(2)君とストーカーと僕

「お前いんのになんでそんなことするんだよ」
「だって、お前、ずっとメッセージ無視してただろ。かなり怒ってんだなって思って」
「送ってたのか? 母親からいっぱいメッセージ来てて、埋もれてたんだな。悪かった。気づいてなかったんだよ」
「……なんだよ、もう」
 何度も何度も胸が潰れる思いでメッセージをチェックしていた、あの時間は何だったのだ。気が抜けて、不覚にも涙が出そうになった。
 亨は楓をあやすように、繰り返し手をさする。
「ごめんな」
「……ううん。俺の方こそごめん。疑ってごめん。それに、亨がいつもより素っ気なかったからって、キレてひどいこと言ってごめん」
「俺はさ、お前のこと、半分しか女じゃないから嫌だとか、半分でも女なのが嫌だとか、そんなふうに思ったことないからな」
「わかってる……。わかってるはずなのにな。どうしてかな」
 ときどきひどく不安になるのだ。彼が楓のことを嫌になって去って行ってしまうのが怖くて。
「俺のこと離さないで」
「お前が離せって言っても離さねえよ。だから安心しろ」
「……うん」
 安心、そうだ、安心してもいいのだ。だって亨はここにいるのだから。でも、きっとまた不安になる。だから、そのときのために雁字搦めに縛られたい。そして、ずっと縛り続けてくれるという証がほしい。そうしたらすごく安心できるはず。近頃のこの欲求は何なのだろう。
「楓、今なに考えてる? 顔見せて」
「やだ。きっとすごいブスになってる」
「お願い。俺だって不安なんだよ。あんな身内がいて、俺のこと嫌になってないかって」
 そんな必要ないのに。楓の方から離れるなんてあり得ないのだから。ああ、そうか。結局亨も同じことを考えていたのかもしれない。
 抱きつく腕の力を緩めると、彼がベッドの隣をたたいてきたので、並んで座った。幼い頃の亨少年も、こうしてベッドに座り、広くてがらりとしたこの部屋の天井を眺めていたことがあったのだろうか。
 どこかに触れていたくて、彼の手を握る。
「確かにさ、兄貴はエキセントリックそのままだし、母ちゃんは超怖いし、父ちゃんは……、ガタイいいぐらいしか印象ないけど、亨は亨だろ。亨はいいやつだよ」
「そうか」
「そうだよ」
 照れくさくて、うつむいて自分の膝を見つめる。亨の方はこちらを向いているのだということは、視界の端に映ったのでわかった。
「充のことなんだけど」
「うん」
「泉田をストーカーさせてたのは、てっきり泉田自身を気に入ったからだと思ってたけど、あれは俺への嫌がらせのつもりだったらしい。なんで今更って感じだよ。一人暮らしを始めてから、全然接触してこなかったのに」
 亨は充から聞き出した内容を説明してくれた。
 弟の恋人と思われる人物をストーカーか。歪んでいる。でも、桜を気軽に連れ去ったあの人ならやりかねないとも思う。
 そこで、胸にしまい込んだはずの疑問が顔を出した。押さえることができず、口からこぼれだしてしまう。
「亨はさ、ミコちゃんのこと好きだったのか?」
「え……」
 意を決して顔を上げると、きょとんとこちらを見返す彼の瞳とぶつかった。
「……どうなんだよ」
「いや、まあ、うん、好きだったよ。高校の頃はね。同じこと充にも言われたわ。お前はあの当時のこと直接知らないのに、よくわかったな」
 それは、亨のことを考えている時間も、観察している時間も、人よりずいぶん長いせいだろう。
 そのときの実琴への好きと今の楓への好きは、どちらが大きいのか聞いてみたかったが、また困らせることになりそうなので、黙っておくことにした。
 甘えるように彼にしなだれかかろうとしたとき、ドアがノックされた。
「亨さん、竹司ですが。充さんのことで少々お話が。入ってもいいですか。入れる状態ですか」
「いいよ」
 できればもう顔を合わせたくない相手だったが、亨は許可してしまう。さっと亨から距離を取った。
「失礼しますよ」
 竹司はやけに慎重に入ってきて、室内をじっくり見渡すと、ドアを閉めた。
 充のこととは何だろう。もう帰ってくるとかそういうことじゃありませんように、と祈っておく。
「亨さん、お話が」
「どうぞ」
「まずはこの度はお騒がせして申し訳ありませんでした」
 頭を下げてはいるが、言葉に重みが全くない。
「親父に謝ってこいって言われたの?」
「はい」
「謝れって言われたから謝るのかよ。お前の意思はどこだよ」
「私自身も申し訳ないと思っておりますよ。旦那様からもう充さんには協力するなと言われましたので、今後私が亨さんにご迷惑をかけることはないかと存じます」
「へえへえ、そりゃよかったよ」
 投げやりに受け流されても、竹司は全く動じない。この家のエキセントリックは、充だけではなくこの男もだ。
「充さんがなぜ今回の騒動を起こしたのか、ご説明しておくべきかと思いまして」
「ああ」
「充さんはご両親が本格的に亨さんを連れ戻そうとしているのを気にしてらっしゃいましてね。もし戻ってこられたら、亨さんに自分の地位を奪われてしまうかもしれませんから。どうにかそれを阻止しようとし、亨さんの弱味を握って帰らないように脅そう、という考えに行き着きました。それで私に亨さんの身辺を探らせていたんですが、恋人らしき人物の存在を知り、それが妬ましくなったようでして。自分が上手くいかないのに、なんでお前は上手くいっているんだってやつですね」
 実に迷惑な話だ。楓が亨の立場なら、胸ぐらを掴んで殴りかかっているところだ。
「それから、充さんの目的は、弱味を握ることから破局させることにシフトしました。あの方はお勉強ができるわりに精神年齢が低くていらっしゃるので、自分の欲求が押さえきれずに行動してしまうんです」
「それがわかっているんなら、お前止めろよ」
「充さんを公私ともにサポートしろと旦那様から言われておりましたから」
「……うん、そうか」
 もう何を言っても無駄だという感じだ。直立不動で淡々と語り終えた竹司は、軽く一礼する。
「私からお伝えすることは以上です」
「ああ、ありがとう」
「なにかご入り用なものは」
「ないよ」
「では失礼します」
 出て行く前に、もう一度深く頭を下げ、竹司は退室した。
 楓はしばらく呆然と彼の消えたドアを眺めていた。
「あの人も相当変わってるよな」
「あいつの世界は親父を中心に回ってるからな。俺にはわかんない」
 『旦那様』に言われたから謝りに来たし、説明に来たのだろう。おそらくあの秘書にとって、あれは仕事の一環でしかないのだ。
 亨が後ろに倒れてベッドに沈んだので、楓も真似をする。床に付いたままの足をばたばたと遊ばせる。
「あの人たちを見た後だと、亨はすっごくまともなんだなって思うよ」
「反面教師ってやつ? ああはなりたくないって念じながら生きてきたからな。でもまあ、高校の時とか道を逸れかけたこともあったけど」
「まともって『普通』なんだよな。普通っていいよな」
「何のこと?」
「結局普通が一番いいってこと」
 ランキングなんぞ作っている女にとっては、つまらないのかもしれないけれど。楓にとっては最高で特別。
 今後も亨と付き合っていく限り、あの兄や秘書、それから威圧感のすごい母親とも渡り合っていかなければならないのかと思うと、正直げんなりするが、亨が味方になってくれるだろうし、楓だってそうだから、きっと大丈夫なはず。そう信じておこう。
 再び彼の手を取って引き寄せると、胸焼けしそうなくらい甘い笑みが返ってきた。
「……なんだよ」
「楓がすごく可愛い顔してたから。なに考えてるのかなって想像してた」
「教えてほしい?」
「すごく」
 近寄ってきた彼の耳元で、大好きと囁いた。

 翌朝。朝食をご馳走になった後、すぐに出発した。伊崎父が竹司に駅まで送らせると言い出したが固辞し、タクシーを呼んでもらった。
 電車内では爆睡し、桜に頭をはたかれて起きた。駅ビルで昼ご飯を済ませた後、桜とは別れた。彼女はこれから買い物をして帰るという。
 亨の住まうマンションへの、通い慣れた道。風はまだ少し冷たいが、先月と比べるとずいぶん暖かくなってきた。来週あたりには桜も開花するだろうと天気予報で言っていた。
 陽射しが眩しくて、目を細めながら空を見上げると、マンションのベランダに、見知った二つの人影を見つけた。実琴と慶人だ。彼らはこちらに気づくと手を振って手招きをする。
「なあ、あれ、呼んでるみたい」
 彼らの方を指さすと、亨もそちらを見上げた。
「行ってくる?」
「お前も呼ばれてんだよ。亨もいるの、あっちからも見えてるだろ」
「でも俺はさ……」
 言いたいことはわかる。実琴が嫌がらないか気がかりなのだろう。でも、これはいい機会だ。彼の手を引く。
「行こうぜ。話さなきゃいけないことあるだろ?」
「……そうだな」
 まずは今回のストーカー事件について、被害者である実琴に伝えなければならないことがある。
 実琴、慶人宅の前まで来て、チャイムを押すと、二人は笑顔で招き入れてくれた。亨がいても彼らの態度は変わらない。よかった。根回しが上手くいったようだ。
 実琴は椅子を勧めてくれ、自身はキッチンに引っ込む。
「昼ご飯は食べた?」
「うん。姉ちゃんも一緒に」
「そっか。じゃあ、いちご食べよっか。慶人の実家からいいのもらってね。飲み物は……」
「カルピスもうないの? この前開けてたやつ」
「いいね。みんなカルピスでいい?」
 実琴の問いかけに、慶人は頷く。
「なんでもいいよー。あ、俺、濃いめがいいな」
 黙ったままなので、横の亨を小突いて促すと、堅い声で答えた。
「はい。それでいいです」
 なぜ敬語なのだ。緊張しているのか。意外と小心者……というわけでもないか。これから説明しなければならないことを思えば。
 四人で食卓を囲み、おやつタイムを始める。ちょうど旬の真っ赤ないちごは、贈答用だけあって大振りでつやつやで、甘くて美味しかった。よく見ると、いちごの入った器もカルピスの入ったグラスも、江野玩具のあめ左衛門柄だ。確か発売されたばかりの新商品だったはず。これも売れるといいのだが。
 いちごをくれた慶人の実家の両親が、孫(慶人の妹夫婦の娘)にメロメロだという話で盛り上がった後、実琴はこちらに話を振ってきた。
「そっちはご実家でどうだったの? 結局お父さんが倒れたとか言うのは方便だったってことでいいの?」
「そう、そうです。あれは欠席するための嘘で……。昨日はストーカーをとっちめるために行って」
 気が張っているためか、イントネーションが少しおかしい。一口カルピスを口に含んだ後、亨は続ける。
「泉田のストーカー、うちの身内だった。黒幕がうちの兄で実行犯が父の秘書でした」
「……え?」
「ごめんなさい」
 亨は事の顛末を順に説明した。実琴と慶人は最後まで黙って聞いていた。

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