(2)引力

「君は運命って信じる?」
「運命? 運命……」
 突然話が変わった。それにしても、漠然としすぎた質問だ。
「清香の映画で使っていたのと同じ意味だよ。運命の出会い、運命の人、そういうの」
 アルファとオメガの間には、まるで神様に用意されたかのような、奇跡的な運命の出会いが存在する、映画の中ではそう語られている。主人公はずっとアルファの『運命の人』を探していた。
 信じるも何も、あれは映画の話だろう。質問の意図がよくわからない。
「うーん、フィクションの中以外でそういうこと言う人は、すごくロマンチストなんだなって思うよ」
「アルファとオメガの運命の結びつきについて聞いたことは?」
「『とろける月』に出てきたよな。いかにも少女マンガ的で女の子が好きそうだなって思って見てた」
「フィクションだと?」
「そうだろ?」
 あんなの、運命の赤い糸の発展型のようなものだろう。すぐに真相を知れるものだと思っていたのに、関係の無いような話だ。
 熱いうちに食べて、と言われ、聞きながら食事を進める。
「それがそうでもないんだよね。アルファとオメガの間には、(つがい)になるべくして生まれたような、特別に相性のいい組み合わせが存在する。ベータとして生きてきた君には馴染みがないかも知れないけど、アルファやオメガの間では普通に言われていることなんだ。まあ、ほとんど皆都市伝説だと思ってて、ティーンの女の子ぐらいしか本気にしてないけど……。でも、現実に存在しているんだよ。運命の出会いをした人は」
「……おう」
「信じられないよね? 何言ってんだって感じだよね? 僕だって思ってたよ。でも、色々調べていく中で、運命の人に出会った体験談がネットでいっぱい出てきたんだ。ほぼ全部に共通しているのが、相手に特別な匂いを感じたってこと。お互い匂いで引かれ合うんだ。それはもう自分の意思ではどうしようもないくらいの強さでね。その匂いを認識できるのは、世界で唯一運命の相手だけで、自分でも自分の匂いはわからない。それで……」
 そこで、彼はお茶を飲んで一呼吸置き、再び口を開く。
「ネットだけの情報だったら、いまいち信用できないから、経験者に実際に会ってみようと思った。先輩のツテを辿って、会ってくれるっていうカップルを見つけて、色々話を聞いた。その人たちも言ってた。相手からすごくいい匂いがして、それで運命の人だってわかったって。……僕が何を言いたいのか、そろそろわかってきた?」
「ちょっと待って。頭の整理を」
「はいはい」
 運命の人。アルファとオメガ。陽介はアルファで、伊月は変転だがオメガ。陽介からはとてもいい匂いがして、彼の方も伊月からいい匂いがすると言っている。運命の人とは匂いで引かれ合う……。
「……つまり、俺たちは運命なんだって、そういうこと? え、なにそれ」
「僕はそういうことなんだって思ってる。だから、気軽に声をかけられなかった」
「なんで? 運命だっていうんなら、早く仲良くなりたいって思わない?」
「最初に言ったよね。アルファとオメガの間には、番になるべくして生まれたような組み合わせが存在するって。つまり、運命の人だって認めるってことは、番になって一生添い遂げるって決めるのと同じようなものだよ。そんなの、なかなか腹を決められなくても仕方ないだろう?」
「番……? 添い遂げる……?」
 頭の整理が追いつかない。番って何だっけ。添い遂げるってどういうこと?
 首をひねったまま固まる伊月に、陽介はそこからかと言いたげだった。出来の悪い生徒に教えるように、根気強く話を噛み砕いていく。
「さすがに番はわかるよね?」
「えっと、アルファとオメガの夫婦のこと?」
「それはそうなんだけど……。ベータの認識ってそんなもの? 婚姻届を出して夫婦になることが番になるってことじゃないよ。特別な契約が必要なんだ」
「魔方陣で召喚して魂を捧げる的な」
「悪魔じゃないよ。茶化さないで」
 番とは、アルファとオメガの間にだけ成立する原始的な結婚のようなもの。これはベータでも一般常識だ。その結婚の「契約」の方法というのが、発情期中にオメガの首筋、フェロモンが分泌される臭腺のあたりをアルファが噛むこと。
「吸血鬼……?」
「血は吸わないよ。噛んでる間にアルファの犬歯からナントカっていう物質が分泌されて、オメガの身体に流れ込む。それがオメガと、そしてアルファ自身の体質も変えてしまうんだ」
 番になることで、オメガが発情期になっても、番以外のアルファを無差別に誘うことがなくなり、アルファは番以外のオメガに誘惑されなくなる。番同士は精神的にも深く結びつき、番以外との性行為は身体が受け付けなくなるし、番と引き離されるようとすると非常に大きなストレスに苛まれることになる。
「紙一枚で繋がってる結婚より、よっぽど重いってこと。しかも、一度番が成立すると、解消する方法はありません。離婚は無し」
「ハードすぎる……。進んで番なんてなるやついるの?」
「もちろんいるよ。僕が話を聞いたカップルも番同士で、さらに婚姻届を出す方の結婚もしてた。絶対に別れないという確信があったら、番になった方が都合いいことが多いんだって」
「へえ。あんまり想像がつかないな」
 陽介が真面目に喋っているというのはわかるから、噓を言っているわけではないと思う。だいぶオメガのことを勉強したつもりでいたが、ベータには立ち入れないアルファとオメガだけの世界があったとは。
 彼は箸を置き、肩が触れあうくらい身体を寄せた。伊月の顔を覗き込んでくる。
「まあ、聞いたばっかりじゃ仕方ないか。君とのことは運命なんだって、僕は思ってる。君に番になれって強要するつもりはないけど、ゆくゆくはそういうことを含めた付き合いを考えてほしい」
「……本気?」
「冗談でこんなこと言わない。頭おかしいと思われる」
「……」
 『ちゃんとしたこと』は想像をはるかに超えてちゃんとしていた。こんなのプロポーズじゃないか。
 プロポーズ——、やっぱりしっくりこない。番とか夫婦とか結婚とか添い遂げるとか、現実離れしすぎているように思うのだ。彼の言葉をしっかり受け止めて答えを出すには、時間が必要だ。
「……ちょっと、すぐに答えられるようなことじゃない」
「そうだね。それはまた追々。とりあえず、恋人の件はオッケーでいいよね」
「うん。もちろん」
「……よかった」
 間近で目が合って見つめられ、これは来ると察せられたので、持っていたカップを自分からテーブルに置く。予想通り、彼の手が耳の辺りに添えられ、唇が重なった。
 ちゅ、ちゅ、と短いキスを何度もされる。ついては離れ、ついては離れ、だんだん湿り気を帯びてくるその感触にぞくぞくし、条件反射のように身体が次を期待する。
 シャツの裾から彼の手が侵入してこようとしている。このままセックスに持ち込みたいらしい。まだいけない。肝心の誕生日祝いが終わっていないのだ。
 日に日に性的なスイッチが入るのが早くなってきている。いったんオンになってしまうと、また際限なく求めてしまうに決まっている。疲れてへばって、気づいたら日付が変わっていました、という事態になりかねない。駄目だ。お祝いが終わるまでは、駄目。
 シャツに潜り込もうとしている手を引き剥がす。
「……ちょっと待って」
「なに」
「先にご飯。ケーキもあるし」
「もっとちゅーしたい」
「スイッチ入ったらグズグズになるからやめて」
「グズグズにしたい」
「やだ。先にケーキ食べてちゃんとお祝いすんの!」
「お願い、伊月。大好きだから」
「……」
「好き。大好き」
 いつもより低めの声が耳元で囁くと、頬が急激に火照って熱くなる。
 ——好きって言った。欲しかった言葉だ。これまでにも何度か言われたことはあったが、セックスを盛り上げるためだろうくらいにしか思っていなかった。恋人としての「好き」なのだと意識して聞くと、彼の甘ったるい匂いと変わらないくらい、うっとりさせられてしまう。
「ねえ、伊月、好き」
 伊月の反応でいけると踏んだのか、すかさずキスをされた。
 再びシャツの裾から手が侵入を試みる。しかし、なんとか理性を呼び寄せ、彼の肩を掴んで押し返す。
「だめ! なだれ込んだら、絶対ケーキ食べずに寝ちゃう」
「起こしてあげるよ。伊月だって匂い濃くなってる」
「あんたの匂いに引っ張られてるだけだ。それにまだ聞きたいことだってある」
「後にしてよ」
「今すぐ答えて。好きだって言うけど、結局俺のどこが好きなんだ?」
「……後でじっくりねっとり教えてあげるから」
「俺にとっては大事なことなんだよ。やっぱ匂い? 他の人から俺の匂いがしたら、その人のこと好きになる?」
 これもずっと気になっていたことだ。取り柄らしい取り柄のない自分がなぜ選ばれるのか、ちゃんと知って安心したい。
 陽介はうなだれて、後ろに手をついて体重をかける。
「空気読んでほしいなあ。でも、まあ、そうだよね。こういうのを蔑ろにしてたら、良い関係も築けないよね……。んー、まあ、匂いは好きだよ、大好き。この匂いがするのが、伊月で良かったな、とは思うよ」
「……どういうとこで?」
「好きなとこだよね? 田舎っ子らしく擦れてなくて、純情可憐なとこかな」
「可憐……、可憐?」
「単純に顔が好みなのは大きいよね、髪や肌は触り心地いいし、あと、甘えたがりのくせに、変なところで意地っ張りなとことか、プリン食べてるときに幸せそうな顔するとことか、一日ぶりくらいに会うと僕を見て嬉しそうに笑うとことか、寝てるときぎゅーっ抱きついてスリスリしてくるとことか、それから」
「いい、もういい! 恥ずかしすぎる」
 後から後からよく出てくるものだ。それもほとんど予想外のことばかり。
 人差し指で赤い頬をつつかれる。
「自分で聞いたくせに。怒られると思って下ネタは避けてみました」
「賢明な判断だ」
「答えたよ。答えたよね。では」
 飛びかかってこられそうだったので、その場でさっと立ち上がる。もう最後の手段を使ってしまおう。どうせそのつもりだったから。
「……ケーキ食べて、後片付けして、風呂入って、歯も磨いて、全部終わってからだったら、俺に何でも好きなことしていいよ。ほら、誕生日だし」
「ほんと? 何でも?」
「痛いこと以外なら」
「うん、そういうことなら、わかった」
 容易く交渉は成立した。
 誕生日ケーキの蝋燭は面倒がられたが、せっかくホールケーキにしたのだからとお願いし、部屋の照明を消して蝋燭を吹き消す一連の流れをやってもらうことにした。
「願い事は?」
「伊月が可愛く好きって言ってくれますように」
 息を吹きかけられた明かりが消え、部屋が真っ暗になる。今がチャンスだ、勢いで言ってしまえと前のめりになったが、ぱっと照明がつく。陽介がリモコン操作をしたらしい。
 指を唇に押し当てられる。
「可愛く、だからね」
「我が儘言うなよ」
「後でいっぱい言わせるから、今はいいよ。ケーキ切るね」
 いったい何をするつもりだ、とひやりとしたが、それも甘い期待にしかならないのだった。
 瀬上のアドバイス通り、ケーキはその日に半分食べ、もう半分は翌日食べることにした。

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