(2)君とストーカーと僕

 亨は本気であの女に乗り換える気なんだろうか。今日実家を訪れたのも、もしかして彼女に会うためか。楓は捨てられる? まだ謝ってもいないのに。
 嫌だ。絶対に離れたくなんかない。彼が縛ってくれなくても、楓はとっくに彼に縛られている。
 桜は青信号になっても動かない楓の背を押す。
「……まあ、とりあえず歩きましょ」
 横断歩道を渡って、元来た道を進む。姉に歩調を合わせていると、自然とゆっくりになる。身長が頭一つ分違って歩幅に差があるから当然だ。
 彼女は何気ない世間話の延長のように喋りだす。
「覚えてる? あんたがクラスメートと取っ組み合いの喧嘩したとき、私がよく迎えに行ってあげたわよね。それで帰り道、こんな風に二人で歩いて帰ったの。家では母さんがご飯を作って待ってくれてた」
「いつの話してんだよ」
「あんたが小学生のときかしら」
「大昔じゃねえか。……うん、でも覚えてる」
 あの時から、この中途半端な性別のことをからかわれてきた。でも、楓はそれに黙って耐えているほどおとなしい子供ではなく、悪口を言われるたび喧嘩をした。口喧嘩ではすまず、殴りあいになることもよくあった。そんな楓を心配こそすれ、姉も母も、喧嘩したこと自体を叱ることはなかった。
 桜はぎゅっと楓の手を握る。
「なんだよ」
「あのときもこうしてたわ」
「やめろよ。恥ずかしい」
「誰もいないじゃない」
 姉の手の温かさと柔らかさは同じだったが、大きさはずいぶん違うように思われた。あの頃の姉の手は大きくて、守られているように感じて頼もしかったものだ。
 あえてその手を振りほどくことはせず、歩き続ける。
「ストーカーだかなんだか知らないけど、あんたは私が守ってあげるわ」
 桜が言うのは何のことかと考えて、ストーカーは次に楓を狙うかもしれない、と亨に言われたことを思い出した。実琴からそのことも聞いていたのだろう。
 ああ、そうか。彼女の行動の意味がようやくわかった。ストーカー事件解決の鍵を握るかもしれない亨を追って彼の実家までやって来たのは、観光目的でも、ましてやランキング更新のためでもなくて、ひとえにストーカーを成敗して楓を守るため。楓はいつまでも小学生ではないというのに。
「……危ないことはやめろよ」
「あら、私は自分のストーカーをぶちのめした実績があるのよ」
「あのときみたいな間抜けとは限らんだろ」
 一昨年の記憶では、あのストーカーは小学生の頃の楓でも本気で殴りかかれば勝てそうなぐらい軟弱な男で、実琴のストーカーよりさらに若かった。
 いつまでも守られてばかりではいけない。楓も強くならなければ。
 姉の手を握り返したところで、前方から車が近づいてきた。それは楓たちを少し通りすぎたところで止まり、またバックで戻ってきて、真横に止まる。
「……なんだ?」
 不可解な動きだ。手を離し、桜を自分の背後に押しやる。
 運転席の窓が開き、眼鏡姿の男が顔を見せる。神経質そうな細面。見覚えがある。
「あ……、ストーカー男!」
 実琴を数週間にわたって尾行していた男だった。亨の言っていたことは真実だったのだ。次は楓を狙うと。
 しかし、男は楓をちらりと一瞥しただけで、桜に尋ねた。
「玉木桜さんですね」
「そうだけど……」
 それは一瞬の出来事だった。後部座席のドアが開く。中から腕が伸びてきて、桜を車内に引きずり込む。運転席のストーカー男ばかりを気にしていて、咄嗟に対処できなかった。
「姉ちゃん!」
 ドアが閉まり、車は猛スピードで走り出す。
 走って車を追いかけたが、すぐに見失ってしまった。確かこの辺で曲がった、とさらなる追跡を試みようとするも、変わり映えのない住宅街が続くだけ。ここだったかとまた別の角で曲がって歩き回っていると、そのうち自分が元いた場所さえわからなくなってしまう。
「どうしよう……」
 呆然と立ち尽くす。なぜ桜が連れて行かれたのだ。女性の方が引きずり込みやすいからか。撮った写真を楓に消させるための人質にするのか。楓の安直な行動がこんなことになるなんて。
 どうしたらいい。情けないが、人に頼ることしか思い浮かばなかった。電話する先として思い浮かぶのも一つだけ。
 スマホを取り出すと、着信通知が並んでいた。すべて亨からだ。かけ直すと、彼はすぐに出た。
『楓、今どこに……』
「どうしよう。姉ちゃんがさらわれた!」
『桜さんが?』
「前から来た車が止まって、中にはストーカー男が乗ってて、後部座席に姉ちゃんが引っ張り込まれて……。俺、何もできなかった」
『ストーカー男って、泉田の?』
「うん。どうしよう? 警察? 警察行く?」
『いや……。たぶんそいつらの行き先はわかる。とりあえず迎えに行くよ。今どこ?』
 周りを見渡すも、似たような住宅街が広がるばかり。
「わかんない……。あいつら追いかけてて迷ったんだ。青い屋根の田中さんちとか茶色い屋根の佐藤さんちとか……」
『それじゃさすがになあ。ビデオ通話に切り替えて周り映せる?』
「ああ、そっか。そうだよな」
 言われた通りビデオ通話にして背面カメラに切り替え、その場でゆっくり一周する。
『向こうの方にあるの、公園だな。もういいよ。すぐ行く。そこから動かずじっとしてろよ』
 楓が返事をする前に通話は切れた。
 喧嘩中なのに普通に話してくれた。さらに助けに来てくれるらしい。もう怒っていないのか。非常事態だから仕方なくか。いや、今は桜のことだけ考えよう。
 焦れったくて足踏みしていると、十分も待たせず、亨は現れた。あれだけ不安だったのに、いつもの見慣れた姿を目にした途端、もう大丈夫だと思えるのは不思議だ。
「……早かったな」
「この辺探してたから」
 桜がさらわれたのを彼が知ったのはつい先ほどだから、探していたのは桜ではなく、実家まで来ておきながら突然逃げ出した楓だろう。
 亨はこちらに向かって力強く頷く。
「もろもろ後で説明する。あいつら直接危害を加える度胸なんてないと思うけど、まず来て。急ぐに越したことはない」
「どこに行くんだ?」
「うちの家。犯人はたぶんうちの兄だから」
「……え?」
「走ろう。時間的にたぶんもうあいつらは家に着いてる。車出せればよかったんだけど、今日は全部出てて、ごめん」
 亨の案内で、伊崎家まで全力疾走した。

 伊崎家に着いたときには、完全に息が上がっていた。汗をにじませ、ぜいぜいと肩で息をする二人を出迎えたのは、前掛け姿の五十代くらいの女性だった。丸々とふくよかで温厚そうだ。
「あらあら、亨さん、いったいどうなさったんです?」
「充は……?」
「奥の方の応接室でお客様といらっしゃいますよ。そちらの方は?」
「俺の客」
 まだ上手く喋れなかったので、楓はとりあえず頭を下げておいた。
 迎賓館のような吹き抜けのエントランスを抜け、廊下を奥へ。息を整えながら、亨に何とか付いていく。
「……あの人母ちゃん?」
「家政婦さん。俺の生まれる前からここにいる人だから、半分母ちゃんみたいなもんかな?」
 生まれたときから家政婦のいる生活か。そんなのテレビやアニメの中でしか知らない。
 亨は廊下の中程にあるドアを開け放つ。中のソファには桜と、その向かいに三十前後の男が座っていた。眼鏡のストーカー男はいない。桜が無事のようでひとまず胸を撫で下ろした。
 亨は大きく息を吸い込み、声を張り上げる。
「おいこら充! お前、ストーカーの次は人さらいか。本気で警察に突き出すぞ!」
 こんな大声が出せるのかと驚いた。激しく怒っているのは明白だ。普段楓が面倒な我が儘を連発しても、苛立ちを見せることすらないのに。
 しかし、おそらく兄なのであろう充氏は、あの大声がなかったかのように聞き流し、楓に笑いかける。
「やあ、さっきはごめんね? びっくりしたよねー。まさか君が桜さんの弟だなんて知らなくてさ。車から手を繋いでいるのが見えたから、てっきり悪い男に騙されてるんじゃないかと」
「悪い男はお前だろうが」
 またもや亨は無視される。
「桜さんもごめんねー。柄の悪い弟で」
「……ちょっとどういうことか説明してくれるかしら、伊崎弟。さっきから伊崎兄と会話が成立しないんだけど」
「えー、どうしたの、桜さん。聞きたいことがあったら僕に聞いてよ」
「お前は黙ってろ、伊崎兄」
 声を荒らげてはいないが、桜の方もかなり怒っているのは伝わってくる。
「私は一昨年こいつにストーカーされてたの。でも、拳で撃退してそれっきり。なんで今更拉致されてんのかしら」
「……そうだ、こいつあのときのやつか!」
 楓も思い出した。二年前、桜は出張先のホテルで従業員にロックオンされ、家に戻ってからもしつこく付きまとわれた。目の前にいるのはあのときのストーカーだ。楓が実際顔を合わせたのはほんの数回だから、すぐにはわからなかったのだ。
 それにしても似ていない兄弟だ。顔の造形自体は似ていないこともないが、雰囲気が全く違う。兄の方はひどく軽薄な感じがした。
 亨はこめかみのあたりを押さえて重く息を吐く。
「泉田の前にターゲットにされてたのは桜さんだったってことか……」
「え、ミコちゃんのストーカーはあいつだろ。さっきの車の運転手。俺、写真撮ったもん」
「実行犯はあいつ……、竹司だけど、黒幕は充だよ。竹司は充の命令で動いてた。ちなみに竹司は親父の秘書」
「あんたの家どうなってんのよ!」
 楓も桜に同意だ。父親の秘書が息子のストーカー行為に協力するなんて。
 噛みつくように怒鳴られた亨は完全にとばっちりだったが、恐縮していた。
「本当に申し訳ないとしか言い様がありません……」
「ねえ、三人で何の話? 僕も混ぜてよ」
「お前の話だよ」
「僕と桜さんがお似合いだって話?」
「違う」
 この男の耳はどうなっているのだろう。音量を絞ってはいなかったから、会話はすべて聞こえていたはずだが。聞きたくないものは雑音と認識して耳に入れない便利な機能でも付いているのか。さらに、桜の怒気や嫌悪も感知しないらしい。
「運命のいたずらで引き裂かれた僕たちだけど、こうしてまた再会できたなんて奇跡だね! 神様が僕らを祝福してるんだって思うよ。桜さん、僕と結婚してください」
「絶対イヤ! 玉の輿狙ってるけど、いくらなんでもこんなエキセントリック馬鹿息子はイヤ!」
 自分に酔った恍惚の表情は、プロポーズを一刀両断されても崩れない。嫌悪感の限界を超えたらしい桜は、顔を引きつらせたまま固まってしまった。
 楓もアルファ男にしつこくされた経験は何度もあるが、こんなタイプは初めて見た。精神を蝕まれそうな怖さだ。貞操の危機を感じる、というのとはまた別次元の怖さ。亨が兄と不仲なのも、これでは仕方がないと思われる。
 隣に目をやると、亨も唖然として兄を見ていた。ここまで重症だったか、とでも言いたげだ。ちょいちょいと彼のシャツの裾を引っ張る。
「どうすんの、あれ」
「止めるよ。止めるけど……」
 さて、言葉の通じない相手をどうやって止めるか。顔を見合わせていると、ドアがノックされた。
「あの、お取り込み中のところ申し訳ないですが」
 うっすらと開いたままのドアから現れたのは、実琴のストーカーを代行していた竹司とかいう男だった。自分はまるで無関係というような涼しい顔をしている。
「旦那様と奥様がご帰宅されまして。皆様ご一緒に夕食はどうかということなんですが。もちろん玉木様も」
「嫌よ! 嫌に決まってるじゃない。こいつの顔を見ながらご飯なんて食べたくないわ」
 桜の叫びに楓も小さく頷いて賛成した。桜と亨と共にここを出られれば一番いいのだが。

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