(2)君とストーカーと僕

「泉田が俺の恋人だっていう誤解は解いたから、もうそっちに被害がいくことはないと思う。本当に迷惑かけました」
「でも、今度は楓が危ないんじゃ……」
「大好きな桜さんの弟だから、楓に何かするってことはないと思う。本当にあいつ、異常なほど桜さんに執着してて」
 楓の心配をしてくれる優しい実琴に、亨は桜に対するストーカー案件についても簡単に説明した。実琴も慶人も呆れ顔だ。その気持ちはよくわかる。
「なんとお詫びしていいかわかんない。あの馬鹿たちを警察に突きだすって言われても俺は止めない。なんならあいつらの悪行について証言する。俺にできることはやるけど、直接本人に謝罪させろっていうのは勘弁して。本当、常識にないやつらだから。全く反省してないし……。特に兄は真性クズだから、相手してると精神力がごりごり削られるんだよ。削られるだけ削られて、残るのは疲労とムカつきだけなんだ。本当に本当に善良な人には会わせたくないんです」
 実琴に会わせるべきではないというのは、楓も同意見だ。繊細な彼のトラウマになりかねない。楓だってできればもう二度と会いたくない。
 実琴はフォークを置いて、亨とまっすぐに目を合わせる。
「……うん。いいよ。君の気持ちは伝わったし、僕も直接的な被害にあったわけじゃないから」
「許してあげるの?」
 慶人は意外そうだ。
「だって伊崎くんに怒っても仕方ないでしょ」
「優しいなあ、俺のミコは」
 『俺の』というところが強く聞こえた。慶人も過去の亨の気持ちに気づいて牽制しているのだろうか。慶人はもういい大人なわけだし、楓の考えすぎか。
 亨はほっと息を吐く。
「ありがとう。殴られる覚悟はしてたんだけど」
「君を殴ってどうするの。今日、伊崎くんと話してみてよかった。印象が高校の時から止まってたから」
「あ。それをまず謝らなきゃならなかったか。いや、忘れてた訳じゃなくて」
 亨が再び気を張り詰めさせるのを感じて、楓も緊張する。ずっと謝りたかった彼に、やっとチャンスが来たのだ。
 実琴は笑って首を振る。
「わかってる。いいよ、もう。昔の話だし」
「そんなわけには……」
「じゃあどうぞ」
「ごめんなさい」
「いいよ」
「本当に?」
「うん」
「……ありがとう」
 よくやったと頭を撫でてやりたい気分だった。
 ただ、少し寂しくもある。当時の亨と実琴のいた時間の中に、楓はいないから。まだほんの子供で、小学生だった。
 この部屋にやって来た直後に比べれば、ずいぶん和らいだ空気の中、亨が問う。
「ところで、なんで俺と会ってくれる気になったのか、聞いてもいいか?」
「楓に説得されて」
「ちょっと、言うなよ!」
 内緒にしておくように頼んだのに。実琴は取り合ってくれない。
「いいじゃない。昨日の夜中にメッセージが来ててね。伊崎くんが僕に話さなきゃいけないこと、たくさんあるから、聞いてあげてくれないかって」
 昨日、亨が寝てから、実琴とやりとりしていたのだ。
「……そうなんだ。ありがとう」
「別にそんなの言われることでもねえよ」
 彼の礼も素直に受け取れず、表情を隠すようにカルピスを一気飲みしてから、席を立ってキッチンにお替わりを入れに行く。
「アルファ嫌いの楓のお気に入りだったら、悪い人じゃないんだろうなと思ったし、慶人も喋ってみたら感じがいい人だって言うし、なにより今回の件で一生懸命になってくれたし。僕の方こそごめんね。ずっと避けてて」
「……う、うん」
「あ、今かわいいって思ったでしょ。一瞬ときめいた顔になった」
 慶人の発言に耳が反応し、カルピスの原液のボトルを持ったままキッチンを出る。見逃した。どんな顔してやがったんだ。
「そんなことありません!」
 亨は勢いよく両手を振っている。ひどく焦った風なのも癪に障る。
「いや、俺の目は誤魔化せないね。そういうのに敏感だから」
「慶人、意地悪しないの。楓もそんな睨まない。楽しく食べよう、ね?」
 実琴はその場を取りなそうとするが、簡単に軟化してたまるか。
 原液飲んで胸焼けしてろ、バカ。

 実琴宅で小一時間過ごした後、亨宅に移動した。亨が時間指定で配達依頼していた荷物がそろそろ届く時間になるらしい。
 楓はリビングのソファで不機嫌に横になった。
「なあ、まだ怒ってんの? だから、あれは泉田が簡単に許すから、真宮さんがかわりにちょっと仕返ししたってだけなんだって。あの場であれを本気にしてたの、お前だけだぞ」
 やれやれと言いたいに違いない。楓だってそれくらいわからないわけではないが、現場を見逃したので、変な想像が膨らむのだ。
 むくれたままクッションを両腕で押しつぶす。しかし、絶対に許さないつもりなら、彼の部屋まで来たりはしない。拗ねているのも甘えのうちだ。
 いつもの習慣でテレビのリモコンに手を伸ばしたとき、呼び出し音が鳴った。エントランスのオートロック前からだ。宅配便の配達らしい。オートロックの解除後、部屋のチャイムが鳴らされる。亨は荷物を受け取って戻ってきた。大手通販サイトのロゴが入った小さな段ボール箱を持っている。
 亨が箱を放ってきたので、楓は起き上がってキャッチする。
「……なにこれ」
「あげる」
「貢ぎ物?」
「そんないいもんじゃねえよ。木曜日に頼んでたんだけどさ。こういうのはどうでしょうっていう提案、みたいな? 開けてみて」
 木曜日ならまだ喧嘩していないし、ご機嫌取りのためのものではないだろう。木曜日は会っていないから、さてその前の日はどんな会話をしていたんだったかと思い出しながら、指に力を入れて梱包のためのガムテープを裂く。カッターなど面倒なものは使わない。
 中身は透明なプラスチック製の箱だ。黒い革ベルト二つが鎖で繋がったものが収められている。筆文字で『手枷』と書かれているから手枷というものだろう。楓は眉をひそめて一分間ほどじっくり検分するが、用途がまるでわからない。ストーカーの話はしていた気がするから、捕まえるためのものか。
「これをもらって俺はどうすれば……?」
「お前、最近やってる最中によく縛ってって言うから、こういうことかと」
 やってるって何を、なんてかまととぶるつもりはないが、最中に何て言うって。縛って? 縛られたいとは何度も思った。だが、こんな枷で物理的に拘束されたいわけではない。
 もげるほど首を振る。
「違う違う違う! そういう意味じゃない! ってか、そんなこと言ってねえし!」
「言ってるだろ。何回も聞いてるし。じゃあなに、縄とかそういう本格的な方? 素人が手を出したら怪我するやつだろ。どこで勉強するんだ、あんなの。俺、自信ないなー」
「本気で悩むな! そういうことしてほしいわけじゃない。俺はただ……、もっと精神的な……」
 なんと言えばいいだろう。自分でもよくわからないもやもやしたものを言葉で表現するのは難しい。困ったことに、彼は思いのほか真剣で、楓をからかっているわけではなく、真面目に望みを叶えようとしているらしい。
 ソファの上、ぐいぐい迫ってくるのに気圧されて、目をそらす。
「えっと、だから……」
「できるだけ具体的に」
「そんなんねえよ。お互いを強く縛って絶対に離れないって証みたいなものがほしかったんだよ。そしたら不安じゃなくなるかなって、それだけのことだよ」
「お前、それってさ……」
「……なんだよ」
 またおかしなことを言ったか。笑われる? それとも、重いと嫌がられる?  どちらも良くはないが、まだ前者のほうがましだ。
 だが、彼の反応はどちらでもなく、こっそり確認すると、はにかんでいる。照れているようだ。どういうことなのか。
「いいんだよ。俺は別にいいんだけど。とりあえず大学卒業してからにしような。大事なことだから」
「おい、何のこと言ってんだ」
「絶対に離れないって証がほしいって、もうそれプロポーズだろ? というより、最中の一番盛り上がってるときに言いまくってるんだから、番にしてっていう……」
「はあ? ちーがーうー! 違う! そういうことじゃ……」
 そういうことじゃない。とんだ勘違いだ。おめでたいやつめ。まだまだ結婚なんて必要ないし、番の関係なんてデメリットばかりで、なる意味などない。楓はそんなこと望んでいない。でも……、——でも、死ぬまで互いを縛って離れらなくなる関係とは、なんて甘美で魅力的なんだろう。楓の欲していたものにぴったり当てはまる。そういうことなのか? 楓が心の奥底でずっと望んでいたのは。
 瞬間的に顔が熱くなる。セックスの興奮のどさくさに紛れて、なんておねだりをしていたんだ。
 亨は楓の赤い頬をつつく。桜の真似だろう。
「あ、やばい。可愛い。自分で気づいてなかったとか」
「うるさい!」
 うつ伏せになってソファの手すりに顔をうずめる。接近してくる彼をばた足で押しのける。
「おーい、楓さーん」
「うぅ……」
「そこまで恥ずかしがること?」
 楓の悪いところは、こんな時に憎まれ口をたたいてしまうことだ。
「お前なんか先にミコちゃんのこと噛もうとしたくせに」
「あれは本気で噛む気なんかなかったよ。おふざけおつもりがやり過ぎたんだ」
「知ってる! もう聞いた!」
「じゃあなんで」
「俺ばっかり必死なのが悔しい。納得できない!」
 何でいつも余裕なんだ、こいつは。七才分の人生経験の差か。もっと言うと恋愛経験の差? 元カノ元カレなんかの話は聞きたくないから聞かないが、きっと似たようなことがあったから動揺しないのだ。楓は全部亨が初めてなのに。
「俺も楓とはそうなれたらいいなと思ってたよ。でも、ほら、お前まだ学生だから、慌てることないかなって。もうちょっとじっくり付き合ってさ、それからでも遅くないよ。それに、不安だからなるってのもな。ちゃんと心から信頼してもらえるようになったときがいいよ」
「お前はきっと他でも同じようなこと言ってんだろ。なんか慣れてる!」
「ひどいなあ。初めてだよ。番にしたいと思うほど、誰かを好きになったの。初めてした発情期のときに噛んどきゃよかったって、何度か思ったこともあるけど、楓の気持ちがなきゃ意味ないだろ」
 こんなのリップサービスだ。楓のほしい言葉ばかりで、全部本心であるはずはない。そう思うのに、胸をときめかせて喜んでいるなんて、楓はちょろい。ちょろすぎる。
 楓の足がおとなしくなったのを見計らったように、背に手が付かれ、首筋を舐め上げられる感触がした。
「ひっ……!?」
 全身がざわつき、首筋を押さえて飛び起きる。亨は変わらず上機嫌でにこにこしていた。
「今のところはこれくらいで」
「……バカ!」
 口では悪態をつきつつ、抱き寄せられるのは拒めないのだった。
 春の一日はこうしてのんびりと過ぎていく。あの怪しげな手枷は返品させようと心に決めた。

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