(2)引力

 握手してしまった。夏穂と握手。先にわかっていれば、もっと感動を噛みしめられたのに。
「彼、君らのファンだよ」
「そうなの? うれしー。ありがとー」
 少しだけサングラスを下げて、目元を見せてくれる。確かに夏穂だ。こう並んでみると、やはり兄妹はよく似ていた。美男美女が産まれる血筋、羨ましすぎる。
 陽介は余計なことを付け加える。
「一番は清香らしいけど」
「清姉かあ。呼ぶ? もう少ししたら撮影終わると思うよ。今日、あたしと一緒に行こうかなって言ってたし、声かけたら来ると思う。会いたいよね?」
「いい、いいです。会いたくないです!」
 会いたいかどうかは伊月の方を向いて聞いてきたので、即座に否定する。夏穂はきょとんとしていた。
「え、なんで?」
「ドキドキしすぎて胸がつぶれる……。まだ長生きしたい……」
「そんなに好きなの? おにーちゃん負けてんじゃない? やばーい」
「うるさいよ。もう僕の顔見たからいいだろ。さっさと帰りな」
「えー。つめたーい。やだー。こんな日だから二人っきりがいいのはわかるけど、あたしだって仲間に入りたい」
「そのことだけど」
 夏穂の腕を引き、陽介は何やら耳打ちする。指を頬に当て小首を傾げる仕草も、夏穂なら様になる。
「そうなの? なんで?」
「また後で話すよ」
「絶対だよ? 仕方ないなあ。じゃあ、せめて何か買わせて。そのマグカップがいいの? 同じデザインのお皿やお茶碗もあるよ」
「マグカップだけでいいよ」
「遠慮しないでよ。あたし、おにーちゃんよりずーっと稼いでるんだから」
「僕はまだ学生だからね?」
「マグカップとお皿とお茶碗と、お箸もつけとこう」
「それでお前の気が済むんなら、そうして」
「レジに運ぶのは手伝ってよ。うふふ、彼氏さん、一緒に使ってね。お揃いの食器なんて新婚さんみたいうらやましい」
 プライベートで兄と話す夏穂、これはかなりのお宝映像なのでは、などと考えながら二人を眺めていたので、再び自分に話を振られて驚いた。
「え、俺も?」
「……ん? あれ? 違うの?」
「なんていうか、こういうとこ、すごくぼやっとした子なんだよ」
「へえー。可愛い?」
「合ってる」
「じゃあ、可愛い。とりあえずお会計行きましょ」
 本当に支払いは夏穂がしていた。食器たちは箱に詰められ、美しくラッピングされた。
 店を出て、買ったばかりの品物を、彼女は兄に渡す。清香から、と言って、また別の紙袋ももらっていた。清香から個人的な贈り物だなんてどういうことだ。
 聞きたかったが、また揶揄われそうなので、言わずにおいた。「焼きもち? 清香とは友達だって言ってるじゃん。僕が盗られるってそんなに心配?」と妙にリアルに脳内再生される。ものすごくイラッとする。言わなくて正解だ。
 店の前で、夏穂とは別れた。下のフロアで洋服を見るらしい。伊月たちはビルの外に出る。
「……いっつも支払いは妹にさせてんの?」
「そんなわけないじゃん。今日はたまたまだよ」
「たまたまって何だよ」
「伊月は気にしなくていいの」
「気になるし」
 今日は何があるというのだ。
 あのことも全然言い出さないし。仲間に入りたいと言った妹と行動を共にしなかったのは、伊月に例の話をするためではないのか。するなら早くしろ、という無言の催促は届かず、陽介は歩き出す。
「さあ、次行くよー」
「どこに?」
「新しいタオルとシーツを買います」
「さっきの店にもあったじゃん」
「お気に入りの店があるんだよ。こっちでーす」
 次のビルまで元来た道を戻った。伊月からすると前の店と違いがよくわからない店で買い物中、陽介は何度かメッセージのやり取りをしていた。夏穂宛だという。先ほどのフォローでもしているのだろうか。マメだなと思った。
 それが済んだ後、住まいの最寄り駅に帰ってくる。夕飯調達のため、スーパーへ寄るという。惣菜か弁当か冷凍食品辺りを買うのかと思っていたが、彼がカゴに放り込んでいったのは、野菜や肉、調味料など、そのまま食べられず調理する必要があるものだった。
「……作るの?」
「うん。さっき簡単なレシピ聞いといたんだ」
「ああ、メールしてたやつ?」
「夏穂にね。どこぞの女子じゃないから」
「心配してないってば」
「はいはい。わかってるわかってる」
「わかってねえだろ」
 学内で陽介が女友達と歩いていたのを見て、伊月の機嫌が悪くなったのは、嫉妬したからだということにされていて、伊月はすっかり焼きもち焼きだと認定されているようだった。このナルシストめ。心配なんてしていないと、何度も言っているのに。

 陽介宅に着く。食材を冷蔵庫に入れた後、彼はキッチンの棚から茶碗や皿を何枚か取り出し、シンクの横に重ねて置いていく。夏穂に貰った食器を入れるスペースを作るためだろうか。
「並び替え?」
「ううん。捨てる」
「欠けたのか?」
 横から皿を一枚取り、裏表を光にかざしてみるが、欠けどころか傷もない。手書き風の大きな水玉柄のデザインで、今日行った雑貨店に似たようなものがあった気がする。棚の上の方はまだ隙間があるから、使わなくても仕舞っておけばいいのに。
 しかし、陽介にその気は無いらしい。
「いらないもの置いといたって仕方ない」
「いらないんならもらっていい? この大きさの皿便利そう」
「駄目」
「捨てるんだろ?」
「伊月が使うんじゃ意味ないよ」
「なんで?」
「なんでってさあ……」
 キッチンの隅からデパートの紙袋を取ってきて、彼はそこに棚から出した食器を入れる。こういうところも、「家庭的」というのだろうか。というより、いちいち紙袋を取っておくのはおばちゃんぽい。
 一瞬彼は言い淀んだが、答えはきっちり返ってきた。
「元カノが持ち込んだやつだから。そういうの気を付けた方がいいって」
「元カノ使ってたやつなの?」
 持っていた皿を置く。不思議なもので、一気にいらなくなった。
「ほら、気分良くないよね」
「タオルとかシーツとか買ってたのもそういうこと?」
「まあね。きっちりしなきゃなって思って。あ、これは清香から注意されたんだけど」
「お前の情報源はアイドル限定なのかよ。料理のレシピは夏穂ちゃんだろ」
「だってどこぞの女子に聞くのは、相手の子を怒らせるからやめとけって」
「誰が?」
「清香が。夏穂はその辺うといから」
「そんなに仲良いのか? 近所に住んでたんだっけ。幼馴染みってやつ?」
 伊月は何気なく尋ねただけだったが、不要食器の紙袋をキッチンの端に寄せた陽介は、突然むっとした顔になった。
「仲良いよ。手を繋いで学校に行ったこともあるし、あっちの家にもこっちの家にも泊まったことあるし。すっごく仲良いから」
「ふーん」
「気になる? そんなに好きなの?」
 好きなの、の前に来るのは、当然「僕が」なのだと思った。気を抜いていたのでまごついてしまう。
「違う! あ、違う? 違うと言い切るのも違うというか」
「ドキドキしすぎて胸がつぶれるってぐらい好きなんだもんね」
「……ん?」
「えらく熱烈なんだねえ」
 恨めしげに睨まれる。
 はたと考え込む。話がかみ合っていない。ドキドキしすぎて胸がつぶれる、とは、確か夏穂に言ったセリフで、もしも清香に会ったら、という流れで出たものだった。
 陽介と清香の仲を知りたがるのは、伊月が清香のことを「そんなに好き」だからなのかと問いたいわけか、彼は。ただの好奇心から聞いただけで、そういった意図はない。
 浮気の釈明を求められている旦那のようだと思いながら、誤解を解こうとは試みてみる。
「清香ちゃんのことは好きだけど、応援したり見たり聞いたりするのが好きなんであって」
「抜いたことぐらいあるよね」
「そんなのあるわけない! 清香ちゃんは神聖な存在で」
「嘘くさい」
「噓じゃない」
「じゃあ、清香と僕、どっちが好きなの?」
「……え?」
 ドラマでよく聞くセリフを、まさか自分は言われる日が来ようとは。気迫に負け、じりじりと後ろに下がる。陽介は逆に距離を詰めてくる。
「そこは即答するとこ!」
「でも……」
 これは愛の告白のタイミングとしてどうなのか? そちらから申し込みがあるはずでは? 「ちゃんとしたこと」を言ってくれるのだろう?
 ついに壁際まで追い詰められる。
「やっぱり清香の方が好きなんだ。僕のことは? 好きじゃないの?」
「そんなことないことないというわけでもない……、あれ?」
「ああ、そう。もういい」
 フイと顔を背けると、陽介はむっつりと押し黙ったまま、夏穂からのプレゼントを開け出す。中身を取り出し、洗い場に並べるのを、伊月は訳もわからず見守っていた。
「なんで怒ってるんだよ」
「君が不誠実だから」
「どこが?」
「わからないなんて重症だね」
「言いたいことあるならはっきり言えよ」
「もう君と話したくない」
「は?」
 自分の何が彼をそうも怒らせたのか見当もつかず、途方に暮れる。心当たりなどただの一つも無い。
 新しい食器を洗う陽介の匂いは、いつもとは少し違う。甘ったるいだけではなくて、苦いような辛いようなものが混じっている。嗅いでいるとこちらまで不安定になりそうな匂いだ。彼は不機嫌を隠そうともせず、またしてもこちらの理解の範囲を超えることを言ってきた。
「恋人にこんなひどい態度を取られたのなんて初めてだ」
「……え?」
「……」
「恋人って言った?」
「……」
「恋人だったの?」
「……は? はあ!? 何を今更!」
 無視を決め込もうとしていたようだが、陽介は堪り兼ねたように振り向く。彼のあまりの剣幕にびくっとしたが、ぼそぼそと小声で言い返す。
「だって、今日から付き合いましょう、みたいなのなかったじゃん」
「なかったけど、うちに来て散々いちゃつき倒して、しょっちゅうお泊まりして、付き合ってない方が不自然じゃん。一回目は嫌なこと忘れたくて流されたにしても、二回目からは自分の意思で受け入れてたよね?」

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