(2)君とストーカーと僕

 春ってどうしてこんなに眠いんだろう。
 隣でがさごそやりはじめたのはわかっていたが、重い目蓋はなかなか上がらない。楓は空きができたスペースに腕と足を伸ばし、布団にくるまり直した。
 カチャッとドアノブを下げる音がしたので、声だけ出す。
「……今何時?」
「七時前。朝一のミーティングの準備あるからちょっと早く出るわ。お前は?」
「バイト。いつも通り」
「じゃあまだ寝れるな」
「ううん。起きる。家に忘れてきたものあるからいったん取りに帰らなきゃ……」
 二度寝したら寝過ごしそうだ。あくびをしながらもぞもぞと布団から這い出ると、いやににこにこした亨と目が合った。
「……何だよ」
 視線の意味に気づいて布団をかぶり直す。昨日は何も身につけないまま眠った。素肌に触れる素肌やシーツの感触が心地よくて、この頃は寝る前に服を着る余裕があったって、そのまま眠ってしまうことが多かった。
「見んな。バカ」
「今更ですか」
「明るいとこで見られるの嫌だ」
「裸も綺麗なのに」
 亨は開けかけたドアをわざわざ閉め、ベッドに戻ってくる。それを追い払おうと手を振る。
「早く支度しに行けよ」
「その布団取ってくれたらすぐ行く」
「嫌だっつってんだろ!」
「楓の裸で今日一日がんばるから」
「しつこい!」
 布団を掴んで引っ張ってくるので、こちら負けじと布団にしがみつく。だが、抵抗むなしく布団が持っていかれる。瞬時に枕を抱きかかえ、丸見えは阻止した。
「そんなに嫌なの? ちょっとショックなんだけど」
「やだ」
「昨日いっぱい見たし、別に今更ケチケチしなくったって」
「昨日見たならいいだろ!」
「今日イチのフレッシュな楓さんがいいです」
 楓が恥ずかしがるのを完全に楽しんでいる様子だった。亨はしばし思案した後、剥き出しの足の裏に狙いを定めた。ベッドに片膝を乗り上げて、楓の左足首を掴み、くすぐり攻撃を開始する。
「やめろー! お前、仕事はいいのかよ!」
「十分くらいは余裕あるから。ここはどう?」
「ほんとやめろよ、こら!」
 身をよじって足をばたつかせる。彼は蹴りをかわして攻撃を続行したが、しばらくして飽きたのか、唐突に手を離した。
「ご馳走さまでした」
「……はあ?」
「ちょっと興奮してきたからやめる」
「何に?」
 そう聞いておいて、答えを聞く前に思い当たった。その瞬間、顔色が茹で蛸と化す。いくら身体の前面を枕でガードしているとはいえ、あんなに足をバタバタしていれば、彼の位置からでは隠したいところが全く隠れていない。
「変態!」
 床に落ちた布団を拾い上げて身体に巻き付ける。亨はその過剰反応に驚いているようだ。
「え、なんで? ヌード写真売れそうなくらい綺麗よ、マジで。いや、見んのは俺だけでいいから絶対売っちゃダメだけど」
「……小さいから」
「ん?」
「だから、小っさいのが嫌なの! 気にしてんの! コンプレックスなの! なんで言わせんだよ、見りゃわかんだろ」
 照明を落とした暗がりならまだいい。でも、明るい中で全部が明らかになるのは耐えられない。おまけに今は性的なスイッチも入っていないし。
「えー、バランスよくていいと思うよ。デカくてもグロいだけだって」
 彼は楓の繊細な心情を理解できないようだ。恵まれているやつはいいよな、と僻みを口にしたくなる。
「俺はグロくてもデカいほうがよかったよ!」
「ほら、あれだよ。性別の違いで仕方ない面もあるじゃん」
「……それがそうでもねえんだよ」
 オメガは子宮がある分男性ホルモンが少ないから残念なサイズ、アルファはその反対、というのが通説だが、楓は例外を知っている。
「俺だって、オメガだからしょうがないって自分に言い聞かせて生きてきたけど、ミコちゃんは普通だった」
「え、なに、泉田とはそういう、ちんこ見せあう仲なのか?」
「バカ! 変な想像してんじゃねえよ。一緒に温泉行ったとき見ただけだ。デカいってほどでもないけど普通サイズだった。ほんと、あのときはすごくショックだった……」
 去年一月、実琴、慶人と三人で温泉旅行に行ったときのことだ。表面上は何事もなさそうに取り繕ったが、旅行から帰ってきてもしばらく引きずっていた。
 亨は気まずそうに頭をかく。
「……うん、元気出せ」
「朝からこんな話させやがって。元気なくなったのはお前のせいだ!」
「ごめん。でも、楓が気に入らなくても俺は好きだよ」
 額にキスが降ってきて、頬の赤らみがまた戻ってくる。なんで躊躇いもなくこういうことが言えるんだ、こいつは。ああ、もう、こっちだって好きだ、バカ。
「うっさい! お前なんか遅刻しろ!」
「うんうん、ごめんごめん」
 彼は何がそんなに楽しいのかへらへら笑いながら、散らばった楓の下着やTシャツなどを投げて寄越す。布団の中で、とりあえず下着だけ穿いた。
 恥ずかしい思いをした対価をなにがしか支払わせたくなって、その場で思いついた要求を突きつける。
「食パン、俺の分もトースターに突っ込んどいて」
「はいはい」
「焼く前にマヨネーズ塗って、ハムとチーズも乗せるんだぞ」
「細かいなあ。ハムとチーズだけで勘弁してよ。マヨネーズは後から自分でかけて」
「じゃあ、刻んだキャベツ追加」
「余計に面倒だわ」
「……仕方ねえな。ハムとチーズで許してやるよ」
 本当に遅刻したらしたで可哀想になるので我慢してやろう。
 出て行こうとして、彼は付け加える。
「俺、先に出るけど、鍵かけて出てね」
「……うん」
 ここの鍵は持っている。冬休みにここに入り浸っていたとき、合鍵をもらったのだ。あのときはうれしかった。恋人の証明みたいで。
 亨のいたずらのおかげと言うべきか、もうすっかり目が覚めていた。ベッドから抜け出して、楓も支度を始めることにした。

 実琴に借りていた本を取りに、いったん自宅へ戻る。もう読み終わっていたので、早めに返したかったのだ。
 居間には明かりがついていた。今日母は仕事が休みなのだと言っていた。うるさい姉はもう仕事に出ている時間だから、いるとすれば母だろう。
 だが、予想は外れ。居間に顔を出すと、待ち構えていたのは、腕を組んだ姉の桜だった。
「お帰りなさい」
「……ただいま。仕事は?」
「今日はちょっと遅くてもいい日なの。話があるから待ってた」
 聞くまでもなく内容はわかったので、自己申告することする。当然本当のことは言わないけれど。
「昨日は友達んとこ泊まった」
「あんた友達いないでしょ」
「いるよ!」
「たとえば?」
「ミコちゃんとか……」
「ミコちゃんのとこ泊まったの? 違うわよね? 今から電話して聞いてもいいのよ」
「他にもいるんだよ! いいだろ、別に。俺だってもう大学生で」
 桜も大学生の頃は慶人と付き合っていて、外泊もしていた。なぜ楓だけ制限されなければならない。
 会いたいから会って何が悪いのだ。確かに一週間の半分以上あちらで過ごしてはいるが、泊まるときはメールを入れているし、迎えに来いなんて言っていないし、何も迷惑をかけていないではないか。
 反抗心を露わにする楓にも、もちろん桜はひるまない。
「『もう』じゃない。まだ学生でしょ。あんた朝帰りどころか朝にも帰ってこないことあるし、最近おかしいわよ。お泊まりデートもいいけど、節度ってものがあるでしょ」
「デートじゃない。友達だって言ってんだろ。耳まで遠くなったかババア!」
「どこの友達よ。言ってみなさいよ。家族にも言えないような女と付き合ってるの? それとも男かしら」
「うるさい。ほっとけよ!」
 おそらく母はまだ寝ているのだろうが、それを気遣うこともできずに声を荒らげる。
 桜はため息をついて食卓の前の椅子に腰を下ろす。
「放っておけるわけないでしょ。この間、大学に電話をかけたの。授業料の振り込み用紙が間違って届いてたから。そのとき、事務の人から偉い人に電話がかわって、ご子息には大変申し訳なかったとか言ってきたの。あんた心当たりは?」
「さあ」
 さて、まずいことになったと思ったが、平静を装う。桜はじっとそれを観察している。
「シラを切り通せると思ってるわけ。あんた、教室でアルファに襲われかけたらしいわね」
「……!?」
「それで、その後すぐに弁護士が話をつけに来たって。弁護士って何。あんたが雇ったの? あんたのバイト代じゃ雇えるわけないわよね?」
「金貯めてたんだよ」
「そう。ならいくら払ったの?」
「……忘れた」
「一円単位まで聞いてないのよ。大体何万くらいかでいいの。一生懸命バイトして貯めたお金を使ったのに、忘れるわけないわよね?」
「……」
 心の中で地団駄を踏む。口で桜には絶対に勝てない。十歳近くある年の差は、そのまま経験の差だ。職場でもプライベートでも、数々の難局を乗り切ってきた彼女に敵うはずはない。
「観念なさい。彼女だか彼氏だかに払ってもらったんでしょうが。別にそれ自体悪いことじゃないわ。でも、あんたはまだ学生なの。自立していないの。母さんや私に面倒を見てもらっている立場なの。なのに人様にそんな大金を払ってもらっておいて、それを私たちが知らないってことは問題なのよ。わかる?」
 わかる。桜は間違ったことを言ってはいない。でも、まだ亨のことは話したくない。職場が同じだし、亨もおそらくバレたくないはずだ。こんなにうるさい小姑、楓だって嫌だ。こんなことで彼を煩わせたくない。
「まだ言いたくない」
「まだって、じゃあいつ言うのよ」
「わかんない」
「あんたねえ」
 桜は苛々と指先で食卓を叩く。彼女も引けないのかもしれないが、楓も引けない。
「いつか言うけど、今は嫌だ。今すごく上手くいってるから壊したくないんだよ」
「あんたは姉をなんだと思ってるの。殴り込んでぶっ壊しにいったりしないわよ。お礼言うだけじゃない」
「それでも嫌」
 亨は楓にだって費用のことは詳しく話さない。それなのに、当事者ではない桜に突っつかれたいはずはない。
 しばし無言で睨み合っていると、楓の背後から柔らかい声がする。
「まあいいじゃないの、桜ちゃん」
 パジャマ姿の母が居間に入ってくる。やはりさきほどの怒鳴り声で起こしてしまったようだ。
「楓にだって色々あるんでしょう。楓は約束守る子よね。いつか言うって言ってるんだから、待ってあげればいいじゃない。それに、あんまり私たちがうるさくすると、楓、うちに帰ってきてくれなくなるかも」
「でも、母さん」
 桜が言い募ろうとするのを、母は笑顔で制する。
「まあまあ。あら、そういえば桜ちゃん、電車の時間は?」

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