(2)君とストーカーと僕

「もうギリギリよ! 色気付いた弟のせいでね」
「色気付いてねえわ! さっさと行けよ!」
「わかってるわよ」
 小さく舌を突き出し、桜はジャケットと先代彼氏に買ってもらったというバッグを持って出て行く。
 途端に静かになった部屋で、楓は先ほどまで桜が使っていた椅子に座り込む。朝からどっと疲れた。
「……ありがと。母さん」
 母が間に入ってくれなければ、まだ桜の尋問は続いていたに違いない。
 幼い頃からそうだった。楓は母に叱られた記憶がほとんどない。怒るのはたいがい桜の役目で、母はいつも桜をなだめ、泣きじゃくる楓をあやした。
 彼女は首を振る。
「いいのよ。ねえ、楓」
「ん?」
「私の実体験から言うんだけど、結婚する前に子供持っちゃ苦労するわよ。まあ、あなたたちを産んだことを後悔したことはないんだけど、生活は苦しかったからねえ。気をつけなさいね」
 桜を身籠もった当時、母にはアルファの恋人がいたが、妊娠が判明すると、彼は彼女に別れを告げた。その後彼女は未婚の母として桜を育て、桜がようやく手のかからない年になったころ、また別の男と恋に落ちる。その男もアルファだった。彼に桜もよくなついていたらしいが、楓ができたのがわかると、彼も去って行った。苦労の多い人だが、母はいつも穏やかで、いつも楓や桜の味方だった。
 母にこういった類いのことを言われるのは複雑な思いだが、忠告はありがたく受け取っておく。
「……うん。わかってるよ。ちゃんとしてるから。その辺は」
 初めてのとき以外は、という注釈付きだが。
「そう。ならいいの」
 母は桜のようにしつこく言うことはせず、着替えのため寝室に戻った。
 楓も自室に行って実琴から借りた本を取ってくると、バイト先へ急いだ。

 春休みの間、楓は平日ほぼ毎日、アルバイトのシフトを入れていた。
 江野玩具が誇るキャラクター、『うさのすけ』と『あめ左衛門』のグッズがテレビで取り上げられたことで売り上げが伸び、人手が必要らしい。亨も平日ずっと仕事だし、特に予定もないので、シフトを入れてもらえるのはありがたい。
 江野玩具の事務所前に着いたのは、始業時間の十分前だった。姉のせいで遅刻するかと思ったが、ぎりぎり間に合う電車に乗れてよかった。
 建物内に入っていこうとしたところ、一人の男に声をかけられた。
「あの、よろしいですか?」
 振り向くと、そこにいたのは妙な風体の男だった。きっちりとした細身のスーツ姿なのだが、サングラスをかけ、おばさんの日除けのようなつば広帽子をかぶっている。なんだろう。怪しい。ものすごく怪しい。不審者オーラが全身から放たれている。
「少々伺いたいことがありまして」
「……はい?」
 楓は早くこの場を離れたかったが、男はぐいぐいと迫ってくる。
「こちらの会社の従業員の方ですか」
「ただのバイトだけど。社員呼びます?」
「結構です。こちらにお勤めの泉田実琴さんのことですが」
「はあ」
「彼はどういった方ですか」
「真面目でいい人ですよ」
「ほうほう。それでですね」
「……あの、時間あるんで行っていいですか」
「そうですか。残念です。どうぞ」
 男は食い下がることなく行かせてくれた。
 楓は逃げるように事務所に入り、タイムカードを始業五分前で押すと、一直線に実琴のデスクに向かった。
「ミコちゃん! 今外にめっちゃキモいやついた!」
「あ、それってサングラスに帽子の人でしょ?」
 実琴の隣のデスクで作業していた社長夫人が応じる。楓は首肯する。
「そうです。ミコちゃんがどういった人かって聞かれました」
「私もなのよ。うちの旦那も信太郎もパートさんたちもだって。怖いわねえ」
「え、それってストーカーみたい」
 たいそう気味の悪い話だ。
 信太郎、江野信太郎とは江野玩具の社長の長男で、ここの従業員でもあり、実琴の小学校の同級生でもある。人懐こいのでパートのおばさんたちにも可愛がられており、楓にも親切にしてくれていた。その信太郎の他何人もあの不審者に話を聞かれていたという。
 実琴は明らかに元気のない様子だった。
「……やっぱりそうなんでしょうか? 実は、二週間ぐらい前から、誰かに跡をつけられているような感じがしていて。四六時中というわけではないんですけど、毎日必ず、外を歩いているときに誰かの気配を感じるときがあって……」
「ミコちゃん、それ、絶対ストーカーだよ。気を付けた方がいいって。慶人(よしと)には迎えに来てもらえないの?」
「あっちの方が帰ってくるのが遅いから、難しいね。家はここから近いし、大丈夫だよ」
「近いとか関係なく危ないよ。今日は俺と一緒に帰ろ」
 事務所の前の通りは、夜人通りが少ない。物陰に引きずり込まれてしまっては、大声を出しても誰にも気づいてもらえないかもしれない。
 一昨年のことだったか、桜もストーカーに付け狙われたことがある。あのときはストーカー男が職場に突撃してきたり、家までついてきたりと大変だった。か弱い乙女の外面の中にゴリラのようにたくましい本性を隠し持った桜は、ほぼ一人で撃退してしまったが。実琴はそういうタイプではないので心配だった。
 社長夫人も楓の提案に同調する。
「それがいいわよ。楓くんがいない日は信太郎に送らせるわ」
「そんな、悪いですよ」
「それこそ近いんだから、ちょっと行ってくるだけじゃない。遠慮しないで。私たち、家族みたいなもんでしょ」
「……ありがとうございます」
 実琴はぺこりと頭を下げる。
 こういうときに人から助けてもらえるのは実琴の日頃の行いが良いからだ。彼は皆に愛されていて、それにふさわしい善良な人間だった。

 姉と喧嘩したその日は、また騒がれると嫌なので家に帰ったが、次の日はもう亨のところに泊まりに来ていた。
 会おうと思えば会えるのに、自宅で一人でいるというのは耐え難い。いてもたってもいられずに夜中でも彼の元に駆けつけたくなってしまう。
 行き過ぎなのか? もう依存症の域かもしれない。だが、自分でこの衝動を抑えるのは難しい。桜が反対するだろうが、いっそ実琴のところのように一緒に住めたらいいのに。そうしたら毎日一緒にいられる。
 亨もそう思ってくれはしないか。彼はいつも優しかったが、もっと執着を見せてほしいと思うことがある。一日だって離したくないと言って、楓をこの場所に縛ってくれればいいのに。
 ——そんな妄想を、亨の帰りを待ちながら、夕飯のハンバーグの準備をしているときにしていた。最近、よく考えていることだ。縛られることを望むのは、おそらく心のどこかで不安を抱えているからだ。男としても女としても中途半端であることを、ずっと馬鹿にされて生きてきた。いつか彼がそんな楓を嫌になるのではないかと、ふとしたときに思ってしまう。
 不安なんて感じなくてすむように、強く縛って離さないでほしい。——本人にはこんなこと、とても言えないが。きっと呆れられるから。
 楓の悩みが詰まったハンバーグは、「ずぼらなおかん」レベルにしては手間をかけただけに、美味しくできていた。食後の後片づけは亨がしてくれると言うので、楓は休憩だ。テレビの音だけ聞きつつ、カーペットにうつ伏せになって、スマホで熱心にネット検索をしていると、彼がのぞき込んできた。
「痴漢撃退スプレー? 今度は痴漢かよ」
「痴漢じゃなくてストーカーだよ。襲われそうになったときに役に立ちそうだろ。手作りすることもできるらしいぞ」
「はあ? お前、ストーカーされてんのか?」
 その声色は思いのほか深刻だったので、振り向いて訂正する。
「俺じゃないよ。ミコちゃんの話」
「泉田が?」
「うん。尾行されるって言ってた。俺もストーカーに会ったんだけど、超変なやつだった。スーツなのにサングラスと帽子だぞ。しかもおばさんみたいなつば広帽子。見るからに不審者」
「え、なに、会ったの?」
「会社の前で声かけられてさ。ミコちゃんのこと聞かれた。会社の人ほとんどみんなだって。ミコちゃん、慶人と警察に相談に行くみたい」
 さきほど来たメッセージに書いてあった。
 楓は身体を起こしてカーペットに座り直す。もう後片づけは終わったようで、ソファの亨はエプロンを外していた。彼のエプロン姿はなんだか可愛らしくて好きだ。背の高さにエプロンの丈が合っておらず、子供用を着ているようなのだ。面白いからもっと見ておけばよかった。
 いったんスマホは置き、テレビのリモコンを握って、ザッピングを始める。
「大丈夫かな。ミコちゃん」
「仕事場の周りうろちょろしてんだったら、お前も気をつけろよ」
「今のところ、直接危害を加えるようなことはしないみたいだけど心配。ミコちゃん可愛いから」
「そうだな。でも、そんなやつ何するかわかんねえんだから、変な正義感出して絶対近づくんじゃないぞ」
「わかってるよ」
 そうだな、か。可愛いと思っているということか。自分で話を振っておいて引っかかる。彼が何となく同意しただけなのはわかっていた。だが、もやもやする。
「……前から思ってたんだけど」
「なんだよ」
 ——高校生の時、ミコちゃんのこと好きだったの? 好きな子ほどいじめたくなるってやつだったんじゃないの?
 なんて聞けるわけもない。肯定されれば、実琴を嫉妬の対象にしてしまいそうで嫌だ。
 今の彼の気持ちを疑うわけではないが、今もこれまでもこれからも、全部がほしいと思ってしまう。自分がここまで欲深な人間だとは知らなかった。時間が経つほど好きになって、好きになるほど依存症が重症化する。楓にこんなじめじめした部分があるなんて、彼には知られたくない。
「……なんでもない」
「言いかけてやめんなよ」
「ほんとになんでもない」
 会話に区切りをつけようと立ち上げる。冷蔵庫の水を取りに行こう。
 自分が思っているより焦っていたのか、踏み出した足がローテーブルにぶつかる。幸い大して痛くはなかったが、テーブルに積まれた郵便物や新聞が床に落ちた。
「気をつけろよ」
 拾い上げるのを彼も手伝ってくれた。適当に掴み取って上にあげていると、その中から一枚の写真が滑り出てくる。女性のスナップ写真で、亨や桜と同世代の品の良いお嬢さんが、カメラに向かって微笑んでいた。他人の容姿に対しては辛口の楓からしても、かなりの美人だ。清楚に見え、しかもグラマーじゃないのか、この膨らみから察するに。
 写真を凝視する楓の手元を見ても、亨に焦った様子はなかった。
「ああ、封筒から出てたか」
「なにこれ。元カノ?」
 元カノだとすれば、かなりの面喰いだ、この男は。楓のこともあれか、やはり顔が好みなだけなのか。
 だが、すぐに否定の言葉が返ってきた。
「違う違う。会ったこともねえよ。釣書についてた」
「釣り? 釣り所? 魚釣り?」
「見てみる? こういうのって隠してる方が怪しいし」
 拾い上げられた郵便物の中から一通の封筒が渡される。裏返してみると、差出人は『伊崎誠一』。
「それ父親。中見ていいよ」
 伊崎パパは釣りが好きなのか? この写真の女と関係あるのか?
 他人宛の手紙を見るのは気が引けるが、本人の許可があってのことだ。中身は白地の便箋で、触り心地で上等な紙だとわかる。広げてみると、そこには美しい手書きの文字で、女性の名前や経歴、資格、趣味、両親や兄弟の情報などが書かれている。個人情報の塊。
 全く魚釣りは関係なさそうだ。趣味の項目に釣りという文言もない。

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