(2)君とストーカーと僕

 首をひねりながら、封筒と便箋を亨に返す。
「で、結局なんなの、これ」
「だから釣書。見合い相手の自己紹介的な?」
「見合い? お前見合いすんのか?」
 元カノよりはるかに重大な問題ではないか。見合い? 見合いするってことは結婚する? 亨が? 頭から冷水浴びせられる、というより氷をぶつけられた気分だった。
 頼むからまた否定して、と祈るように見つめると、彼は首を振ってくれた。
「しねえよ。断った。これ捨てんのも怖いし、送り返すつもり」
「お前、まだ三十にもなってねえだろ。それで見合いせっつかれるの? 早くね?」
「さあ。これもどうせ兄貴が断ったか断られたかしたやつだろ。そういえばあの家弟もいたよなって、その程度のことだと思うよ。……隠されてた方がよかった?」
「……いや、あんまり知りたくはなかったけど、隠されてるのも気分悪い」
「だと思って言った。堂々と言えんのは何にもないからだぞ」
「そっか。……そっか」
 写真を見てしまった以上、下手に誤魔化されるより誠実な態度だと思うが、写真の女と亨が並んでいる姿をうっかり想像してしまい、気分が沈む。絶対に渡したくない。一日会えないだけでも寂しくなるのに、彼が楓の前からいなくなるなんて考えられない。もしかして、これが重いということ? でも、気持ちを軽くするやり方なんて、楓は知らない。
 ソファでくつろぐ彼ににじり寄って足に抱きつく。
「どうしたの。俺、浮気はしないって言ったろ」
「覚えてるよ。別に気にしてない。正直に言ったのは偉かったぞ」
 マーキングするように膝あたりに頬をこすりつけると、彼は楓の頭をぽんぽんとたたいた。
 もう話題を変えよう。気分の悪い話は引きずりたくない。何かあったか。そうだ、さっき初めて聞いた情報があった。
「亨、兄ちゃんいたんだな」
 これまで彼から家族の話を聞いたことはなかった。社会人になって親元を離れると、関係が希薄になって、わざわざ話題にすることもなくなるのだろうと思う。特に必要に迫られることもなかったので、楓から尋ねたことはなかった。
「ああ。もうずっと会ってないけど」
「仲悪いのか?」
「親の葬式以外で会いたくないくらいには」
「相当じゃん。うるさいの? うちの姉ちゃんみたいに」
「桜さんは良い姉ちゃんだろ。うるさく言うのはそれだけ弟が心配なんだよ。お前だってわかってんだろ」
「うん……、まあ。亨はどうしたの? 喧嘩した?」
「そういうレベルの話じゃない。もういいだろ。あいつのことは。せっかく楓といるのに、あいつの顔なんか思い浮かべたくない」
 めずらしく不機嫌な物言いだった。家族の話、特に兄の話は彼にとって鬼門なのかもしれない。これからは気をつけよう、と心の中でメモを取る。
 楓は彼の足の間に身体を割り込ませると、膝立ちになって見上げた。
「機嫌直せよ」
「怒ってないけど」
「うそだね。元気出ることしてやるよ」
「……へえ。何してくれんの?」
 彼の口の端に好色な笑みがちらりと浮かぶ。乗ってくれるつもりはあるようだ。ご期待にはお応えせねば。
「いいこと」
 彼の手を取って手の甲に音を立てて口づけると、彼の部屋着のズボンのウェストに手を掛けた。
 初めの頃に比べ、ずいぶん上手になったと思う。そうだろうと問うように、咥えながら上目遣いになる。可愛くてエロくて最高だね、とお褒めの言葉をいただいた。

 会っているときはまだいい。無駄話をしていると気が紛れるし、セックスで彼を夢中にさせると安心できる。でも、一人になると途端に不安が襲ってくる。
 あの写真の女——、釣書とやらの。
 亨は元々女が好きなのか? あの美女のような。しかし、発情期にあてられたというのでなくても楓を抱くし反応するし、それなら元々男が好き?
 女が好きなのだとしたら、楓は半分しか女じゃないし、そもそも見た目は完全に男。男が好きなのだとしたら、腹の中は半分女。どちらにしろ抵抗はないんだろうか? フェロモン的な何かで今は誤魔化されていたのだとしても、そのうち目が覚めないか? やっぱり完全な女の子がいいとか言い出さないか? それであのとき見合いしておけばよかったって思うのだ。あの釣書なるものは、楓の思っていた以上に楓の心の重しになっていた。
 振られたくない。別れたくない。楓以外の誰かが、あの部屋の彼の隣で笑っているなんて、あのベッドで彼に愛されているなんて、考えるだけでこんなにつらいのに、実際そうなったらどれだけ苦しいんだろう。
 証がほしい。楓が彼のもので、決して手放されることがないという証が。合鍵も合鍵でうれしかったのだが、そんな替えのきくものではなくて、魂まで縛って離れられなくなるくらい強固なもの。具体的にそれがどういったものなのか聞かれると、よくわからないのだが。
 仕事に身が入らない。自分で自分の頬を張って気合いを入れ直した。

 翌週金曜日。ストーカーの尾行は続いているようで、実琴は日に日に元気をなくしていった。警察は見回りはしてくれるものの、それだけだ。手っ取り早くストーカーを引っ捕らえて警察に突き出すことができればいいのに。引っ捕らえる……、のは無理でも、楓にも何かできるかもしれない。世話になっている実琴が悩んでいるのを、このまま見ているしかできないなんて嫌だ。
 もやもやした気持ちを忘れるためにも、楓は必死に策を練った。亨に近づくなと言われていたし、他の誰に相談しても危険だと反対されるだろうから、一人でだ。考えに考えた末、自分でもできそうで、そう危なくもなさそうなことを思いついたので、早速実行に移すことにした。
 この日、慶人は帰りが早く、実琴を迎えに来た。彼らを見送った後、作戦開始。楓はこっそり二人の後をついて行く。念のため、痴漢撃退スプレーは持ってきている。いざとなればこれをシューッと吹き付けてやれば大丈夫。……多分。
 すっかり探偵気分で実琴たちの周囲を観察していると、幸先よく開始一分くらいで、物陰に隠れながら実琴たちの方を凝視している怪しい男を発見した。例のスーツにサングラスとつば広帽子を装着した不審者だ。夜でもこの装備。ますます怪しい。
 楓は男が街灯の下を通るときを狙い、スマホで写真に撮った。これでは個人を特定するのは難しいだろうから、サングラスと帽子、せめてサングラスだけでも外したところを撮りたい。どうやったら外してくれるか。ペンキをぶっかけるとか、痴漢撃退スプレーを浴びせるとか、いろいろ考えたが、こちらが犯罪者になりそうので、ここは水にしておく。水でサングラスが濡れると前が見えなくなるから、取らざるを得なくなるだろう。男の素顔の写真を撮って、警察に持っていって、ストーカーを捕まえるための参考にしてもらうのだ。我ながらなんて妙案。
 この日のために用意した水鉄砲を尻ポケットから引き抜く。水は先ほど事務所で充填しておいた。足音を忍ばせ気配を消し、そっと男との距離を詰める。——しかし。
「……あ」
 男が突然振り返った。サングラス越しだが、目が合ったのはわかる。本能で危険を察知し、咄嗟に逃げることを選択した。事務所と反対方向、駅に向かって走り出す。ここは表の通りを一本入った通りで、今は通行人がいない。実琴たちの姿もいつの間にか見えなくなってしまっている。捕まればまずい。ストーカーなどするやつは普通の神経ではないから、何をされるかわからない。
「待ってください!」
 男が追ってくる。そういえば、痴漢撃退スプレーはどこに入れたのだったか。リュックの中か? すぐ出せない。どうしよう。
 ——ヤバいヤバいヤバい。
 なんとか早く大通りに出なければ——。そのときだった。
「うわあ!」
 背後でものが倒れる大きな音がした。振り返ると男が転倒している。なんということか外れたサングラスが脇に飛んでいて、帽子がずれた状態だ。
 もしやこれはチャンスではないか。これを逃す手はない。男がうめきながらが上体を起こし、顔が見えた瞬間を狙ってフラッシュをたいて連写した。
 さぞかしまぶしかろう、男は腕で目をかばう。顔が隠れればもう撮る意味はない。楓は踵を返し、再び走り始める。水鉄砲は邪魔なので途中で捨てた。
「待ってくださあーい!」
「誰が待つかバカヤロー!」
 男の悲痛な叫びを聞いてやれる訳はない。実琴たちのマンションに向かって全力疾走した。

 マンション前まで来たが、途中で実琴たちには会わなかった。もう部屋に入ったのだろうか。このまま彼らのところに逃げ込んで成果を報告したい。
 もう目の届く範囲に男の姿はなかったが、念のため背後に警戒しながらエントランスに入ったところで、今帰ってきたところらしい亨とばったり会った。いつもは九時になるのもめずらしくないのに、今日はずいぶん早い。慶人もだし、今日は会社全体がそういう日なのか。予定を変更することにしよう。
「ちょうどよかった。匿ってくれ」
「は?」
「中で説明するから」
 彼の腕をぐいぐい引っ張る。
 部屋のリビングに着いたところで、楓は興奮気味に言った。
「聞いてくれよ! 俺、やったんだよ!」
「何を?」
 亨はお疲れの様子で、ジャケットを脱ぎながら生返事をする。だが、楓の戦果を聞けば、態度を一変させるに違いない。
 スマホを取り出し、先ほど撮った写真を呼び出す。
「見て見て」
 ぶれているものも多いが、はっきり顔のわかるものが何枚かあった。驚愕の表情を浮かべる男。細面がどこか神経質そうで、意外と若く見える。三十代半ばというところだろう。もっとおじさんかと想像していた。
「ミコちゃんのストーカーだよ。ストーカーをストーカーして撮った。これを警察に提出すれば対応してもらえそうじゃん?」
「……」
 したり顔の楓には答えず、亨は楓からスマホを取り上げ、画面を凝視する。
「なんでこいつが……」
「え、知り合い?」
「こいつが動いてるってことは、まさか……」
 彼はぶつぶつと何事かをつぶやき、スマホを楓に押しやると、自分のスマホを取り出す。それでどこかに電話をし始めた。楓は完全に放置である。
「……俺だよ、亨だけど。いや、その事じゃない。……ああ、もうそんなことはいいから。今、タケツカサどうしてる? いいから教えて。出てる? ミツルの用事で? ……そうか。じゃあミツルは? 普通に仕事してるってことか。 ……え? そんなのわかんないよ。ごめん。急いでるから切るわ。また」
 口調からして電話の向こうにいるのが親しい相手なのはわかるが、一体何の要件なのか、なぜ今かけなければいけないのか、見当も付かない。
 亨は電話を切った後、ダイニングのテーブルでスマホをいじり出す。何かネットで調べもののようだ。彼に楓の疑問を解決する気はないようだったので、自分から聞くしかない。
「……え、なんなの。どうしたんだよ」
「俺、明日から出かけるわ」
「……どこへ?」
「ちょっと野暮用だよ」
「なにそれ。いつ帰ってくるの?」
「いつ帰れるかはわかんない。土日とも無理かも」
 では土日とも会えないということか。休日は一日中一緒にゆっくり過ごせる大事な時間なのに。付き合い始めてから土日両方駄目なんてことはなかった。
 そもそも明日の土曜日は午前中休日出勤だと言っていたように思う。仕事の後に何か用事があるのか。何の用事? この写真を見た後に、なぜそんなことを言い出したのか。
「どこ行くんだよ。この写真と関係あることなのか? これ誰?」
「……ごめん。少し黙っててくれる? 忙しいから」
 彼は画面に目を落としたままこちらを見もしない。楓に構うより大事なことなのか。楓だって会えないからって駄々をこねるつもりはない。少しの間、向き合って答えてほしいだけだ。
 しかし、彼は一方的に要求を突きつけるだけ。
「あ、そうだ。お前しばらくここには来るな。泉田んちも駄目。このマンションには近づくな。あんまり不用意にその辺うろちょろすんのもやめろ。俺がいいって言うまでおとなしくしててくれ」
「……え、なにそれ。なんで?」
「今説明してる時間ない」
「いきなりそんなこと言われても、説明してくれなきゃわかんねえだろ! だいたい、ストーカーされてるのはミコちゃんであって俺じゃない。なんでおとなしくしてなきゃいけないの?」

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