(2)君とストーカーと僕

 これまでこんな風に尊大に、彼が楓に命令してきたことはなかった。偉そうにあれをしろ、これをしろと言いつけるのは楓の方で、彼はたいていの場合寛大にそれを受け入れてくれていた。そうやって甘やかされるのは、本当に心地良いものだった。
 本当は腹に据えかねていたのか。もうお前の我が儘など聞くか、黙ってこっちの言うことを聞け、ということ?
 彼はやっと目を上げてこちらを見たが、いかにも面倒そうだ。
「だから……。いや、今日はもう帰って。送ってくから」
「はあ!?」
「苦情は帰ってきてからいくらでも聞いてやる。今日は勘弁して」
 ただただショックだった。突き放されるのが。追い払われるのが。拒絶されるのが。心の奥底に仕舞った願望が主張し始める。楓は縛っていてほしいのに。離さないでほしいのに。
「そうか。そうかよ。言われなくても帰ってやるよ! バカ!」
 腹から大音量を出して、故意に足音を立てながら玄関に向かう。隣から苦情でも来ればいい。彼はその後を追ってくる。
「送ってくって」
「いらねえよ。いつも一人で帰ってるし。亨さんはお忙しいみたいですから!」
 勢いよくドアを開けて外に飛び出した。エレベーターホールまで駆けて、ボタンを連打する。早く来い。早く来い。いや、来るな、か? すぐに亨はここまで追いついてくる。
「楓、待てってば」
「ついてくんな! お前はとっとと可愛いお嬢様と見合いでもなんでもすれば? 俺みたいにギャーギャーうるさくなくて、お前の言うことなんでも聞いてくれるだろうよ」
「だから、それは断ったって言ってるだろ。いつの話を蒸し返してくるんだ」
「あのとき俺が写真を見つけてなかったら、そのまま見合いする気だったんじゃねえの? どうせ俺は可愛くないし、半分だけしか女の子じゃないから!」
 意識しなくても大声になる。エレベーターホールは声が響くから、在宅している住人にとってはいい迷惑だろう。
 感情的になりすぎている。こんなこと、言うつもりじゃなかった。この不安はずっと胸の内に秘めておくつもりだった。言えばこの関係にひびが入ってしまいそうだから。案の定、楓は彼を怒らせたようだ。
「お前な。いつ俺がそんなこと言ったんだよ!」
「言われなくてもわかるんだよ。半分だけしかないのが嫌だとか、半分でもあるのが嫌だとか、いつか言い出すに決まってる! みんなそうだ!」
「誰と比べてるのか知らねえけど、お前が決めるな。俺は——」
 騒々しい喧嘩の仲裁をするように、エレベーターが止まる。扉が開くと、中にいたのは実琴と慶人だった。実琴は口論真っ最中の二人を見て、首を傾げる。
「楓? と……」
「ミコちゃん、俺も乗る」
「待て」
 歩き出しかけた楓の手首を亨が掴んで引き止める。振り払おうとするが、強く力を入れられていてできない。
「……伊崎くん、また楓に何かしてるの?」
 実琴が降りてくる。その表情はいつになく険しい。
「楓、嫌がってるよね? やめてあげて」
「俺は……」
「この手を離して」
 実琴も楓の腕を取って軽く引く。すると、亨は手を離した。
 ——離すんだ……。
 あまりにも簡単に諦めて、失望する。
 繋ぎ止めてはくれないの? もっと強く縛ってはくれないの? もういらない? 縛ってよ。離さないで。楓が必要なら。
「行こう、楓」
 実琴に促され、後ろ髪を引かれながらエレベーターに乗る。
「あの」
 亨は声のトーンを上げる。
「例のストーカー、次は楓も狙うかもしれない。写真撮ったとき、顔見られたと思うから。今日でも明日でも、家に帰るときは送ってやってほしい」
「……わかった」
 返事をしたのは慶人だった。彼が押し続けていた開くボタンを離すと、扉が閉まる。ゆっくりと下降していく。
 彼らは買い出しに行くところだったらしいが、明日に回してくれるらしい。いったん一階に着いてから、また上昇していった。

「もうわけわかんねえ!」
 食卓で実琴の入れてくれたコーヒーを飲んでも、腹立ちは到底収まらない。実琴は心配そうに身を乗り出す。
「何があったの? 部屋に連れて行かれそうになった?」
「部屋には自分で行った。でも、突然あいつ帰れって」
「帰れって言われたの? 引き留められてたように見えたけど」
「送るって言ったのを俺が拒否したから」
「うーん……」
 気が立っていてまともな思考のできない楓は、問われたことに端的に答えるだけで、実琴の理解が追いついていないのに気づかない。慶人が助け船を出す
「順を追って説明して。そもそも、なんで彼の部屋に行ったの?」
「ええと、俺、ミコちゃんのストーカーの写真撮って。ほらこれ」
 楓はつい数十分前に撮った写真を見せる。実琴はスマホをのぞき込んでくる。
「どうしたの、これ」
「今日、ミコちゃんと慶人の後をつけるストーカーの後をつけて撮った。それで、ダッシュで逃げて、マンションまで来たら、亨が帰ってきたところだったから、一緒に部屋まで行った」
「なんで俺たちのところじゃなくて彼の部屋に行ったか全く見えてこない説明だね。っていうか、ストーカーをストーカーとか危なすぎるよ」
 慶人の言うことはもっともだ。楓はうつむいてスマホを握りしめる。
「ミコちゃんの役に立ちたい一心だったんだ」
「気持ちはありがたいけど、僕は楓が危ない目に遭うのは嫌だよ。伊崎くんの言ってた『写真撮ったとき顔見られた』っていうのはそのこと?」
 頷いて、電源ボタンを押し、画面の明かりを付けたり消したりする。
「たぶん。亨にストーカーの写真見せたら、なんか知ってる人っぽい反応だった。で、どっかに電話かけた後に、明日出かけるって言い出した。それから、このマンションに近づくなとか、その辺うろちょろすんなとか命令してきて、そのあと帰れって言われた。超感じ悪いんだけど、なにあれ。質問しても、急いでるって言って答えてくれないし。今まで優しかったのにおかしい。やっぱ俺のこと嫌いになったの?」
「……まあね。俺は桜から楓のことよく相談されてたからだいたいわかったけど、ミコは混乱してるみたい」
「うん。全然わかんない。伊崎くんとは部屋に遊びに行くほど仲良しってこと?」
 そこで、彼らにこの話をする上で重要な前提を伝えていなかったことを思い出した。
 突然の発情期が来たときに心配させたこともあり、それがきっかけで発展した亨との関係については、とても話しづらかった。それに、実琴は亨に悪い思い出があるから、反対されるかもしれない、とも思った。
「ごめん……。言ってなかったけど、去年の年末から付き合ってるんだ、亨と」
「え……、えー!? 友達としてじゃなくて恋人ってことだよね?」
 実琴は口を両手で覆う。相変わらず可愛い。
「うん」
「ミコ、ナイスリアクション」
「慶人は知ってたの?」
「桜情報とその他状況証拠を総合してって感じ?」
 あのお喋りババアめ、と内心で悪態をつく。
「あいつ、何を言ってやがったんだよ」
「楓がよそにお泊まりしまくってるとか、部屋で電話してるときに『とおるとおる』って言ってたとか、弁護士費用を立て替えてもらったみたいだとか」
「筒抜けじゃねえか! てか盗み聞きしてやがったのか、ババア!」
「ああ、質問がいっぱいあって追いつかない……」
 額を押さえて寄りかかってきた実琴を、慶人はよしよしと撫でる。
「まあまあ、それはおいおいでいいじゃない。目下の問題は、ストーカーの件をどうするかってことだよ」
「亨はストーカーをどうにかしようとしてるのかな」
「ストーカーの写真を見た後にいろいろ行動し始めたのなら、そういう感じがするよね。知り合いみたいだったのなら、説得しに行ったとか?」
「じゃあ、なんで何にも話してくれなかったんだろう。明日どこに出かけるんだろう」
「そういえば……。明日、俺は休日出勤の予定なんだけど、伊崎くんもそうだったんじゃないかな。メンバーに名前があった気がする」
「今日じゃないけど、前に土曜日午前出勤だって言ってた。午後からどこか行くのかな?」
「うーん。全然わかんないねえ」
 そうだ。わからないことだらけだ。亨が何をしようとしているのかも、なぜあんなに苛立っていたのかも。
 もしかして、苛立っていたのはあのストーカーが知り合いだからか? 楓だって身内や友達がストーカーをしているなんて知ったら、動揺して他人に気を遣う余裕なんて見せられないかもしれない。
 そう。少し考えれば理解できるだ。亨はただ狼狽えて、楓のことにまで気が回らなかっただけなのだ。それなのに、楓は子供のように腹を立て、彼をいたわることもできなかった。それどころか、あんなにひどいことを言ってしまった。見合い話については誠実に対応してくれたはずだ。楓が一人で引きずって不安がっていただけ。それに、彼は楓がオメガなのを知って付き合ってくれているのに、半分しか女じゃないのが不満なんだろうというようなことを言って、今更騒ぐなんておかしい。
 これまでずっと性別のことで好奇の目で見られて生きてきた。その中で溜まっていた鬱屈とした気持ちを、彼にぶつけてしまったのだ。
 謝りたい。謝らないといけない。今日の様子だと確実に怒っているだろうが、なんとか許してもらわないと。今の楓の生活から彼がいなくなるなんて考えられない。謝って、我が儘を控え目にして良い子にしていると言えば、どうだろう。それで許さないと言われれば、どうすればいい? 楓に差し出すものがあるか?
 この日は実琴たちのところに泊まることになったが、心の靄は濃くなるばかりで、悪い想像ばかりが頭を駆け巡り、なかなか眠れなかった。

 翌朝、目を覚ますと九時を回っていた。他人の家なのに、完全に寝坊だ。
 このマンションは3LDKなのだが、三部屋のうち一部屋は住人二人の寝室、もう一部屋は慶人の衣装部屋、残りの一部屋が実琴のジグソーパズルやナノブロックの作品をしまうための物置になっていて、昨日はその物置の空き場所に布団を敷いてもらって寝た。悩み事の他に、実琴の大事なコレクションに寝ぼけてぶち当たらないかという心配もあり、緊張が眠りを妨げた。
 ちなみに、亨のところでは、三部屋は寝室、パソコンやよくわからない機材が置かれている作業部屋、これまたよくわからない絵や小ぶりの彫刻のようなものが保管されている倉庫、という使い方がされている。あの寝室であの匂いに包まれて眠りたかったが、喧嘩中では無理な話だ。
 あくびを連発しながらリビングに行くと、実琴と、なぜか桜が座ってくつろいでいた。慶人はもう仕事に出たのだろう、いない。
 元カレの家に上がり込むとか正気か、この女。しかも元カレ不在で元カレの今カレがいるのに。
「おいババア、なんでいんだよ」
「朝からご挨拶ね」
 桜はこちらに目をやり、手を振った。実琴はそんな桜に気を悪くしている風もない。
「おはよう、楓。慶人がもう出勤しちゃってさ。僕一人が楓を送っていくのは危ないって慶人が言うから、桜さんに来てもらった」
 実琴が呼んだのか。ならば桜がここにいるのも納得できる、……いや、できない。
「ミコちゃんが送るのは危ないってのは同意だよ。ストーカー怖いし。でも、なんでババア? 俺、ババアに守られるの? いくらなんでもババアより戦闘能力あるわ。そもそも一人で帰れるし」
「あんた、さっきから何回ババアって言うのよ! そんなだから男にも振られるんだわ」
 いつだってこの姉は楓の一番痛いところを突いてくるのだ。実琴がいなければ掴みかかっていたかもしれない。
「おい、何聞いたんだ、ババア」
「あんたが彼氏から部屋を追い出されて泣いてたこととか?」
「泣いてねえし振られてねえわ!」
「もう朝からうるさいわね。ストーカーについてはだいたい聞いた。彼氏についてはこの件に関することだけ」
「説明しようにも、僕あんまり知らないし……」
 実琴は腰を上げ、そっと楓に耳打ちする。
「心配しないで。『あのこと』は言ってないから」
 そのままの流れで、彼はキッチンに向かった。
 あのことというのは、去年九月、突然の発情期が来てしまった日のことだろう。以前楓が口止めした。一ヶ月に一回の注射を忘れて発情期が来てしまい、ノリノリでアルファをベッドに引っ張り込んだなんて聞いたら、桜は目の色を変えて怒るに違いない。
 キッチンから実琴が問う。
「楓、朝ご飯食べるでしょ? 味噌汁があるから、ご飯でいい?」
「うん。ありがと」
 朝から大好きな実琴のご飯を食べられても、やはり楓の心は晴れなかった。

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