(2)引力

 そうだ、つらいのは伊月だけではない。伊月はまだ性別を理由にして誰かに何かをされたわけではない。自分の意に沿わない状況を打破するために、何か努力をしたわけでもない。ああなるだろう、こうに違いないと想像だけで決めつけ、自分は不幸になるのだと思い込んでいるだけだ。
 皆それぞれ色々抱えて生きている。悲観しすぎるのは間違いなのかもしれない。
 胃のムカムカは、いつの間にか消えていた。
「あんたはあんまり自分のこと喋んないからさ。聞けてよかった」
「かっこ悪いの嫌だから、こういうこと話したくなかったんだ」
「かっこ悪くはないよ。いっぱい話して。いっぱい知りたい」
「……ありがと」
「うん」
「ほんと可愛いなあ。そういうとこ好き。ちゃんとしたことは改めて言うから。待ってて。もう少しだけ」
 ちゃんとしたこととは何か、あえては問わなかった。何となく察することが出来たから。

 「ちゃんとしたことは改めて言う」というのは、多分、そういうことだ。一度に付き合うのは一人だけで浮気はしない、というのが真実だとするなら、「ちゃんとする」というのは付き合うということで、「ちゃんとしたこと」というのは交際申し込みだろう。
 いくらオメガ好きといったって、伊月の他にオメガはたくさんいる。そのほとんどが、伊月のような半端者ではなくて、遺伝子異常などない正常なオメガだ。なぜ伊月なのだろう。
 やはり匂いか? 陽介は伊月から特別な匂いを感じるらしい。それは伊月も同じだ。普段から匂いは出ているけれど、交わっている最中は何倍も匂いが濃くなって、生温かい底なし沼に引きずりこまれるような、あの蠱惑的なまでに甘い匂い。
 あんなもの、これまで嗅いだことなんてなかったし、陽介もそうらしい。あれの正体はいったい何なのだろう?
 もしも匂いが付き合いたい理由だとしたら、そこに「好き」という感情はあるのだろうか。お互いに「好き」だから付き合うのが恋愛だろう。
 ——待て。伊月自身はどうなのか。もしも交際を申し込まれたら、当然伊月はイエスかノーで答える必要がある。伊月は陽介が好きなのか? 好きだとは思う。頼りにさせてもらえるのには感謝しかないし、共に過ごす何気ない時間はリラックスできて心地良いし、言うまでもなくセックスは最高だし。
 しかし、ときに痛いほど胸を締めつけながら、心の奥底からじわじわと湧き上がってくるこの感情が、恋愛の「好き」なのかどうかがよくわからない。漫画のような「雷で打たれたような衝撃」みたいなものがあればわかりやすいのに。これまでアイドルしか好きになったことのなかった、自分の経験不足を恨みたい。
 次の土曜日空けといて、と言われたのは一週間前だった。会う約束をするのはいつも直前だったから、この日は何かあるな、とはわかった。いよいよなのか。来るか、交際申し込み。どうしよう。
 どこか行きたいところはあるか問われ、隣県の動物園と答えた。その動物園には去年バニバニメンバーが名付け親になったウサギがいる。一度行ってみたかったのだ。それに、雰囲気のある、カップルだらけの場所は避けたかった。意識しすぎて緊張する。デートで動物園はないだろう、と陽介は呆れていたが、結局行ってくれることになった。
 ドキドキしながら迎えた土曜日。幸い晴れてくれた。気温は最近高くなってきているが、風はひんやりといている。
 電車で片道一時間かけてたどり着いた動物園は、家族連れで混雑していた。男二人連れというのは他に見当たらない。それはそうだろう。伊月だって瀬上と二人で動物園に行こうなんていう発想は出ない。自分のようなバニバニファンが仲間と来るにしても、ウサギが話題になったのは一年も前なので、今はそう数はいまい。
 広い園内を、まずは目的のウサギふれあい広場を目指して歩く。ライオンもゾウもキリンも後回しだ。
 子供が走り抜けていく横で、陽介は手を握ってくる。
「駄目だって」
「子供は動物に夢中だし、大人は子供を見守るのに必死だし、誰も気にしないよ。せめてデートっぽいことしたいんだけど」
「やだ。暑い」
「じゃあ、お茶飲みに行こうよ」
「来たばっかだろ。ウサギ行くぞ、ウサギ!」
「はいはい」
 彼の手をほどき、入り口で貰ったガイドマップを片手にずんずん進む。
 園内の片隅にあるウサギふれあい広場は、四方を柵で囲んだ小さなスペースで、中には数種類のウサギがいる。中で遊んでいるのはほぼ小学生までの子供。一人では危ない年齢の幼児には保護者が付き添っているようだ。
 陽介はウサギと戯れる子供たちを指す。
「……入るの? この中」
「いや……、さすがに勇気が」
「だよねえ。外から見てよっか」
「そうしよ」
 柵の外で子供を見守る親たちに混じり、ウサギを眺める。この中にバニバニが名付け親になったウサギはいるのだろうか。ウサギは交代制らしく、いつでもいるわけではないようだ。
 聞いてみようかと、係の人を探してきょろきょろしていると、こちらをじっと見ている幼稚園児ぐらいの女の子がいるのに気づいた。不思議そうな顔をしている。自分のような子供ではなく、親の年代とも違う、この人たちはいったい何者なのだろう、とでも言いたげだ。
 陽介も彼女に気づいたようで、背を低くして笑いかける。
「可愛いね」
 途端に女の子は顔を真っ赤にし、母親の元へ走って行く。陽介はウサギのことを言ったのだろうが、彼女は自分のことだと思ったらしい。幼女もハンサムには弱いようだ。伊月があの年の頃には、誰が可愛いとかかっこいいとか、考えたこともなかった。
「ませてるなあ」
「何言ってんの。女の子は三歳過ぎたらレディーだよ。うちの妹たちもそうだった」
「あんた全然兄ちゃんっぽくないよな。自由気ままな一人っ子って感じ」
「これでも五人兄弟の長男です。赤ちゃんのおむつ替えもミルク作りも完璧だから」
 一見すると「子供は苦手」とはっきりと言い放ちそうなタイプなのに、甲斐甲斐しく赤ちゃんの世話を焼いているところなど想像もできない。
「料理はしないのに?」
「それは母さんと長女の担当」
「夏穂ちゃん、料理できるんだ」
「上手いよ。冷蔵庫にあるものでパパッと何でも作っちゃう」
「へえ、意外。ドジっ娘キャラだから、できなさそうだと思ってた」
「人は見かけによらないもんさ」
 兄弟の上の二人が下の子の面倒を見て、家事を負担して、協力しながら暮らしてきたのだろうか。意外にも彼は家庭的なわけだ。こんなギャップも女子が喜びそうだと思った。あとは夏穂推しファンも。
「兄弟多いのって楽しい?」
「まあ、うるさいし大変だけど、楽しいね。助け合えるし。僕も将来いっぱい子供ほしいなって」
「今からそんなこと考えてるのか?」
「考えない? 好きな子出来たら、子供のこと」
「考えたことない」
 胸の深いところがずきりと痛む。なぜだろう? 思い出そうとするとさらに痛みが増して、その作業を放棄した。
 ふれあい広場を離れる前に飼育員を捕まえて聞いたが、お目当てのウサギは今日はお休みらしい。こればかりはどうしようもない。絶対に見たかったわけではなく、ここに来たい理由の一つだっただけなので、諦めはついた。
 せっかく来たのだから、入場料分の元は取らなくては。園内ガイドマップのおすすめを中心に回った。陽介は初めこそ、暑い、臭いと乗り気でなかったが、アニマルドキュメンタリーの番組で得たという知識を所々で披露し、それを伊月が感心したように聞いていると、機嫌が良さそうにはしていた。

 動物園の後、近くでランチを取ってから、住まいから数駅の主要駅まで戻ってくる。まだ例の話は出ない。
 ランチのとき大分身構えていたのだが、動物園にもう一度ウサギを見に行くなら涼しいときにしようとか、午後からどこに行きたいとか、友達でもするような会話だけで、それらしい話題が出る気配さえなかった。ものすごくやきもきする。
 陽介が買い物したいと言うので、駅直結のファッションビルに入る。エスカレーターを上り、服屋の前を素通りし、着いたのは雑貨店。お洒落レベルが高く実用性不明の品々が所狭しと並んでいる。男子大学生の部屋には絶対に必要でないであろうものばかりだ。なんだ、お前は可愛い物好きのOLか、と言いたくなる。
 もしかしてどこぞの女子へのプレゼントかとも勘ぐってしまったが、欲しいのは自宅用の食器らしい。そんなの、スーパーにだって百均にだってある。国内製のものもあるし、ぶつけたって少々のことでは割れないくらい丈夫だ。しかし、価値観は人それぞれ。伊月がやかましく口出しすることではない。
 人の買い物を横で待っているのは退屈ではあるけれども、動物園内を引っ張り回しておいて、伊月だけ文句を言うのもおかしいので、おとなしくしていることにした。
 陽介の手にしたマグカップ、というより、マグカップを持っている彼の長い指の方を見ていると、一人の女がいきなり彼の肩を叩いた。
「よっす」
 伊月たちと似たような年頃の女の子だ。陽介は振り向く。
「わあ、どうしたの?」
「どうしたのって何よ? メッセージ送ったって全然既読にならないんだもん。そっちこそどうしたの、だよ!」
「ごめん、スマホ見てなくって」
「ひどーい」
 とても親しげな様子だ。彼女はサングラスをしてキャップを目深に被っていたが、内から溢れ出るような存在感があり、美人であろうことは推測できる。大学の「女友達」か? それとも元カノか?
 さりげなく距離を取り、気配を殺して彼らを観察する。
「偶然だね、こんなところで会うなんて」
「そっちに直接乗り込んでやろうと思ってさ。何かプレゼント持ってこうって思って探してたの」
「それでこの店? さすが僕の趣味がよくわかってる。これとこれなんか可愛いくない?」
「可愛い可愛い。ペアで探してるの?」
「うん」
「あ、もしかしてそっちの人と?」
「そうだよ」
「ほうほう」
 せっかく気配を消していたのに、美人さんは視線の対象を陽介から伊月に切り替えた。満面の笑みを浮かべ、こちらに近寄ってくる。
「わあ、今度の子、超可愛いね。はじめましてー」
 両手で両手を取り、握手される。随分とフレンドリーな人だ。
 可愛い、か。母親世代の女性から言われるのなら受け入れられるが、美人に可愛いと言われるのはものすごく違和感がある。
「はあ……」
「びっくりしちゃった? いきなりごめんねー。髪の毛も目もくりくりで超キュートだね。どこで知り合ったの? 変なことされてない?」
「やめなさい、こら」
 陽介は美人さんの頭を軽くたたく。彼女は大袈裟に頭を押さえた。
「いたーい。でぃーぶいだ!」
「こんなの暴力のうちに入らないよ。彼は大学の後輩」
「キャンパス内ラブ! きゃっ」
「テンションおかしいよ?」
「だってあたし、大学行ったことないから憧れっていうかー」
「行きたいなら行けばよかったのに。お金の心配ならしなくていいって、父さん母さんも言ってただろう」
「でも、あたし馬鹿だから」
「まあ、そうだね」
「否定してよ! ひどーい。おにーちゃんの馬鹿!」
「ちょっと、声大きい」
「そんなに簡単に気づかれないよ。うちらまだまだ無名だから」
 おにーちゃん? 陽介がお兄ちゃん。サングラスとキャップが邪魔だが、どこかで見たことはないか? あれだ、あの人だ。料理上手で家庭的というギャップが素敵なドジっ娘。
「な、なつ……」
 兄妹が同時に人差し指を唇の前に立て、しーっとする。

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