(2)君とストーカーと僕

 兄の居場所を知るためには、母に聞くのが確実だが、不用意に電話をかけて、また帰ってこいと連呼されるのも厄介だ。それに、亨から電話があったと母から兄に連絡がいくと、兄に逃げられるかもしれない。変なところで勘が鋭いやつだから。まずは一番可能性の高いところに行ってみることにした。
 早めの昼食を軽く腹に詰め込んでから、駅を出てタクシーを拾い、両親が経営するホテルの一つへ向かう。遊園地の側に建つリゾートホテル。最近兄の職場はそこがメインになっている、というのは、母の愚痴の中から拾った情報だ。
 春休み中、しかも土曜日なので、ロビーは混雑していた。手っ取り早く総支配人室に突撃したいところだが、関係者以外入れるはずはない。
 亨の顔を覚えていそうな知り合いを探していると、ばったりと件の竹司と出くわした。仕立てのいいスーツを隙なく着こなし、軍人のようにきびきび歩く眼鏡の男は、実琴を尾行していたときの奇妙な変装姿とはかけ離れて見えるが、間違いなく同一人物だ。
 彼は亨を認識してぴたりと立ち止まると、丁寧にお辞儀した。
「ああ、亨さん。お久しぶりでございます」
 この男と向き合っていると慇懃無礼という言葉が思い浮かび、昔から苦手だったが、今はそんなことを言っていられない。下手に出ると負けるので、意識して高圧的な態度を取る。
「充、いるだろ。連れてって」
「お仕事中でございまして」
「いいから連れてけ」
「そういうわけにも」
 案の定、のらりくらりと躱そうとしてきたが、引き下がってなどやらない。早めに切り札を出した。
「ストーカー」
「……はい?」
「知ってんだぞ。お前のやってることは。どうせ充の命令なんだろ。俺が話をつけるから」
「さて、何のことやら」
 よくもまあ白々しくとぼけられるものだ。亨はさらに畳みかける。
「お前のボスは親父だろ。親父にだけ尻尾振ってろよ。警察に突き出されたくなかったら、さっさとしろ」
「……はあ。警察沙汰になれば、旦那様にもご迷惑がかかりますしねえ。わかりました。行きましょう」
 やれやれ、我が儘な坊っちゃんだ、とでも言いたげな口振りだった。殴ってやろうかと思ったが、拳を上げるのは堪えた。
 従業員専用エレベーターを使って総支配人室のあるフロアに上がる。
 連れて来られたのは調度品が無駄に豪華なだだっ広い部屋だ。兄は派手好き、さらに『高いものは良いもの』と思い込んでいるタイプで、一つ一つの家具の主張が強すぎて、全く調和が取れていない。昔から芸術的センスが壊滅的なのだ。客室はさすがにこうではないとは思うが。
 いるだけで気分が悪くなりそうな部屋の中で、さらに気分を下降させるに違いない人物が、窓際の大きなデスクの前で偉そうに座っていた。
「やあ。久しぶりだね、亨。突然どうしたの?」
 わざとらしい作り笑いを浮かべるその男は、容色が衰えてくるような年でもなかったが、性格の悪さが顔に滲み出ている。
 姿を見ただけで、昔の恨み言が口から溢れ出しそうになるのを押さえ込み、早速本題を切り出す。
「すっとぼけるつもりか。竹司を使って泉田実琴にストーカーしてたのはお前だろ」
「そんなに怒んないでよ。別に、まだ直接何かやったわけじゃないでしょ?」
「まだって、次に何かやるつもりだったのか」
「内緒」
「あ?」
 充は唇の前で人差し指を立てるが、もう三十になる男がやっても周りを不快にさせるだけだ。いつまで美少年のつもりでいるんだ、こいつは。こんなのに従業員は付いてくるのだろうか。
 自分を勘違いしている男は、さらにとんでもない勘違いしていた。
「ねえ、そんなに彼が大事? そうだよね。恋人だからね」
「は? 俺と泉田が? なんでそうなるんだよ」
「誤魔化そうとしたって無駄だよ。調べはついてるんだから」
 彼はべらべらと自慢げに話し始める。
 亨の身辺を探るように充から命じられた竹司は、まず亨の地元の友人に聞き込みし、ある情報を得てきた。亨は去年八月末頃、出張で出てきた地元の同級生数人と久しぶりに集まった。そのときに話題になったのが、「高校の同級生泉田実琴が、小学校の同級生の父が経営する会社で働いているらしい」ということ。亨はその話題について詳しく聞きたがり、彼に一度謝りたいと言っていた。
 泉田というのは聞き覚えのある名前だと充は思い、なんとか記憶をひっかきまわすうちに思い出した。高校のとき、泉田実琴を亨がいじめ、不登校にさせたとして問題になったのだということを。たしかオメガで、亨が噛む振りをしたのを怖がったのだという話。
「あのときは思ったものだよ。亨は泉田くんのことがすごく好きだったんだろうなって。約十年ぶりに恋が実ったんだね。おめでとう」
 ということは、充は自分が気に入ったから、ではなく、亨の恋人だから、追いかけ回していたということか? なぜ今更そんな嫌がらせを? 家を出てから、一切接触がなかったのに。
 ひとまず突拍子もない誤解を訂正しなければ。
「……おい、あのな、違うぞ。泉田には番がいて、彼と同居している。泉田の番とも俺は知り合いだ」
「嘘だね。だって同じマンションに出入りしてるって竹司が」
「嘘じゃねえよ。知り合いが貸してくれるっていうのが、たまたま泉田と同じマンションだっただけだ。部屋が違う。調べるんならちゃんと調べろ。勘違いなんだから、ストーカー出動させるのはもうやめろよ。マジで警察に突き出すからな」
 素人のずさんな調査による思い違いから、無関係な他人に迷惑をかけて、こんな兄、前科持ちになっても一切胸は痛まない。
 彼は反省する様子を微塵も見せず、唇を尖らせる。だから、そういうのやめろ。気持ち悪い。
「……えー。じゃあ、今までやったの無駄だったってこと? で、結局誰と付き合ってるの?」
「いねえよ、そんなやつ。いても言うか。ってか、なんで今更俺に嫌がらせを——」
 ——コンコン。
 ノックの音がして、外から女の声がする。
「お話し中のところ申し訳ないですが」
「どうぞ」
「失礼します」
 ドアが開いて、スレンダーな若い美人が顔を出す。おそらく充の好みなのだろうと思った。
「先方、お見えになりました」
「はいはい。じゃあ行くよ」
 充は立ち上がる。まずい。運良くすぐに捕まえられたのに、ここで逃しては次の機会があるかどうかわからない。
「おい。話はまだ終わってないぞ」
「君と違って僕は忙しいの。一時間もあれば終わる。逃げないから。ここで待ってて」
 ひらひらと手を振って、充は出て行ってしまう。ここで引き留めては客に迷惑がかかるので、行かせるしかなかった。
 しかし、一時間を過ぎても、充は戻ってこない。もしかしてもしなくても、逃げられたか。
 総支配人室を出て探し回っていると、一階下のフロアで、先ほど部屋に呼びに来ていた女を発見した。彼女曰く、
「え、とっくにお帰りになったと思いますけど」
「やられた……!」
 ……いけない。ここでぶち切れては。あいつはああいうやつで、こちらが腹を立てれば立てるほど面白がって調子に乗る。
 爪の跡が残るほど拳を握りしめながら、直接充の番号に電話をかける。
『……はい』
 出たのは竹司だった。
「お前ら、どこにいる」
 背後でケタケタ笑い声が聞こえる。我慢しろ、我慢しろ。怒った方の負け。自分の自制心を褒めてやりたい。
『もうご自宅です』
「……わかった。今から行く」
 電話を切って、またタクシーに乗った。
 ホテルから県境を越え、実家まで。意外と遠く、途中渋滞に捕まったこともあり、二時間以上かかってしまった。サラリーマンには痛い出費である。
 この時点で、もうおかしい気はしていた。充が総支配人室を出て行って一時間と少し経った頃に電話をかけると、もう自宅だと言っていた。しかし、実際実家までタクシーでかかったのは二時間。充も車移動だろうから、渋滞の有無の関係なのか?
 大学入学を機に家を出てから一度も帰っていなかった実家では、古参の家政婦が迎えてくれた。彼女によると、まだ充も竹司も帰っていないと言う。
 またやられた。一度ならず二度までも。あのタクシー代を払うのなら、ゲムステなんちゃらを買った方がよっぽど有意義だ。楓が喜ぶのに。元より兄を信用していたわけではなく、だまされるのも覚悟の上だが、無駄な出費は悔しい。
 この家には現在充も竹司もおらず、ついでに言うなら父も母も仕事でいない。かわりに、応接室では亨の客だという女が待っていた。
「はじめまして、亨さん。松永リサです」
 楚々としたワンピース姿のご令嬢。両親の送りつけてきた釣書の女だった。見合い話は確かに断ったはずなのだが。
「あの、なぜこちらに……?」
「充さんから連絡をいただきましたの。亨さんが急遽帰ってくることになって、私と会いたいと言ってくださってるって。今日はお仕事もお休みでしたし、嬉しくて飛んできちゃいました」
 充め。これも嫌がらせのうちか? しかし、目の前の女性に罪はない。怒りをぶつけるようなことはしてはいけない。申し訳なさそうな顔と声を作りながら、いかにも言いにくそうに話す。
「お会いできて大変光栄なんですが……。何か兄に伝え間違いがあったんでしょうかね。俺はまたすぐに出ないといけなくて」
「まあ、何てことでしょう。亨さんとお話しできるのを楽しみに、ずっと待っていましたのに……」
「……え、いや、あの」
 彼女はハンカチで目頭を押さえる。こういうときの対処法のマニュアルを亨は持っていない。これでは彼女をいじめているようだ。もう二度と加害者になんてなりたくないのに。
 うっすら涙の浮かぶ瞳で見上げ、彼女は亨の手を取る。
「少しだけでいいんです。お茶一杯だけ、付き合っていただけませんか?」
 これははたして浮気になるんだろうか。話をするだけなのだから、自分の感覚からすれば浮気にはほど遠いが、バレたら確実に怒られる。
 昨日の様子からして、楓はかなり思い悩んでいたようだった。自分に自信があるように見えて、自分の性別にかなり強いコンプレックスを持っているのはわかっていたのだから、見合い話を伝えるにしても、もっと言い方や時期を考えれてやればよかった。そもそも、彼の目の届くところに釣書など置いていたのが間違いだ。たくさん来すぎて気をつけなければならないものだという感覚が麻痺していた。
 後ろめたいことはしたくない。だが、亨が子供の時からこの家にいるベテラン家政婦の目が痛い。
「……はい」
 お茶一杯だけ。それで帰ってもらおう。

 いつの間にか、楓は走り出していた。早くその場を離れたい一心だった。
 夕暮れ時の住宅街を駆け、赤信号で止められたところで、やっと桜が追いついてきた。
「あんた、どうしたのよ!」
「……」
「黙ってちゃわかんないでしょ」
「あの女が……」
「誰? さっき伊崎といた人? 知ってるの?」
「知ってるっていうか……」
 心臓が痛いのは、走りすぎたせいだけではない。
 亨の隣にいたあの女。一度写真で見ただけだが、亨の見合い相手の候補だったことは知っている。
 楓がその事で気を病んでいたことを知っているにも関わらず、それでも亨は彼女と会っていた。それがひどい裏切りのように思えてならなかった。いや、見合いでもなんでもすればいいと言ったのは楓だから、裏切りにはならないか。

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