「……では、充がいなければいいですかな」
代替案を提示してきたのは、竹司の後ろから入ってきた、六十前後の偉丈夫だ。これが『旦那様』だろうか。彼は熱のこもった眼差しで桜を見つめる充を指し、毅然と命じた。
「充、今から出張だ。現在建築中のホテルの視察に行くように。飛行機のチケットは取ってある。これから出発すれば、明日の朝には着けるだろう」
「え、なんでですか? せっかく桜さんが来てくれてるのに」
「お嬢さんが嫌がっているのがわからんのか!」
息子を一喝すると、今度は秘書に向き直る。
「竹司、お前も今後は充の愚行に協力するのはやめなさい」
「かしこまりました。旦那様」
「そこをなんとかなりませんかねー」
「ならん。行け」
そこにスーツ姿の、ボディーガードのように屈強な男が現れ、充を羽交い締めにする。ずるずる引きずられながら、充は桜の方に手を伸ばした。
「桜さーん。何度運命に引き裂かれても、僕はあなたを愛しています!」
そのまま屈強男に連れていかれる。充のいなくなった室内は、静寂が満ちた。
沈黙を破ったのは、伊崎家の主人だ。
「……玉木桜さんでしたかな。秘書からだいたいの話は聞きました。本当に愚息がご迷惑をかけました」
「ええ、迷惑ですね」
「許してやってくれとは言いません。本当に申し訳なかった」
深々と頭を下げる。桜は冷めた目でそれを眺めていた。
父親がこんなことをしているってどんな気分なんだろう。楓に父はいないから想像するしかないが、きっといたたまれない気持ちがするだろうとは思う。亨は父に言う。
「……親父、お願いだから充をしっかり見張っててくれないか。桜さんの件だけじゃなく、あいつは竹司を使って俺の高校の同級生にも付きまといをやってたんだ」
「あいつはまた……。わかった。全力を尽くすよ」
父は請け合ってくれたが、果たしてこれで安心できるものなのか。この人物が信用できるかどうかは、楓にはまだわからない。
緊張感の漂う室内に、いつの間にか出て行っていた竹司が戻ってくる。
「あの、皆様、お話はお済みですか。奥様がまたお食事にお呼びですよ」
「竹司、お前は反省しとらんのか!」
「反省? 何のですか?」
主人に叱られてもけろりといている。本当に罪悪感がないのだろう。この秘書も、充とはまた別の方向で変わり者らしかった。
「旦那様、そんなことより奥様がですね」
「わかった! 玉木さんも弟さんも、どうですか。こんなことで謝罪になるとは思っていませんが、気持ちです」
桜は楓にアイコンタクトを取ってくる。楓はまだ亨と話したいことがあるし、充がいないのであれば滞在していたかった。視線でそれを察した桜は渋々頷く。
「では、ごちそうになります」
食事は美味しかった。家庭料理ではなく、特別な日に店で食べるプロの料理だ。いつもではないが、経営しているホテルのシェフに交代で来てもらっているのだという。痛風になりそうな生活だ。
美味しいことは美味しいのだが、会話のない気まずい食卓では、素直に食事を楽しめない。楓は元々初対面の人間と話すのが苦手だし、桜は不機嫌に黙ったまま、亨も亨であまり喋る気はないようで、黙々とナイフとフォークを動かしている。ここは伊崎父と母に頑張ってもらうしかない。食事に招いた側なのだから。
伊崎母は絵に描いたような『部下の仕事に厳しい女上司』といった雰囲気で、目の前に座った彼女に楓は内心びくびくしていたのだが、なんとか会話の糸口を探してくれているようだった。
「亨、最近どうなの?」
とはいえ、息子に丸投げである。
「どうって、それなりに元気に楽しくやってるけど」
「そう、それならよかったわ」
「ああ」
会話のキャッチボールは二往復で終了してしまった。
どうやら亨は兄だけではなく両親とも上手くいっていないらしい。人当たりがいいから、誰とでも仲良くやれそうな感じがするのに。
重い沈黙が落ちる。その後も伊崎父と母が何度か会話を試みるもすぐに終わり、全ての皿が出終わった頃に、ようやく亨から口を開く。
「言っておきたいことがあって」
「なあに?」
伊崎母は無言の時間から逃れられそうなのが、単純にうれしそうだった。だが、次に続く言葉で表情を曇らせていく。
「俺、何度言われても帰らないから。今の仕事も生活も気に入っていて、変えたくないんだ。今日帰ってきたのは、充の暴走を止めるためだ」
「なにも今すぐじゃなくていいの。私たちも待つから」
「待たれても困る。俺は帰らない。あなたたちの仕事を継ぐ気はない。充に見込みがないなら、他の後継者を育てて」
なにやら深刻な方向に話が進んでいく。他人がいていい場面じゃない。楓はなるべく気配を殺し、存在感を消すよう努めた。隣の姉はこの空気がまったく気にならないようで、デザートのケーキをひたすら頬張っていた。
親子劇場はさらに重さを増す。
「そう。恨んでるの。私たちのこと」
「そういうわけじゃない。ただ好きに生きたいっていう我が儘だ」
「……わかったわ」
「母さん」
伊崎父が驚いたように母を見る。
はらはらしながら鑑賞していた楓の腕を、桜が横から突っつく。手のつけられていない楓の皿を指さしている。欲しいらしいので、皿を彼女の方に押しやった。小柄なくせによく食べる。
その間も親子劇は進む。
「今までずっと充ばかりで、あなたのことは放ったらかしにしてきたんですもの。今更頼るなって言いたいのもわかるわ」
「そうしてくれると助かる。それから、釣書を何通も送りつけるのもやめて。いちいち送り返すの面倒」
「でも、いいお話ばかりだし、見るだけ見てくれても」
なにやら展開が変わり始めた。釣書ってあの釣書か。楓も見せてもらったやつか。
「やめて。今、俺はこいつと付き合ってるから、いくらいい話でも無理」
亨は右隣の楓を手で示す。しかし、母と父の視線は楓を素通りし、その右隣の桜に移った。
「ああ、桜さん? そうだったの。なんだ、早く言ってくれれば」
「そうじゃなくて弟の方」
「弟? 弟……、ああ、もしかしてオメガなの?」
「そうだけど、別にそれは重要じゃない」
両親の視線がいきなり楓に集まる。特に母の目が痛い。知っている。値踏みされているというのだ、こういうのは。これまで無関係な観客だったのに、無理矢理舞台に上がらされた気分だ。
伊崎母の貼り付けたような笑顔が恐ろしい。
「弟さん、お名前は?」
「……楓です」
「楓さん。まだ学生さんでいらっしゃるのかしら」
「そうです。大学生です」
「ちなみに大学はどちら? ご両親は何をしていらっしゃる方?」
「えっと……」
大学名も母親の職業も、言って恥ずかしいようなものではない。だが、伊崎母の迫力に圧倒されてしまう。圧迫面接ってこんな感じだろうか。
まごついていると、亨が助けに入ってくれた。
「質問攻めやめろ。怖がってるだろ」
「あら、私ったら。ごめんなさいね。息子をよろしく、楓さん」
「……はい」
笑ってはいても眼差しは冷たかったから、よろしくなどとはちっとも思っていないのは明白だった。
だが、亨が両親の前で堂々と楓とのことを言ってくれたのはうれしかった。楓と別れるつもりはなく、真剣に考えてくれているのがわかったから。もしかして、あの見合い相手候補の女と会っていたのにも、なにか理由があるのかもしれない、と希望が持てた。
全員がすでに食事を終えていたので、伊崎母は次の予定について話題を変える。
「それはそうと、玉木さんたち、これからどうなさるの? 今日の宿は決まっていらっしゃる? よかったら我が家に泊まっていってくれないかしら」
「うん、そうだ、それがいい」
伊崎父も賛同するが、桜は迷う素振りも見せず即答した。
「いえ、結構です。私たち、もうホテルを取っているんです」
「どちら?」
「駅前の……」
「IZK?」
「そうです」
「ああ、それならうちの系列だから、キャンセルできるわ。もちろんキャンセル料はいただきません。どうかしら」
桜が楓の方を見た。ここに泊まりたいんでしょ、とまたアイコンタクトを取ってきたので、頷く。まだ全く亨と話ができていない。
「ではお言葉に甘えて」
しょうがない子ね、と桜は耳打ちしてきた。
楓、桜それぞれに客室が用意された。
食事の後、あの両親からは解放されたが、まだ寝るには早い。何をしよう、この三人ですることなんて映画を見るぐらいしか思いつかない、などと考えていたが、桜は早々と、自分の部屋に引きこもって一人で時間を過ごしたいのだと言う。楓と亨に遠慮しているのだろう。いつも図太く厚かましい姉にこんな気遣いをされると気持ちが悪い。
「今日は散々な目に遭っただろ。一人で大丈夫なのかよ」
「大丈夫よ。もうあのエキセントリック馬鹿息子はいないんだから。あんたのお守りもしんどいし、あんまり親しくない伊崎弟と一緒にいるのも疲れるし、一人の方がいいの」
なかなか強情である。桜は子供の頃のように、楓の頬を指でつつく。
「なに、お姉ちゃんと一緒に寝たいの?」
「そんなわけねえだろ。……けど、あの」
「ん?」
「今日はありがと」
ごくごく小声で言った。桜はにんまり笑って、肘で楓の脇腹を小突く。
「どういたしまして」
そして、与えられた客室に引っ込んでいった。エキセントリック馬鹿息子を見た後だと、余計に彼女が良い姉のように思えた。
待ってくれていた亨を振り返る。ゆっくり話をするために、彼が昔使っていた部屋へ行こうと誘われた。
階段で上の階にのぼると、そこに並んでいるのは家族の寝室だという。亨は一番手前のドアを開けた。この家を出るときにあらかた片付けたそうで、あまりものがなく寂しい印象だ。
客室にもこのフロアの家族の寝室にも、それぞれトイレとシャワーが付いているらしい。食事は勝手に出てくるし、世話をしてくれる家政婦はいるし、家というよりホテルだ、ここは。家らしい暖かさがなくて、皆どこかよそよそしいところも。
楓は泊まりの荷物が入ったバッグを適当に放り出すと、ベッドに飛び込む。シーツからは洗い立ての清潔な石鹸の匂いがした。出迎えてくれた家政婦あたりが替えてくれたんだろうか。
「……疲れた」
「悪かったな。いろいろ」
亨はベッドに腰掛ける。本当にいろいろあった一日だった。
大好きな匂いが鼻腔をかすめ、楓はもぞもぞと動いて彼の腰あたりにくっつく。それでは足りなくて、重い身体を起こして背中に抱きついた。くんくんと鼻を動かしていると、胸のざわつきが鎮まってくるような気がする。亨は楓のしたいようにさせてくれている。
「お前が夕方来たとき見た人、あれ、俺が呼んだんじゃないからな。充の嫌がらせの一つで……」
「嫌がらせ?」
「うん。今日、ストーカーやめろってあいつの職場に怒鳴り込んだんだけど、その後逃げられて、家に行くように誘導されて、行ってみたらあの人がいた。充が呼んだんだよ。俺じゃない」
「……俺が見合いでも何でもすればって言ったから、その気になったんだって、てっきりそう」
しがみつく腕の力を強くすると、彼は腹に回った楓の手を握った。