離れただけで、すぐ合流する」
「ちょっとだけ。十分ぐらい」
「切羽詰まった感じ?」
「かなり」
「ん、じゃあ、まあ、十分なら。幹事にメールしとくわ」
「ごめんな」
 瀬上は重そうなスポーツバッグを地面に置き、ベンチの隣に座った。スマホでメッセージを打ちながら問う。
「で?」
「もしもの話だよ。すごくモテていつも女の子が周りにいるような男に、付き合いたいって言われたら、お前どうする?」
「……は? 男に言い寄られてんの?」
「もしもの話だよ」
「断るに決まってるだろ。男だぞ」
「でも、一緒にいて安心するし、弱ってるとき傍にいてくれるし、頑張ったら誉めて優しくしてくれるし、ライブに一緒に行ってくれるし、顔良いし、すっごくいい匂いがするんだぞ」
 瀬上は顔を上げ、めずらしい伊月の早口に目を丸くしていた。
「……おう。でも男なんだよな? 男とはキスもセックスもできないよな。じゃあ、付き合えないよな」
「できたら? それで、すごく相性が良かったら?」
「やったのかよ……」
「もしもの話だっつってんだろ」
「優しくしてもらえてセックスもいいんなら付き合えば?」
 こちらは真剣だというのに、瀬上は投げやりだった。どうでもいい、勝手にしろと言わんばかりだ。しかし、今のところ相談できそうなのは彼しかいない。
「そんな軽いノリで付き合ってもいいものなのか?」
「相手も好きでお前も好きなら、なんか問題あんの? 結婚するわけじゃねえんだから難しく考えないで、とりあえず付き合ってみれば?」
「俺、好きなのかな。その、恋愛的な意味で。優しくされて好きだと思い込んでるだけなんじゃないかな」
「めんどくせえなあ。お前、俺に相談するっていう(てい)だけど、付き合うべきだって言って背中押してほいいだけだろ? いくら優しくたって、好きじゃなけりゃ男と付き合いたいってならねえんじゃね。……ってなんだ、この女子高生みたいな会話」
 瀬上にしては鋭い指摘だと思った。確かにそうかもしれない。そうか。伊月は陽介が好きなのか。好きという気持ちがあるなら恋人になっても不誠実にはならない。よかった。別れないで済む。この関係を続けられる。
 安心して、随分心が軽くなった。帰ろう。ケーキを持って彼のところへ。
「……ありがと。ものすごく参考になった」
「自己責任でな。何かあっても俺は知らん」
 どっこいしょ、と瀬上は立ち上がる。
「ということで、俺は行く。飲み会に行く」
「俺も駅まで行くんだ。一緒に行こ」
 瀬上と連れだって行く。急ぎ足の瀬上に合わせたので、到着は早かった。
 駅南口の前の横断歩道を渡ったところに、目指すケーキ屋はある。南口前で、瀬上とはお別れなのだが。
「なあ、あと五分だけ駄目?」
「なんだよ」
「ケーキ一緒に選んでくれない?」
「好きなの買えば? てか、何のために? 彼氏んちへの手土産?」
「手土産っていうか、今日は誕生日だから。買ってくるって言って出てきたんだ。あ、友達にな」
「はいはい」
「やっぱホールがいいかな。でも、二人だと食べきれないよな」
「……わかったわかった。俺も入ってやるから」
 なんだかんだ言って、瀬上も面倒見がいいのだった。
 こじんまりした店内には、近所の奥様らしき女性二人連れの客がいた。空いた場所からショーケースを覗く。ケーキというのは特別な日の幸せな家族の記憶と結びついている。色とりどりの美しい菓子は、見ているだけで気分が昂揚してくる。
 誕生日は特別な日だ。妹より伊月と過ごすことを選んでくれたのだから、これから少しでも挽回しないと。
 瀬上はショーケース上段のホールケーキを指す。
「五号サイズにすれば? 小っちゃいから二人でもいけそう。四分の一にして、今日二切れ、明日二切れ食べればいいんじゃね」
「あ、こっちのタルト美味しそう」
「今お持ち帰りできるホールはイチゴショートだけって書いてあるぞ」
「タルト……。季節のフルーツとベリーと二種類ある」
「俺はレアチーズケーキ派」
「それもいいなー」
 どれもこれも美味しそうだ。切り売りのケーキを四種類買っていって、食べ合いっこするのも楽しそうだ。でも、ホールケーキにはプレートと蝋燭という鉄板のお誕生日アイテムがついてくる。誠に悩ましい。
 ここは伊月が何を食べたいのかではなく、陽介がどうしてほしいかを考えるべきだ。よりお誕生日っぽさを演出できるホールケーキのほうが、やはり喜んでもらえるだろうか。
「やっぱこっちにしよっかなー」
「俺はぶっちゃけなんでもいいんだけどねー」
「瀬上だったらどれがいい?」
「レアチーズケーキ。蝋燭刺さったホールケーキとか恥ずかしすぎる」
「えー。迷わせるようなこと言うなよ」
 ショーケースの中のホールケーキと睨めっこしていると、背後でドアベルが鳴る。新しい客だろう。選ぶのに夢中でそちらに目を向けることはないまま、その客も商品を見られるよう脇に避ける。

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