(2)君とストーカーと僕

 慶人が帰ってくるまでいてほしい、と実琴が言うので、楓も桜も昼頃までだらだらしていた。
 それにしても実琴は心が広い。恋人の元カノを自宅でくつろがせているなんて。楓は絶対に御免だ。見つけ次第蹴り出してやる。何なのだろう。本妻、もとい番の余裕なのか。いいな。うらやましい。——いや、何が? そうだ。余裕があることが、だ。
 そのうちに慶人が帰宅してきて、四人で昼食を取った。明太クリームパスタとサラダとおにぎり。もちろん作ったのは実琴だ。昼に作るとすればチャーハンくらいという楓にとっては豪華なお家ランチだ。
 桜に今日の成果について聞かれ、説明していた慶人は、ふと楓に向き直った。
「今日伊崎くん、休んでたよ。お父さんが急病で倒れて実家に帰るって」
「は? なにそれ。聞いてないんだけど」
「え、伊崎ってデザイナーの? あれが彼氏なの?」
「そうそう」
 桜の直球の質問を、慶人はすんなり肯定してしまう。実琴は言わないでいてくれたのに、まったく気が利かない。
「言うなよ。知らなかったんだからさあ」
「ここまで来たら良くない?」
「ほうほう。社内『アルファだけど普通』ランキング一位のあいつね」
「普通ってなんだよ。親しみやすいって言えよ!」
 なんだその意地の悪いランキングは。桜に噛みつこうとする楓を、実琴がなだめる。
「どうどう。喧嘩しないの。それで、伊崎くんが昨日言ってた『出かける』っていうのは、実家にってこと?」
「それも休むための嘘かもしれないよ」
「だよなー。昨日の電話、父親が倒れたって感じじゃなかったもん」
 楓も慶人に同意する。桜はフォークを置いて右手を挙げる。
「はいはーい。伊崎の実家ってどこなの?」
「地元は僕と一緒だよ。お隣の県。特急使って乗り継いで二時間くらいかな」
 亨と実琴は高校が同じらしいから、それは推測できていた。
 桜はしばらく難しい顔で何事かを思案していたようだが、途中で考えることを放棄した。
「もうさあ、あーだこーだ言ってても埒が明かないんだから、実家に突撃しちゃえば? お父さんがご病気だと聞いたので、居ても立っても居られずにお見舞いに来ました! とか言ってさ」
「行ってどうするんだよ」
 いくらなんでも行き当たりばったり過ぎる、と呆れずにいられない。いい大人の案とは思えない。
「伊崎にもろもろ説明させんのよ。で、ストーカー事件解決を手伝えるようなら手伝うの」
「あいつが実家に帰ってるの、確定じゃないんだぞ」
「いなかったら、勘違いでした、ごめんなさい、でよくない? ここでうだうだやってるよりよっぽどいいんじゃないかしら。私、待ってるだけなんて性に合わないのよ。で、帰りに観光でもして帰ってくるの。泊まりでもいいわね。あそこ、温泉が有名でしょ? ホテルの予約空いてるとこあるかしら」
「おい、お前も行く気になってないか」
「あんたが行くならついてってあげるわよ」
「ついてくんな! ってか、まだ行くって決めてねえし。そもそもあいつの実家の住所知らねえし」
 喧嘩中でまだ謝ってもいないのにいきなり実家に行くって、そんな度胸、楓にはない。
 慶人はともかく実琴は反対してくれると思ったが、そうではなかった。
「僕、住所わかるかも。伊崎くんの家は地元じゃ有名なんだよ。アルファ一族の資産家だから、うちの実家にかけたらすぐ調べてくれると思う」
「わお、資産家だって。これはなおさらご両親に顔を売っておかなきゃ」
「ババアの顔売りに行くんじゃねえかんな!」
 桜は完全にこの状況を楽しんでいるようだ。実琴のストーカー事件が絡んでいるのだ。もっと真剣に悩め、と言いたい。
「ストーカー事件解決は警察に任せた方がいいと思うけど、伊崎くんのお父さんのお見舞いに行くのは悪いことじゃないよ。これから、ほら、お世話になるかもしれないし」
「いや、ミコちゃん、家族ぐるみの付き合いをするにはまだ早すぎる……」
「よーし、決定! 今から用意するわよ!」
「人の話を聞けよ、ババア!」
 結局、桜が押しに押して、亨の実家行きが決定した。月曜日は桜も仕事があるので、土曜日に行って日曜日に帰って来られるよう、出発は今日だ。日曜日に日帰りでもいいではないかと思うのだが、温泉を満喫したいので泊まりがいい、と桜が強く主張した。何か理由を付けて旅行に行きたいだけではないかと疑いたくなる。
 いったん家に戻り、大急ぎで荷物をまとめた。行く前に確認しておこうと、勇気を出して『実家に帰ったって本当?』と亨にメッセージを送ってみたが、既読も付かない。わかっていて無視されているのか、取り込み中でスマホチェックをする余裕もないのか。どうか後者であってほしい。もう少し返信を待っていたかったが、桜に急き立てられて出発した。
 桜の秘書ネットワークでなんとか宿は確保できたようだ。久しぶりの旅行で張り込んだらしいが、寝られればどこでもいいのに、と思った。

 現地の駅に到着したのは午後五時過ぎだ。
 桜は小型のトランクを転がし、意気揚々と歩き出す。
「さあ、乗り込むわよ」
「いや、さすがにこの時間からじゃ迷惑だろ」
 亨の実家の住所は、実琴がメッセージで送ってくれていたが、今から行くとなると夕方のバタバタしている時間帯にかち合うだろう。印象が悪すぎる。今日はこのままホテルに行って、明日朝から出向く方が常識的だ。しかし、桜は譲らない。
「嫌よ。明日は観光したいんだから」
「お前な。俺一人で行くからついて来なくていいよ」
「じゃあ、あんたは明日行くのね。私が今から一人で行ってくるわ」
「なんでだよ!」
「ほら、実家がどれくらいの資産家なのか確認して、社内ランキング更新しないといけないでしょ?」
「お前が元締めか」
「他にもあるのよ。ちなみに、慶人は将来出世しそうランキングの上位に食い込んでいます」
「慶人かよ」
 もうツッコミにも疲れてきた。桜はとにかくパワフルなので、喋っているとこちらのライフまで吸い取られている気がする。
 ここまで来たのだ。もうどうにでもなれ、と促されるままタクシーに乗り込んだ。
 車内でまた確認したが、メッセージに既読は付いていない。こんなに長くスマホを見ない用事って何だ。病院にでもいるのか? そうなると、やはり父親の見舞い? いや、あれは昨日の様子からして方便の可能性が高い。やはり無視されているのか。相当お怒りのようだ。もしかしたら許してもらえないかもしれない。
 あんなに甘やかして大事にしてもらっていたのに、その気持ちを疑うようなこと、なぜ言ってしまったんだろう。会いたい。もちろん会いたい。でも、会って拒絶されるのは耐え難い。
「大丈夫よ。私が全部うまくやってあげるから」
 独り言のように桜が言った。
 十五分ほど走り、タクシーは高級住宅街とおぼしき一角に止まった。支払いは桜がタクシーのプリペイドカードを出した。「パパにもらったの」だと言う。パパとは桜が秘書としてついている重役のことだ。
 門に『伊崎』と表札のかかったそこは、家というより屋敷だった。モダンな洋館といった趣で、サスペンスドラマの殺人現場のロケ地になりそうだ。後継者争いで血みどろの争いが起こる、というような、定番の内容の。
 資産家と言われて、ただの小金持ち程度を想像していたが、これは本物かもしれない。まずい。「うちの亨ちゃんに何の用ざます。この貧乏人」なんて言われて摘まみ出されかねない。慶人の実家も大きかったと実琴が言っていた。アルファの家はやはり皆金持ちなのか。なんだこの格差社会。
 亨自身、お坊ちゃまっぽいところは全くなかったのに。カップラーメンも食べるし、歯磨き粉は最後の一絞りまで振って使うし、古い部屋着も捨てないし。いや、一人暮らしで3LDKに住んでいるあたり、庶民とは感覚が違うのか。でも、友達に安く借りていると言っていたし。
 桜はじっくり屋敷の正面を眺め回した後、頷く。
「うん。ランキング更新決定!」
 そして、まっすぐチャイムに手を伸ばす。楓は腕を掴んで止めた。
「ためらいもなくピンポンしようとしてんじゃねえよ! 待て。いったん待て」
「なんでよ。ここまで来て」
 門の前で小競り合いをしていると、玄関の方から歩いてくる人影が二つ見えた。自然と視線が吸い寄せられる。一人は亨。もう一人は——。
「あ、伊崎くーん。こんばんはー」
 図太く遠慮のない姉は亨に向かって手を振る。目があった。驚いている。当然か。
「ねえ。ちょっと入れてくれない? お話があってねー」
「……俺、帰る」
 楓は踵を返し、タクシーで通った道を戻り始める。
「え、どうしたの、楓」
 姉の声にも足を止めない。
 やっぱりこんなところ、来るんじゃなかった。亨の隣にいたのは、あの釣書の写真の女だった。

 同日。土曜日の朝。亨はある男に会うため、電車に乗った。
 こういった移動では、いつもは乗り物の揺れで眠くなり、船を漕いでいることが多いが、今日は物思いに身を沈ませていた。
 昨日楓から見せられた写真には驚愕した。実琴のストーカーだというその男は、父の秘書である竹司薫(たけつかさかおる)だったから。
 竹司が個人的に実琴を気に入りストーカーしていた、という可能性はないわけではない。だが、亨が知る限り、彼は色恋にかまけるタイプの人間ではなく、雇い主に忠実で仕事にストイックすぎる、言うなら『ご主人様の犬』のような男だった。
 母に電話で尋ねると、竹司は数週間前からいつにも増して忙しそうにしており、あまり見かけず、出張と称してよく遠出しているらしい。しかも亨の兄である(みつる)の用事で。ということは、この件で裏にいるのは兄だ。竹司は兄の命令で動いている。彼は父の秘書ではあったが、父だけではなく母と兄の言いつけた用事もこなすことがあるのだ。
 なぜ兄は実琴をつけ回すことを命じたのか? 以前、兄が若い女性にストーカー行為をしているらしいのだと、母が嘆いていたことがあった。それはもうおさまったらしいが、今度は実琴をロックオンしたということか。しかも今回は、自分で追いかけ回した前回と違って、人を使ってストーカー。まったくどこで見初めてきたのだか。本当に、あの男は昔からろくなことをしない。
 ほんの小さい頃から、何が気に入らないのか、兄は亨に嫌がらせばかりを繰り返した。おもちゃを盗られる、一生懸命作った工作を捨てられる、自分がしたいたずらを亨のせいにする、そんなことはしょっちゅうだった。しかし、いくらそれを両親に訴えても、彼らは信じず、兄ばかりを可愛がった。
 確かに、兄は幼い頃、天使のように愛らしい容姿をしていたし、それはそれは利発な子供だった。人目を引く華やかな顔立ちでもなく、学校の成績も飛び抜けて良くはなかった亨に比べ、優秀な兄は大人に可愛がられるのも当然。そう思っていた。
 声を上げるのに疲れ、亨はいつしか、兄に嫌がらせをやめさせることも、両親から愛されることも、諦めるようになっていった。大学入学を期に家を出るまで、ずっとそうだった。
 両親が甘やかしに甘やかしたツケは今ごろ回ってきて、彼らは最近傍若無人な長男に手を焼いているらしい。帰ってきてほしいと亨に泣きついてくる始末で、断り続けていたら、今度は女で釣ろうとして見合い話を持ってくる。長男がまだ未婚だから、見合い話が来るとすればまず兄のはずで、亨に回ってきたのは、おそらく兄と『ご縁がなかった』女たちばかりだろう。断ったのか断られたのか知らないが。
 甚だ迷惑な話だ。帰ったところで、亨に家業は手伝えない。物を作る側の自分に経営など畑違いもいいところだ。
 スマホをちらりと見てうんざりする。昨日あんな電話をかけたものだから、母からメッセージが届いているという通知がずらりと並んでいる。IDなど教えなければよかった。ろくに目を通しもせず、スマホをしまう。
 とにかく兄と竹司をこのままにしておけない。ストーカー中の写真を撮られた竹司は、主人に迷惑がかかるのを避けるため、何らかの対策を講じてくるはず。楓にまで被害が及ぶのは、何とかして回避しなければ。

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